第二話
プエルト・エスぺランサの昼は、見せかけの活気に満ちていた。
《陽だまり亭》には、朝から陽気な声が響き渡る。談笑する声、ジョッキが触れ合う軽快な音、そして時折上がる豪快な笑い声が、店の隅々まで満たしていく。
磨き上げられたカウンターの向こうでは、アリアが手際よくグラスを並べていた。すらりとした体に、酒場の仕事で培われたしなやかな筋肉が光る。彼女の動きに一切の無駄はなく濃い茶色の髪は忙しい中でも乱れぬよう、きちんと後ろで結わえられていた。
聡明で芯の強さを宿す温かい茶色の瞳は、客の注文を瞬時に捉え、厨房のマチルダ、ゼック、そして他の給仕たちへと的確な指示を飛ばす。
その声は、喧騒の中でも不思議と明確に響いた。
「兄さん、エールを2つ、それから奥のテーブルのワイン新しいのを一本お願いできるかしら。給仕の子に運ばせるわ」
「おうよ、わかったぜアリア。お前も働きすぎだ。少しは俺に任せな」
ゼックは、その大柄でがっしりとした体躯に見合わぬ軽やかな足取りで樽を運びながら額の汗を拭った。
黒に近い濃い茶色の短く刈り上げられた髪は、彼の無骨な印象を際立たせる。
鈍い光を放つ灰色の瞳は、普段はぶっきらぼうだが妹アリアへの深い愛情を隠し持っていた。
彼はこの酒場兼宿屋《陽だまり亭》の力仕事を一手に引き受ける店主だ。
厨房からは、マチルダが焼きたてのパンの香ばしい匂いを漂わせながら大きな皿を抱えて現れた。
ふくよかな体躯に、灰色がかった茶色の髪を実用的なお団子にまとめている。朗らかで温かい茶色の瞳は皆の母親のような優しさを湛えており、その料理の腕前は街でも評判だった。
「さあ、焼きたてだよ。早く客に出しておやり」
マチルダの声に、奥から出てきた若い給仕が手際よくパンの皿を受け取り、客席へと運んでいく。
店の入り口近くでは、用心棒役のドラグが黙って客の様子を観察している。
並外れた体格は、ただそこに立っているだけで威圧感を放つ。黒い瞳はぶっきらぼうながらもどこか物静かな光を宿しており、店に不穏な空気が漂うことを許さない。
ハンスは、厨房の奥で黙々と料理の仕込みに集中していた。がっしりとした体格に、短く刈り込んだ濃い茶色の髪が似合っている。
明るく澄んだ茶色の瞳は真剣な光を宿し、彼の包丁さばきは正確で、肉を叩く音が小気味よく響く。ちょうど、肉厚のシチューが完成したばかりで、ハンスは給仕を呼び止めた。
「おい、このシチューを五番テーブルへ。熱いうちに運んでくれ」
そんな賑わいの中、客たちの会話は酒の勢いも手伝って、数日前に港の裏通りに「V」の印を残し街を騒がせたヴェールの噂へと移っていく。
「この前も夜に、港の裏通りで騒ぎがあったらしいぜ。またヴェールとかいう奴の仕業だって噂だが、どうせ一時の気まぐれだろうよ」
「ちっ、一時の気まぐれであの警邏隊員どもを縛り上げたってのかい。だったら、もっと暴れてくれりゃいいんだがな」
「まったく、最近は物価が高騰するばかりでまともに食料も買えやしねえ。侯爵様は一体何をしてるんだか」
「ああ、警邏隊の取り締まりも厳しくなるばかりだ。ちょっとでも怪しいと見れば、すぐに金を巻き上げようとする」
ゼックは、客の愚痴を聞きながら、小さく舌打ちをした。隠しきれない不満が彼の表情に浮かぶ。
「それにしても、この物価じゃ、酒場の酒も高くなるんじゃねえのか。そうなったら、俺たちにはもう、ここにも来られなくなっちまう。酒場まで高くなったら、一体どこで息抜きすりゃいいんだよ」
別の客が心配そうに呟いたのを聞いたゼックは、客の言葉に眉をひそめた。
「まったくだ。このままじゃ、うちの酒の値段も上げざるを得なくなる。そうなりゃ、客足も遠のいちまう」と、彼は心の中で呟いた。
アリアは客たちの不安げな会話に耳を傾けながら、ただ静かにグラスを拭いていた。
彼女の心にも、街の現状に対する深い憂いと、ヴェールという謎の存在への複雑な思いが渦巻いていた。
このままでは、いつか《陽だまり亭》の温かさも、冷え切ってしまうのではないかという不安が、彼女の胸をよぎった。
その時、店の扉が軽やかに開きカイエンが《陽だまり亭》に姿を現した。
長身で引き締まった体躯は、豪華な装いに身を包んでいても隠しきれない。漆黒に近い暗い栗色の髪は、わざと無造作に撫でつけられ、月の光を思わせる銀灰色の瞳には退屈そうな光が宿っている。
彼は相変わらず、豪華な装いに身を包み、退屈そうに周囲を見渡す。
「やあ、アリア。今日も君は美しいね。この店の花だ。君のその聡明な瞳は、どんな宝石よりも輝いている。ああ、私のような怠け者には、君の勤勉さが眩しすぎるくらいだ。君のその輝きで、私の退屈な日々を、ほんの少しでも賑やかにしてくれないか」
カイエンは、わざとらしいほど甘い言葉を投げかけ、カウンター席に座る。カウンターの奥でグラスを拭いていたゼックの眉間に、深い皺が刻まれた。露骨な不快感を隠そうともせず、彼は大きく咳払いをした。
「カイエン様、いらっしゃいませ。いつものお酒でよろしいでしょうか」
アリアは、ゼックの牽制を察しながらも、慣れたように軽く会釈をするだけだった。
「ああ、頼むよ。君の淹れる酒は、この退屈な街で唯一の楽しみだからね」
カイエンは、そう言って軽く笑った。
その笑みは、アリアには彼のいつもの軽薄な笑みに見えた。
彼が酒を飲みながら、周囲の客の会話に耳を傾ける。侯爵の圧政、物価の高騰、警邏隊の不正、そしてヴェールの噂。彼が「遊び人」を演じるのは、こうした生きた情報を得るためだった。
「おい、そこのあんた。賭け事をしないか。今日の運試しだ」
カイエンは、近くのテーブルでサイコロを振っていた男に声をかけた。男は貴族のぼんぼんが絡んできたことに少し驚いたが、カイエンの投げやりな態度を見て、すぐに調子に乗った。
「へっ、いいぜ。どうせ貴族様は金に困ってねえだろうからな」
カイエンは、笑いながら金貨を数枚テーブルに置いた。その手つきは、まるで金貨に何の価値もないかのように無頓着だった。彼はサイコロを振り、わざとらしく大きなため息をついた。
「やれやれ、今日は運がないね。まあ、こんなものか」
男はカイエンの負けに大喜びし、金貨を掻き集めた。カイエンは、負けたことなど気にも留めない様子で、再び酒を煽った。
「おや、貴族様が負け込んだか。こいつは景気が良い知らせだ」
男は勝ち取った金貨を手に、上機嫌で声を上げた。この金貨は、不況に喘ぐ平民にとっては大金だ。
「今日の勝ち分で、俺が皆に奢ってやる。この不景気の中、たまには景気良くやろうじゃないか」
男の言葉に、酒場は一瞬静まり返った後、大きな歓声に包まれた。
客たちは互いに顔を見合わせ、笑顔を交わし、男の周りに集まっていく。
ゼックは、その光景を複雑な表情で見つめていた。
カイエンの金が街の人々のささやかな喜びになっていることに、皮肉な感情が湧き上がった。
カイエンは、そんな賑わいをどこか退屈そうに眺めながらも、内心では自身の演出が成功したことに静かな満足を覚えていた。
彼は再び周囲の客たちの会話に耳を傾け始めた。客の愚痴や噂話は、侯爵の支配の広がりと、市民の不満の深さを測る貴重な手がかりとなる。
彼は時折、退屈そうに相槌を打ちながら、重要なキーワードを心に留めていく。
ゼックは、カイエンが入店時した時アリアに投げかけた軽薄な言葉と、その後の視線に、内心で苛立ちを募らせていた。
これ以上、妹がこの貴族の相手をするのは見ていられなかった。
「アリア、悪いが、厨房の在庫を確認してきてくれないか。マチルダが何か探していたようだからな。俺がここを見る」
ゼックはカイエンに聞こえるように、しかしあくまで業務上の指示を装ってアリアに声をかけた。
アリアはゼックの意図を察し小さく頷いた。
「ええ、兄さん。すぐに確認してくるわ」
アリアは、カイエンに軽く会釈するとカウンターを離れ、厨房へと向かった。
カイエンは、その背中を面白そうに見送ると再び酒を煽り、周囲の客の会話に耳を傾け始めた。
《陽だまり亭》の賑わいとは対照的に、街の旧市街の路地裏やスラム地区は飢えと絶望が色濃く漂っていた。
ハンスは、厨房の奥で使い終えた鍋を磨きながら、今日の食材の残りを頭の中で計算していた。
料理人として、食材を無駄にすることは許されない。
だが、この時間になると裏口に現れる子供の存在を知っていた。
(「今日のシチューは、少し多めに仕込んでおいた。もし、あの子がまた来ていたら、ほんの少しだけでも分けてやれるように……。だが、表立って助けるわけにもいかねぇしな」)
ハンスは心の中で呟き、磨き終えた鍋を棚に戻した。
店の入り口近くで客の様子を伺っていたドラグも、裏口の気配に意識を向けていた。
彼もまた、子供が店の裏をうろつくのを知っていた。
用心棒として彼らを追い払うこともあったが、そのたびに胸が締め付けられる思いだった。
ドラグは、店の裏口から聞こえる微かな物音に眉を寄せた。
飢えに喘ぐ子供の姿は、もはやドラグにとって見慣れた光景だった。彼らを追い払えば、この街のどこかでひっそりと息絶えるだけだろう。
しかし、店に招き入れることなど、決して許されはしない。
警邏隊の厳しい監視の目、店の評判を気にする客たちの視線、そして何より、彼ら住み込みの者たちの生活があった。
この子を匿えば瞬く間に悪評が立ち、警邏隊に目をつけられ、ひいては店に、そして皆に迷惑がかかる。
その過酷な現実が、ドラグの喉を塞いだ。
彼は、どうにもできない自身の無力さを噛み締めるように、重い息を吐いた。
その黒い瞳は、ただ無言で店の入り口を見つめている。
まるで、その先にある街の闇を全て受け止めるかのように。
そして、フロアを片付けていたマチルダも子供の存在に心を痛めていた。
彼女の母性的な心は、彼らへの深い憐憫に満ちていたが、同時に厳しい現実も理解していた。
(「可哀想に……。でも、一人だけ助けても他の子たちが黙っちゃいない。それに、店に目をつけられたら皆が困る。炊き出しをする余裕もないし、もしそんなことをすれば侯爵の税がさらに厳しくなるか、スラムの他の者や客から不評を買うかもしれない。この子を不用意に人前に出すのも良くない。それに、私たち住み込みの者たちもこの子を匿う場所などない。もし匿えば、警邏隊に目をつけられ他のスラムの子たちまで押し寄せてくるかもしれない。もっと根本的な解決がなければ、この子も他の子たちも、救われやしないのに」)
マチルダは、拭いていたテーブルの木目に、そっと指を滑らせた。
その日の午後、アリアは、厨房から少しばかり温かい残り物を包んで裏口へ向かった。
店の裏口は、普段は荷物の搬入や残飯の処理に使われる人通りの少ない路地へと繋がっていた。
日頃から、この時間になると店の周りをうろつく子供がいることを知っていたからだ。
裏口の戸を開けると案の定、痩せこけた子供の姿が目に飛び込んできた。
その子は汚れた布を纏い、警戒するように周囲を伺っている。
顔には煤がつき、その瞳の奥には、飢えと恐怖が渦巻いていた。
アリアは、その子の姿に胸が締め付けられるのを感じた。
「坊や、お腹が空いているでしょう。これ、温かいパンとシチューよ。よかったら、お食べなさい」
アリアは、温かいパンの切れ端と、少しばかりのシチューを差し出した。
しかし、子供は警戒心を解かず、アリアの差し出した手を払いのけるように、「いらない……いらないんだ」と悲鳴にも似たか細い声で叫びながら路地の奥へと走り去ってしまった。アリアは、その小さな背中を見送ることしかできなかった。
アリアは、差し出したままの手に残る温かいパンの感触に、悔しさと情けなさを覚えた。
『どうして、もっとあの子の気持ちに寄り添った言葉がかけられなかったんだろう……』『お腹が空いているでしょう』と、ただ施しを与えて、あの子の心を傷つけてしまった。
温かい食べ物が、必ずしも相手の心を救うわけではない。むしろ深く傷つけることもあると、アリアは身をもって知った。
もし自分も、両親が残してくれたこの《陽だまり亭》と支えとなる兄がいなければ、あの子と同じような境遇になっていたかもしれない。いや、きっとそうなっていた。
その思いが、アリアの胸に重くのしかかった。
アリアは、冷めていくパンとシチューをもう一度見つめた。
すぐに持ち帰れば無駄にはならないだろう。
だがもしかしたら、あの子がまた戻ってくるかもしれない。
そう願うように、彼女は温かい包みを路地の影にそっと置いた。無駄になるかもしれないと分かっていても、その小さな希望を捨てることはできなかった。
アリアは、重い足取りで酒場へと戻った。
その日の午後、筆頭執政官であるフェルナンドの悪行は、さらにエスカレートしていた。
彼は普段から、市民への重税や、些細な違反を口実にした不当な罰金徴収、そして貧しい者たちへの冷酷な取り締まりを組織的に行っており街の隅々まで支配を浸透させていた。
しかしこの日、日頃の陰湿な搾取に飽き足らず、彼の行動は一線を越えた。
彼の部下と悪徳警邏隊が組んで、スラム地区の貧しい住民から、わずかな食料を不当に徴収していたのだ。
それは、街の広場で行われていた。
普段は裏路地や陰で行われることの多い搾取が、この日は人々の往来が激しい広場で、まるで侯爵の力を誇示するかのように、見せしめとして行われたのだ。
警邏隊員たちは横柄に振る舞う。
「浮浪者の分際で、食料を隠し持っているとはな。全ては街の治安維持のためだ。感謝しろ」
警邏隊員の一人が、年老いた女性が必死に抱えていたジャガイモの袋を乱暴に奪い取る。
老女は泣き崩れ、その場にへたり込んだ。
その隊員は、老女の目の前でジャガイモを地面にぶちまけ、粗雑な足で踏み潰した。
「これが、我々に逆らう者の末路だ。しかと目に焼き付けておくがいい」
その光景を、あの痩せこけた子供が広場の片隅の物陰から見ていた。
たった一人、スラムの子供である彼は飢えと怒りに震えながら警邏隊員たちを睨みつける。
しかし、多勢に無勢。彼にできることなど、何もなかった。
広場に集まった野次馬たちは横暴な役人たちの振る舞いに、ひそひそと非難の声を上げ始めた。
「ひどい。あんな年寄りからも奪うのか」
「まるで盗賊じゃないか。あいつらがこんなことをしていいのか」
「見てみろ、あのジャガイモを。踏み潰すなんて……」
彼らの声は、最初は小さかったが、次第にざわめきとなって広場に広がり始めた。
警邏隊の面々は、徴収した食料を大きな麻袋に詰め込み広場を去ろうとしていた。
子供は、その袋からわずかにこぼれ落ちたパンくずを拾い集めようと、そっと物陰から這い出た。
その瞬間、警邏隊員の一人が、子供の存在に気づいた。
「おい、そこにいるのは誰だ。コソ泥か」
警邏隊員は、その声にざわめく野次馬たちを猛禽類のような鋭い視線で一瞥し、口元に冷酷な笑みを浮かべた。その威圧的な態度に人々は一斉に息を呑み、広場の空気が凍り付いたかのように重い沈黙が落ちた。
男は子供の腕を掴み、乱暴に引きずり出した。
子供は恐怖に顔を歪め、必死に腕を振りほどこうともがく。
「やめて、はなして」
子供は、か細い声でそう叫ぶと、必死に抵抗し、その場から逃げ出そうと足掻いた。
「へっ、こんな小汚いガキが、何を企んでやがったか。浮浪者は排除しろとお達しが出てるんだ。ちょうどいい、連れて行くぞ」
その男は、子供を乱暴に引きずり連行しようとする。
その様子を、市場での仕入れを終え酒場へ戻る途中のアリアが、広場の野次馬の一人として目撃した。
彼女の瞳は、怒りと絶望に大きく見開かれる。
あの時の子供だ。
裏口でパンを差し出した時、拒絶しながらも飢えの瞳を隠しきれなかった、あの小さな命。
「やめて。その子を離しなさい。今すぐ」
アリアの声は、怒りと焦りで震えていた。
彼女は手に提げていた仕入れの品々が入った籠をその場に放り出すように置き、衝動的に警邏隊員たちへと駆け出した。
彼女の心には、子供を救いたいという一心しかなかった。
同じ頃、酒場での退屈な昼下がりを終え気まぐれに街をぶらついていたカイエンは、その騒ぎに気づき、興味本位で足を進めていた。彼は騒ぎの中心でアリアが警邏隊に立ち向かう姿を、人ごみの影から興味深げに傍観していた。
彼の口元には、貴族らしい気だるげな笑みが浮かんでいる。
だがその銀灰色の瞳の奥底には、冷徹な計算と、そして微かな焦りの色が宿っていた。
お時間有難うご合います。
少しでも、読んで頂けると嬉しいです。
AIを使い書きたい物語を読んでくれている人が居ればいいなと思い。
制作しております。
お時間有難う御座いました。