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第二十七話

 意識がゆっくりと浮上する。

 まず感じたのは、全身を覆う重い倦怠感と、左脇腹にじくじくと響く鈍い痛みだった。

 瞼の裏にぼんやりと光が滲み、微かに薬草の独特な香りが鼻腔をくすぐる。

 ここは、見慣れた別邸の自室の天井だ。

 だが、その感覚よりも先に脳裏へ焼き付いた熱い記憶が、カイエンの心臓を激しく打ち鳴らした。

 熱に魘され苦しむ中で感じた誰かの温かい手の感触、優しい声、そして衝動的に引き寄せた腕と、甘く切ない唇の温もり。

 掌に残る微かな熱と、唇の確かな感触が、それが単なる夢ではなかったことを告げていた。

 その事実にカイエンの胸に冷たい氷塊が落ちたかのような衝撃が走り、全身の血の気が引くのを感じた。


「カイエン様、お目覚めになられましたか」

 マヌエルはカイエンの意識が戻ったことに気づくと、安堵と喜びを滲ませた声で呼びかけた。

 その声は、心底から彼の回復を喜んでいるのが分かりカイエンは微かに胸を締め付けられた。


 掠れた声で、カイエンは呟いた。

「マヌエル」

 喉がひどく渇いている。

 マヌエルはすぐに水差しから水を注ぎ、カイエンの口元に持っていった。

 冷たい水が喉を潤し、少しだけ意識がはっきりする。

 全身の倦怠感は相変わらずだが熱の苦しさは和らいでいる。


「ご気分はいかがでございますか。熱はだいぶ下がりましたが、まだ傷口が……」

 

 マヌエルはカイエンの額に触れ、その熱が引いていることを確認すると安堵の息をついた。

 彼の顔には、数日間の看病で溜まった疲労の色が滲んでいる。


 カイエンは、ゆっくりと首を横に振った。

「ああ、大丈夫だ。それより、俺はどれくらい眠っていた」

 意識が朦朧としていた間の記憶は、断片的で曖昧だ。

 しかし、アリアの存在だけは鮮明な熱を伴って残っていた。


「丸一日と半日ほどでございます。この二日間カイエン様は高熱に魘され、ご自身の傷口も深く、我々も大変心配しておりました。レオンハルト様も、カイエン様を邸に連れてきてからずっと傍についておられましたが、陽だまり亭のアリア様が、一晩中付きっきりで看病してくださいました」

 マヌエルの言葉にカイエンの心臓がドクリと跳ねた。

 やはり、夢ではなかった。

 アリアがここにいた。

 一晩中、自分を看病してくれていた。

 その事実が彼の胸に重くのしかかる。


 アリアがここにいたという事実にカイエンは内心で驚きを隠せない。

 なぜ彼女がこの場所にいるのか、その理由を測りかねた。

「アリアが、なぜ、ここに……」

 カイエンは、努めて平静を装いながら尋ねた。

 喉の奥で、微かに声が震えるのを自覚する。


 マヌエルは、カイエンが街のならず者と争い深手を負われたのを目の前で見て、アリアがドラグを伴って見舞いに訪れた経緯を詳しく説明した。

「カイエン様が街のならず者と争い、深手を負われたのを目の前で見ていたアリア様が、ドラグ様を伴って見舞いに来られました。特にアリア様は、カイエン様がご自身を庇って負傷されたことで、ひどく心を痛めていらっしゃるご様子で。ご自身で看病を申し出てくださり、一晩中、献身的に付き添ってくださいました。清楚な布で身体を拭い、ずっと傍にいらっしゃいました」

 マヌエルの言葉はカイエンの胸に重くのしかかった。

 アリアが献身的に看病してくれたという事実は彼にとって喜ばしい反面、自身の秘密が露見したのではないかという不安と彼女を危険に巻き込んでしまったのではないかという後悔の念を募らせた。

 あの感触は、紛れもなくアリアのものだったのだ。


 彼の心に、一つの疑念がよぎる。

 もしかすると、自分の正体が彼女に露見してしまったのかもしれない。

 意識が朦朧とする中で、衝動的に彼女を引き寄せキスをしてしまったこと。

 アリアは自分がヴェールとして負った傷を見て、気づいてしまったのではないか。

 身体の傷は、消せないし変えることは出来ない。

 もし、彼女がそれに気づいてしまったとしたら。

 その思考はカイエンの脳裏を駆け巡り、冷や汗が背中を伝った。


 マヌエルは、アリアがどれほど真剣に看病してくれたかを語り続けた。

「アリア様は、それはもう献身的でございました。熱い布を取り替え、汗を拭い、一晩中、片時もカイエン様のお傍を離れようとされませんでした。レオンハルト様も、カイエン様を邸に連れてきてからずっと傍についておられましたが、アリア様の真摯な看病ぶりに感心しておられました。カイエン様の容態が安定した日の夕方名残惜しそうにお帰りになられましたが、意識がまだ戻っていないカイエン様の傍を離れるのはとても悲しそうでしたよ」


 マヌエルの言葉はカイエンの不安をさらに煽った。彼女がそこまでしてくれたのは単なる恩義からではないのかもしれない。

 もし、彼女が自分の秘密に気づいてしまったとしたら、彼女を危険に晒すことになる。

 そして、何よりも、彼女の純粋な心を傷つけてしまうかもしれない。

 ヴェールとしての活動は、常に危険と隣り合わせだ。

 もし、アリアがその秘密を知ってしまえば、彼女もまた侯爵やその手先から狙われる可能性が出てくる。

 それは、カイエンが最も避けたい事態だった。


 カイエンは、決意した。

 この記憶は、決して口にしてはならない。

 アリアがもし気づいていたとしても、自分はあくまで「うつけ者」のカイエンとして振る舞い彼女の疑念を晴らすしかない。

 それが、彼女を守る唯一の道だ。

 この秘密を抱え続けることが、どれほど重い十字架となるか彼は痛いほど理解していた。


 数日後、カイエンは陽だまり亭を訪れた。

 まだ傷は完全に癒えていないが、無理をしてでもアリアに会う必要があった。

 店の扉を開けるといつものように賑やかな声と、香ばしい料理の匂いが迎えてくれた。

 港街プエルト・エスぺランサの通りは、侯爵の悪政と、それに結託する悪徳商人たちの横暴により日増しに活気を失いつつあったが、陽だまり亭だけは住人のささやかな安息の場所として変わらぬ賑わいを保っていた。

 しかし、その賑わいの裏にはどこか諦めや疲労の色が見え隠れしていた。

 以前はもっと活気に満ちていたはずの市場も、今は閑散とし、多くの店がシャッターを下ろしている。

 人々の顔には、重税と搾取に苦しむ影が色濃く差していた。


 カウンターの向こうには、アリアが忙しそうに働いている姿が見える。

 彼女の動きは以前と変わらず流れるようで、その笑顔も健在だ。

 だが、カイエンにはその笑顔の奥に何か深いものを隠しているように感じられた。


「やあ、アリア。久しぶりだな」

 

 カイエンは喉の奥から絞り出すようにわざとらしく明るい声を出し、いつもの軽薄な笑みを貼り付けた。

 足取りも、いつも通りのふらつきを装う。

 内心では心臓が警鐘のように鳴り響いていた。

 彼女の瞳は、あの夜の全てを知っているのだろうか。

 その答えを探るように彼はアリアの顔色を注意深く伺った。

 

「私が不在の間、君はさぞかし退屈だったことだろう。このカイエン様が戻ったのだからもう心配はいらないぞ」

 アリアは、その声にハッと顔を上げた。

 カイエンの姿を認めると、彼女の顔に安堵と微かな戸惑いが浮かんだ。

 彼女の顔から、一瞬、血の気が引いたように見えたのはカイエンの気のせいではないだろう。

 アリアは驚きに目を見開きカイエンの名を呼んだ。

 

「カイエン様」

 

 アリアはカウンターから出てきて、心配そうにカイエンの身体を見上げた。

 その瞳には深い安堵の色が宿っている。

「お怪我はもう大丈夫なのですか。無理なさらないでください」


「ああ、この通り、ピンピンしているさ」

 カイエンはわざと大げさに肩をすくめ頭を掻いた。


「なに少々羽目を外しすぎて街のならず者どもと少しばかり派手な遊びをしてしまっただけだ。君のような淑女に余計な心配をかけてしまって、実に申し訳ないことだった」


 その時アリアの視線が一瞬彼の左脇腹に止まったのをカイエンは見逃さなかった。

 彼女の瞳の奥には、彼が庇った時の光景が鮮明に焼き付いていることをカイエンは悟った。

 やはり、彼女はすべてを理解している。

 あの夜の記憶が、彼女の心にも深く刻まれているのだと。


「遊んで……ですか」

 

 アリアは、その言葉を繰り返すように小さく呟いた。

 彼女の顔には、深い悲しみがよぎったがすぐにいつもの優しい笑顔に戻った。

 その笑顔は、彼の嘘を受け入れ、秘密を守るという決意を秘めているようだった。

 彼女の瞳が、彼に「大丈夫よ、私は何も言わない」と語りかけているように感じられた。

「とにかく、ご無事で何よりでございます。どうぞ、ご無理はなさらないでくださいね」


 カイエンは、アリアの言葉に内心で安堵の息をついた。

 彼女は何も言わない。

 ならば、自分もこのまま「忘れたふり」を貫くしかない。

 彼女がその秘密を共有し守ろうとしていることを彼は痛いほど感じ取っていた。

 それは彼にとって喜びであると同時に、さらなる重荷でもあった。


 アリアはカイエンの言葉に小さく頷くと少し間を置いて尋ねた。

「カイエン様、本日のご注文はどうなさいますか」

 その声は、いつも通りの丁寧な口調だったがカイエンにはどこか、いつもとは違う響きに聞こえた。

 彼女の心に、以前とは違う感情が芽生えていることを彼は敏感に感じ取っていた。


「そうだな、いつものビール、いや、今日はとびきり旨いウィスキーを頼む。君の美しい笑顔を見ながら飲む酒は、さぞかし格別だろうね」

 カイエンはいつもの調子で威勢よく注文した。

 わざとらしく陽気に振る舞うことで彼女の疑念を払拭しようと努める。


 アリアはにこやかに微笑んだがその手には既に湯気の立つハーブティーと、深皿に盛られたシチューを持っていた。

 煮込まれて肉がホロホロと崩れ、他の具材もとろけるほど柔らかい、ハンス特製のシチューだ。

 カイエンの目をまっすぐに見つめる彼女の瞳の奥には、揺るぎない決意と、深い愛情が宿っていた。

 彼の左脇腹に、一瞬、視線が吸い寄せられるのをカイエンは見逃さなかった。

 あの夜の光景が鮮やかにアリアの脳裏に蘇っていることを悟る。

「かしこまりました。ですが、カイエン様にはまずこちらをどうぞ」

 アリアは、カイエンの前にハーブティーとシチューをそっと置いた。

 その優しい声にはあの夜の感謝と、彼を気遣う深い思いが込められていた。

「この間は本当にありがとうございました。カイエン様のお身体を思って、ハンスが特別に作ってくれました。どうか、ご無理はなさらないでくださいね」


「ほう。ウィスキーを所望したはずだが、これはまた、随分と趣向の凝らされた一杯だな」

 カイエンは一瞬戸惑いの表情を見せたが、アリアの真剣な眼差しと言葉の端々に込められた深い気遣いを前にそれ以上何も言えなかった。

 彼女が自分の秘密を理解し、そして守ろうとしていることをその瞳が語っていた。

 彼の心臓が、温かい感情で満たされるのを感じる。

 同時に、彼女をこれ以上危険に晒してはならないという決意もさらに強固なものとなった。

「まあ、君がそう言うなら仕方ないか……」

 観念したようにため息をつくとハーブティーを一口飲み、スプーンを手にシチューを食べ始めた。

 温かいハーブティーが喉を潤し、優しい味のシチューが疲れた体にじんわりと染み渡る。

 それは、単なる食事ではなくアリアの優しさが込められた癒やしの味だった。


 カイエンがシチューを食べ始めるのを見届け、アリアは他の客の注文を取りにその場を離れようと身を翻した。その時、彼女はもう一度カイエンの方を振り返り優しく微笑んだ。

「カイエン様、この間は助けていただき有難う御座いました」

 その言葉には、あの日の出来事への感謝と、彼女の優しさへの深い敬意が込められていた。カイエンは、一瞬目を見開いたがすぐにいつもの軽薄な笑みを貼り付けた。

「ん。ああ、なんのことだか。まあ、君がそう言うなら、そうなんだろうな」

 そう言って、カイエンはまたシチューに目を戻した。

 アリアは、その彼の反応にふわりと優しい笑顔を返すと他の客の元へと向かっていった。

 その背中を見送りながら、カイエンは静かにシチューを口に運んだ。

 彼の心にはアリアへの感謝と彼女を守るという強い決意が渦巻いていた。


 アリアは、カイエンの「忘れたふり」に表面上は安堵した。

 しかし、心の中では彼への意識が、以前よりもはるかに強く、深く根を下ろしていた。

 あの夜のキスと抱擁、そして彼が自分を庇ったという事実。

 ヴェールへの純粋な憧れと好意は、今や目の前のカイエンへの、愛おしく、守りたいと願う深い愛情と混じり合っていた。

 彼女は、カイエンがヴェールであるという確信を得ていた。

 その事実は、彼女の心に喜びと同時に重い責任感を伴っていた。

 この秘密は、誰にも話してはならない。

 特に、親友のクララには。

 クララはヴェールのことを好きだと公言している。

 その事実が、アリアの胸に重くのしかかっていた。もしクララに話してしまえば彼女を傷つけることになる。

 そして、何よりも、カイエンの命を危険に晒すことになる。

 アリアは、その重い秘密を一人で抱え込む覚悟を決めた。


 アリアは、カイエンの呑気な振る舞いを見ながら複雑な思いを巡らせた。

 カイエンは本当に覚えていないのか、それとも隠しているのか、アリアは考えた。

 どちらにしても、彼がこの秘密を隠そうとしているならば自分もそれに合わせるべきだとアリアは悟った。

 それが、彼を守るための最善の道だと。

 彼女はグラスを拭く手に、無意識に力がこもった。

 アリアは、カイエンがヴェールとしての活動に支障をきたさぬよう彼の体調を以前にも増して気遣うようになった。

 陽だまり亭で彼を見かけるたびにその顔色や仕草を注意深く観察し、さりげない気遣いや、優しい眼差しを向ける。

 それは決して表立って彼を困らせるものではなかったが、彼女の行動の端々にカイエンへの深い意識が表れていた。


 一方、ラモン侯爵はヴェールの活動が突如として沈静化したことに内心でほくそ笑んでいた。

 侯爵が敷く悪政や、それに結託する悪徳商人たちの不正な商売を次々と暴き、その利益を奪ってきたヴェールは彼にとってまさに目の上の瘤、邪魔でしかない存在だったからだ。

 ヴェールなど所詮は一時の気まぐれに過ぎなかったのだと、彼は高笑いしながら部下たちに豪語した。

 港街プエルト・エスぺランサの治安が一時的に回復したことで、住人の不満も少しは和らぐだろうと踏んだ侯爵は、この機に乗じてさらに新たな税の導入や、厳しい規制を画策し始めていた。


 安堵は、薄氷の上に築かれた偽りの平穏に過ぎなかった。

 港街プエルト・エスぺランサの住人にとって、ヴェールは希望の光であり、救世主であったが、彼の不在は侯爵の重税や悪徳商人たちの搾取が再び横行する前触れとして街全体に不安の影を落とし始めていた。

 市場では、商人がため息をつき、母親は子供に十分な食事を与えられないと嘆く声が聞こえる。

 街の活気は失われ、人々の顔からは笑顔が消えつつあった。


 侯爵に忠実な警邏隊の中には、ヴェールの活動停滞に安堵し警戒を緩める者もいたが、正義の心を持つ警邏隊員たちは、この一時的な静けさを危険視していた。

 彼らはヴェールがいなくなったことで、街の闇がより深く巧妙に蠢き始めることを危惧し、密かに情報収集を続けていた。

 

「ヴェールがいなくなって確かに一時的には落ち着いたが、これは嵐の前の静けさに過ぎない。裏で蠢く者たちが今こそ活発になるだろう。新たな密輸ルートが動き出したという噂もある。侯爵様は、この機に乗じてさらに街を締め付けるおつもりだろう」

 彼らは夜の街を巡回し、怪しい動きがないか目を光らせた。

 彼らの予感は、港街プエルト・エスぺランサに新たな危機が迫っていることを示唆していた。


 陽だまり亭の夜は、いつもと変わらぬ賑わいに包まれていた。

 アリアはグラスを拭きながら、ちらりとカウンターに座るカイエンに視線を送る。

 彼はいつものように、気ままに酒を飲み、周囲の客と談笑している。

 その姿は、まるで何事もなかったかのように、呑気な「うつけ者」そのものだ。

 だが、アリアにはその陽気な笑顔の裏に隠された、彼の苦悩と決意が見て取れた。


 アリアは、心の中で、そっと呟いた。

 カイエン様、あなたは、私の大切な秘密。

 そして、私が守りたいと願う人。

 彼女の心には彼への深い愛情と、彼を守り抜くという強い決意が宿っていた。


 カイエンもまた、アリアが視線を向けるたびに彼女の横顔をちらりと見ていた。

 彼女の瞳の奥に、あの夜の真実が隠されていることを彼は知っている。

 そして、彼女がその秘密を誰にも明かしていないことも。

 その優しさと強さに、カイエンは改めて心を打たれた。


 二人は互いのことを深く思いながらも、真実を直接告げることはしない。

 それぞれの心に秘めた感情と秘密を抱えながら、彼らは、陽だまり亭の温かい光の中でいつもと変わらぬ夜を過ごしていくのだった。

 陽だまり亭の温かい光が、街の闇に溶けていく。

 しかし、その光が届かない街の裏では、侯爵の冷酷な目が新たな獲物を定め、イネスの復讐の炎が静かに、だが確実に燃え盛り始めていた。

数日、空きましたが更新させて頂きました。


読んで頂いて、ありがとうございます。

お時間いただきました。


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