第二十九話
本格的な真夏を迎えた港街プエルト・エスぺランサは、降り注ぐ陽光は海面をきらめかせ遠く水平線まで続く青い空には白い雲がゆったりと流れる。
陸から吹く熱い風も港に近づけば潮の香りを帯びた爽やかな風に変わり、人々の肌を優しく撫でていく。
この季節は、漁師たちにとってまさに恵みの時であった。
連日網には銀色に輝く魚たちが大量にかかり、港には活気ある掛け声が響き渡る。
市場には獲れたての新鮮な魚介が山と積まれ、色とりどりの貝やまだ跳ねる魚たちが、訪れる人々の目を楽しませていた。
早朝から港はすでに喧騒に包まれていた。
漁船が次々と帰港し、威勢の良い声が飛び交う。
魚を運ぶ荷車の軋む音、カモメの鳴き声、そして市場で品定めをする人々のざわめきが混じり合い街全体が生きているかのように脈打っていた。
そんな賑わいの中心で、クララもまたいつものように自分の店先に立っていた。
彼女の周りには、色鮮やかな夏野菜や瑞々しい果物が山と積まれている。
朝日に照らされたトマトは真っ赤に輝き、キュウリは青々と、そして桃は甘い香りをあたりに漂わせている。
クララは、持ち前の明るい笑顔と張りのある声で客引きをしていた。
「いらっしゃいませ。今朝採れたばかりの、瑞々しいお野菜はいかがですか」
「奥様、今日の果物は格別でございますよ。どうぞご覧になっていってくださいませ」
クララの声が響く。
「あら、クララさん。今日も素敵な笑顔ですね。このトマトは本当に美味しそう」と、奥様は目を輝かせた。
「ありがとうございます、奥様。今朝採れたばかりで、太陽の恵みをたっぷり受けております。サラダにしても、煮込みにしても、きっと美味しく召し上がっていただけますわ」
「そうですね、じゃあこれをいくつか頂こうかしら。それに、そこの桃も一つ」
「かしこまりました。桃も甘くて瑞々しいと評判でございます。どうぞ、ごゆっくりお選びくださいませ」
クララの周りにはひっきりなしに客が訪れ、活気あるやり取りが続く。
市場のあちこちからは喜びの声が聞こえてくる。
「今日は魚がたくさん獲れたってね。久しぶりにご馳走が食べられると、子供たちが喜んでるわ」
「ええ、本当に。こんなに活気があるのは久しぶりだね」
「税金は相変わらずだけど、それでも収入が増えたから、ちょっとは贅沢できるようになったよ」
「ああ、本当に助かるわ。見てごらんなさいあそこのパン屋さん、新しいパンを焼いているわよ。いい匂いがするわね。うちの子も新しい服を買ってあげられると喜んでいるのよ」
「本当ね。こんなに賑やかな市場はいつぶりだろうねぇ。みんな、顔色が良くなったみたいだわ」
そんな賑やかな市場の片隅で店番をしていると、クララの目に遠くから賑やかな声が聞こえてきた。
目を向けると、カイエンが数人の女性を侍らせすでに酒を飲んでいるのか顔を赤らめて大通りを練り歩いているのが見えた。
女性たちは派手な身なりで嬌声を上げながらカイエンにまとわりついている。
クララは思わず眉をひそめた。
朝から酒を飲み、女性を連れて練り歩くなどまるで街の恥さらしだ。
しかしカイエンはそんな周囲の視線など気にも留めず、大声で笑いながら通り過ぎていった。
昼過ぎ、陽だまり亭もまた夏の活気に包まれていた。
アリアやマチルダはフロアを忙しく動き回り客の注文を取り、出来上がった料理を配膳し、空いたテーブルを素早く片付けていく。
その間にも厨房からは注文が飛び交う。
「魚のソテー、一つ」
「野菜のグリル、大盛り」
ハンスは真剣な眼差しで、しかし心底楽しそうに調理に腕を振るっていた。
カウンターではゼックが、フロアと厨房の橋渡し役として臨機応変に立ち回る。
彼はアリアたちから注文を受け取ると素早く厨房に通し、出来上がったばかりの熱々の料理を配膳係に手渡していく。
涼しげなハーブをふんだんに使ったさっぱりとした飲み物も、喉を潤すために多くの客に求められていた。
昼時ともなれば店は客でごった返し、アリアは休む間もなくカウンターとテーブルを行き来する。
それでも彼女の顔には疲れの色は見えず、むしろ充実した笑顔が浮かんでいた。
冷たいレモネードを運ぶ途中、ふと視線を向ければ店の片隅でアルトが友人たちと楽しそうに笑い合っている。
その無邪気な笑顔を見るたびに, アリアの胸には温かいものが込み上げてくる。
この街にどれほど苦難が押し寄せようとも、決して消えることのない希望の灯火が確かにここにあるのだと彼女は改めて感じていた。
しばらくすると、アルトがジャンたち友人と顔を見合わせ、店の外へ遊びに行こうと立ち上がった。
その様子を見た店内で食事をしていたジャンの両親が声をかける。
「ジャン、お友達と遊ぶならドラグさんの目の届く場所で遊ぶのよ。危ないことはしないこと」
その声に、陽だまり亭の用心棒であり守護者であるドラグが出入り口で警備をする中、こくりと小さく頷いて見せる。
アルトとジャンたちがドラグのそばにやってくると、彼は一人一人の頭を優しく撫でながら注意を促した。
「アルト、お前たち、よく聞けよ。危ないことは絶対にするな。怪我だけは気をつけろよ。それから、遊ぶのは店の前の、この広い通路だけだぞ。わかったな」
ドラグは一人一人の顔をしっかりと見つめながら、諭すように言った。
子供たちは元気よく返事をすると、店の前の広めの通行路で遊び始めた。
その陽だまり亭からもカイエンの一行が出てきた。
彼はすでにかなり酔っているようで、女性たちに肩を支えられながらふらふらと歩いている。
「おい、次はあそこの酒場だ。今日の俺は、とことん飲むぞ」
カイエンはそう叫ぶと女性たちを引き連れて、陽だまり亭の向かいにある別の酒場へと入っていった。
その後も、彼は次々と店をはしごし街中にその放蕩ぶりを晒していた。
しかしその市民のささやかな喜びの裏で、侯爵は夏の活気を新たな搾取の機会と捉え冷酷な目を光らせていた。
彼は、港の漁獲量に対する税を大幅に引き上げる代わりに漁獲量の規制や、漁に出る際の締め付けを一時的に緩めるという政策を打ち出した。
「税を上げるだと……これ以上、どうやって生きていけばいいんだ」
「規制を緩める。そんなもの、どうせもっと獲らせてその分税金で巻き上げるつもりだろう……」
漁師たちの間からは諦めと怒りの声が漏れた。
一見すると、漁師たちにとっては朗報のようにも思えるが実際は、より多くの魚を獲らせその分だけ税として巻き上げるための巧妙な罠であった。
さらに、商品や物資の交易に関しても今まで課していた厳しい条件を緩和することで、これまでの圧政でなんとか生き残ってきた店々が一時的に商品が潤い、客足が以前より増えることで従業員を雇うなど街の経済が活性化されているかのように見せかけた。
その裏で侯爵は自分たちに都合のいい新しい交易ルートを開拓し、港の利用を特定の目的に限り容易にすることでさらなる私腹を肥やす新たな悪行を次々と開始した。
侯爵の執務室では、彼は冷徹な視線で部下たちに指示を出していた。
「良いか、この新たな交易ルートは我々の利益を最大限に引き出すためのものだ。些細な抵抗も許さぬ。港の警備をさらに強化し、我々の意に沿わぬ者は徹底的に排除せよ。」
彼の声は低くしかし有無を言わせぬ響きを持っていた。
これらの政策は侯爵によって美化され、王国に対しては港湾資源の効率的な管理街の経済活性化、生態系の管理、流通経路の見直しといった名目で報告された。
その報告書には、あたかもプエルト・エスぺランサの街が繁栄に向かっているかのような虚偽の数字と、見せかけの成功例が並べ立てられていた。
そして、これらの改革を推進するための費用として侯爵は王国から莫大な追加給付金を得る口実として利用していたのである。
その裏で、侯爵の悪行はさらに陰惨なものへと深化していた。
救済の館と称される施設に収容された人々は、名ばかりの救済とは裏腹に侯爵の利権に関わる採掘場や建設現場で、不当に過酷な労働を強いられていた。
そこでは、まともな食事も与えられず病に倒れる者が後を絶たない。
そして、時折、館から姿を消す者がいるという人身売買の噂も街の闇に囁かれ始めていた。
侯爵に忠実な警邏隊員たちは、これらの新たな悪行の執行に厳しく当たっていた。
彼らは侯爵の命令を忠実に果たし街の隅々まで目を光らせ、わずかな反抗の兆しさえも容赦なく摘み取っていく。
しかし警邏隊の中にはレオンハルトのように正義の心を持つ者もいた。
彼らは、侯爵の非道な政策とそれに伴う人々の苦しみを目の当たりにし、内心深く反発していた。
表立って行動することはできないものの、彼らの間では密かに情報が共有され、いつか侯爵の悪事を暴く機会を伺う静かな抵抗の炎が燻っていた。
そんな街の状況の中、アルトは夏の活気の中で侯爵の不正に関する新たな手がかりを見つけ始めていた。
ある早朝、アルトはゼックとハンスの買い出しについて港へ向かった。
まだ薄暗い時間帯、港の隅に普段見慣れない不審な船がひっそりと停泊しているのが見えた。
その船は、通常の漁船とは異なり黒い帆を張り、船体も煤けたような色をしていた。
積荷の様子も通常の漁獲物とは違う、大きな木箱が運び込まれているように見えた。
その木箱には、葉っぱと花の刺々しい奇妙なマークが刻まれているのが幼いアルトの目にもはっきりと映った。
また、特定の貴族や商人の紋章を掲げた不審な船や、漁船とは明らかに異なる構造の船が、人目を避けるように夜陰に紛れて港に着くようになりその度に厳重な警備の下、謎の荷物が運び出されているのをアルトは何度か目撃していた。
数日後、アルトが街でジャンたち友人たちと遊んでいる最中不意に見慣れない男が通りを横切った。
その男はどこかの貴族の使いらしき身なりをしており、抱えた大きな革袋には早朝に港で見たあの葉っぱと花の刺々しいマークが刻まれているのが見えた。
アルトは思わず立ち止まり、その男の背中をじっと視線で追いかけた。
港での不審な船、そしてこの奇妙な男。
幼い彼の心に漠然とした不安と、奇妙な符合への疑問が募り始めていた。
港での不審な船や、奇妙なマークの男を目撃して以来アルトは漠然とした不安を抱え続けていた。
その不安に突き動かされるように、彼は時折救済の館の近くまで足を運ぶようになっていた。
ある日、館の周りをうろついていると薄汚れた塀の向こう、荒れた庭で清掃作業をさせられている人々の姿が見えた。
その中に、スラムで共に過ごした友人の顔や、陽だまり亭に来てから文字を教え合った同じ年頃の友人の姿を見つけたアルトは、思わず息をのんだ。
彼らは痩せこけ、その目には生気がなく、重い足取りで作業を続けている。
アルトはなんとか声をかけようと塀の陰に身を潜めた。
その時、巡回中の警邏隊員の一人がアルトの存在に気づいた。
警邏隊員は一瞬鋭い視線をアルトに向けたが、すぐに周囲に他の隊員がいないことを確認すると表情を和らげた。
彼は、アルトの友人たちの作業場所から他の隊員を遠ざけるような動きを見せた。
その一瞬の隙に、アルトは友人たちと短い言葉を交わし彼らの苦境を直接知ることができた。
「坊主こんなところで油を売っていないで、早く街に戻りなさい。ここは、お前が来るような場所じゃない。」
警邏隊員は、周囲には聞こえないような小さな声でそう言いながらアルトの背中を軽く押し、街の方へと促した。
アルトは、その隊員の行動に微かな希望と、この場所の深い闇を感じ取った。
この隊員が自分たちに味方してくれるかもしれないという、かすかな光。
彼がこんなにも露骨に自分を遠ざけようとするほど、この場所が危険で恐ろしい秘密を抱えているという確信だった。
アルトは頷き言われた通り街へと引き返したが、館の闇は彼の心に深く刻み込まれた。
そして、友人たちの苦しむ姿は彼の胸に重くのしかかった。
陽だまり亭に戻ったアルトは、自室の机に向かい最近見る奇妙なマークを紙にスケッチし始めた。
葉っぱと花の刺々しいデザイン。
それは、どこか不気味で彼の心に引っかかっていた。
ペンを走らせる手が微かに震える。
描き終えたスケッチをじっと見つめ、アルトは小さく拳を握りしめた。
このマークを知っている人がいるはずだ。
あの人なら、きっと何か知っているに違いない。
彼の脳裏には、信頼できる数人の大人の顔が浮かんでいた。
そしてさらに数日後、アルトは救済の館にいる友人から密かに手紙を受け取った。
救済の館の塀の一部が崩れていて、そこをうまく隠すことでつたない文字で書かれた手紙を密かにやり取りできるようになっていたのだ。
なんとなく、彼らのやり取りを誰かが助けてくれているような不思議な感覚がアルトにはあった。
何通にもわたる手紙のやり取りを通して、アルトは施設内の様子を少しずつ知っていった。
そこには、子供のつたない文字で生々しい現実が綴られていた。
<壁には赤い跡や黒い跡があるんだ>
<ご飯はね、べちゃべちゃだったり、硬かったり、変な匂いがしたり、じゃりじゃりしたりして、全然おいしくないんだ>
<夜になると、どこからか泣いてるみたいな声が聞こえてきてそれがすごく怖いんだ>
<みんな、お腹が空いてるし、病気になっちゃう人もいっぱいいる>
<時々、急に人がいなくなっちゃうんだ><どこに行っちゃったのか、誰も教えてくれない>
<夜中に、偉そうな馬車が館に来るのを見ることもあるんだ><あとね、この前、変なマークのついた木箱を大人が運んでたよ>
<葉っぱと花みたいな、トゲトゲしたマーク>
具体的な記述はアルトの胸に深い不安と恐怖を植え付けた。
手紙を握りしめたアルトの手は小刻みに震えていた。
その夜、彼はなかなか寝付けなかった。
天井を見上げながら、友人の顔が次々と脳裏に浮かび彼らが苦しんでいる光景が目に焼き付いて離れない。
どうすればいいのか、誰に相談すればいいのか、幼い頭で必死に考えた。
信頼できる大人たちに話すべきか、それとも自分一人で何とかすべきか。
葛藤が彼の心を締め付けた。
アルトは、その手紙を握りしめ侯爵の悪行が、想像以上に深い闇を抱えていることを直感した。
彼の無邪気な心に、街の未来への不安と友人への強い心配が募っていく。
カイエンが陽だまり亭を訪れる回数は以前と変わらず、しかし以前よりも慎重なうつけ者としてその姿を見せていた。
彼はアリアと、まるで表面だけをなぞるような会話を交わす。
今日の天気の話題、市場の品揃え、他愛もない世間話。
アリアもまた、他の客と変わらない、しかし常連客として彼に接しながらも不況の中でも通い続けてくれる彼の健康を気遣うような視線を送る。
二人の間には以前のような無邪気な親密さとは異なる、互いの立場や秘密を意識したしかし温かい空気が流れていた。
それは、言葉にはならない確かに存在する絆のようなものであった。
アリアは、カイエンがわざとらしく騒ぎを起こしたり、金貨をばら撒いたりするたびに、彼の心の奥底にある街を憂う感情を微かに感じ取っていた。
ある日カイエンは陽だまり亭のカウンターで、いつものように大声で笑いながら酒を飲んでいた。
しかし、ふとした瞬間に彼の表情に深い憂いがよぎるのをアリアは見逃さなかった。
彼は、グラスを傾けながら遠くを見つめるような目をしていた。
そして、誰も聞いていないかのように小さく呟いた。
「まだ足りないよな……」
その声はいつもの放蕩なカイエンからは想像もできないほど、深く、そして悲しみに満ちていた。
夏の穏やかな陽光の下プエルト・エスぺランサを覆い尽くすラモン侯爵の悪意は、もはや影ではなく、街の根幹を蝕む毒と化していた。
カイエンがうつけ者の仮面の下に隠し持つ街への深い憂いは、彼自身を追い詰める刃となりやがて避けられない行動へと彼を駆り立てる。
そして、侯爵の新たな圧政はささやかな生活をも容赦なく破壊し、その街に住む人たちの間に絶望の淵を広げ始める。
幼いアルトが救済の館で垣間見た闇は、彼の心に拭い去れない恐怖を刻み込みそれは街全体を飲み込む恐るべき真実の序章に過ぎなかった。
希望と絶望が交錯する夏の空の下、彼らの運命は絡み合い破滅へのカウントダウンが静かに、しかし確実に響き始めていた。
読んで頂いて有難う御座います。
大事なお時間を頂きました、
中々更新ペースや時間が安定しませんが必ず続けますので、
作品内の間違いなど何かありましたらご遠慮なくご連絡ください。




