第二十六話
アリアにとって、その日は永遠にも等しい長さだった。
カイエンに庇われ血に染まり倒れ伏した彼の姿が、陽だまり亭での営業中も目の奥に焼き付いて離れない。
苦痛に歪んだ真剣な横顔、絞り出すような「逃げろ」という声、そして、一瞬重なった「黒い稲妻」ヴェールの幻影。
あの道楽者と、街を救う義賊が、なぜか彼女の心の中で混じり合っていく。
掌に残る、熱い血の感触だけがすべてが現実だったことを告げていた。
店に戻ったアリアの心は、兄のゼックにすぐに報告しなかったことへの不誠実さと、カイエンを庇えなかった不甲斐なさで激しく波打っていたが、それ以上に、彼の無事をこの目で確かめたいという抑えきれない衝動が彼女を突き動かした。
その日の夜、陽だまり亭の住居スペースのリビングでアリアは兄のゼックに買い物に出てから起こった出来事を打ち明けた。
路地裏で私兵とゴロツキに絡まれ連れて行かれそうになったこと、その時カイエンが庇ってくれたこと、そして彼が負傷し、レオンハルトと共に別邸に帰って行ったこと。
アリアの言葉を聞くにつれ、普段はどんなことにも動じないゼックの顔がみるみるうちに青ざめていく。
ゼックの声は怒りに震え、信じられないといった表情でアリアを見つめた。
「何がどうなっているんだ……なぜゴロツキと私兵が一緒になってアリアを襲うんだよ。そんなことが許されるはずがない」
ゴロツキと私兵が結託した事実に、彼は拳を握りしめ憤りを隠せない様子だった。
ゼックの怒りは、カイエンの身を案じる気持ちと街の治安が乱れていることへの憤りがない交ぜになっていた。
アリアは震える声で懇願した。
「兄さん、私、カイエン様のところへ行きたいの。明日謝罪と感謝を伝えて、この目で無事を確認したいの。そして、何か私にできることがあれば……」
彼女の瞳に宿る、切迫した、それでいてどこか決意に満ちた光を見てゼックはただならぬものを感じ取る。
ゼックは、妹の真剣な眼差しから目を逸らすことができなかった。
侯爵家への訪問など、陽だまり亭の娘であるアリアにはあまりにも分不相応なことだ。
しかし、彼女の心に宿る強い思いが彼の理性を上回る。
「……分かった。だが一人で行かせるわけにはいかない。ドラグ、お前も一緒に行ってやってくれ」
ゼックは、共に話を聞いていたドラグに声をかけた。
ドラグは無言で頷くとその大きな体でアリアの隣に立つ。
彼の存在は、アリアにとって何よりも心強い盾だった。
翌朝、アリアはドラグと共にカイエンの別邸へと向かった。
旧市街地の奥でその別邸は、本邸のような威圧感はなくむしろ瀟洒で落ち着いた雰囲気を醸し出している。
しかし、その門構えはやはり厳重で陽だまり亭の娘が気軽に訪れるような場所ではない。
アリアは、ドラグと共に門の前に立つと深呼吸をして、門番に声をかけた。
「あの、陽だまり亭のアリアと申します。カイエン様のお見舞いに参りました」
門番は、アリアの質素な身なりとその隣に立つ大男を見て怪訝な顔をした。
カイエンが普段から素行の悪い「うつけ者」「道楽者」として知られているため、彼を見舞う客など珍しかったのだ。
門番は不審げに問い返した。
「カイエン様のお見舞いだと……一体なぜ、そのような方が。それに、そちらの男は何者だ」
ドラグが一歩前に出ようとしたのをアリアは手で制した。
「昨夜、カイエン様が私を庇って怪我を負われました。そのお見舞いに、どうしてもお伺いしたいのです。この者は、私の兄の店の用心棒で、護衛として付き添ってくれました」
アリアの言葉に門番の表情がわずかに変わる。
カイエンが負傷したことはすでに邸内にも伝わっていたが、その詳細までは知らされていなかったのだ。
門番はしばらくアリアの真剣な眼差しを見つめた後、邸内にいる使用人を通じてマヌエルに確認を取るよう伝えた。
その頃、別邸のカイエンの私室ではレオンハルトとマヌエルが、ベッドに横たわるカイエンの看病にあたっていた。
カイエンの顔色は青白く、額には脂汗が滲んでいる。
時折苦しげな呻き声が漏れる。
「熱が下がらないな、マヌエル殿。傷口もまだ腫れている」
レオンハルトはカイエンの額に当てた冷たい布を取り替えながら、眉をひそめた。
「はい、レオンハルト様。ヴェールとしての活動で負われた傷もまだ完全に癒えておりませんから……無理を重ねすぎました」
マヌエルは心配そうにカイエンの顔を覗き込んだ。
二人の間には、カイエンのもう一つの顔を知る者同士の深い理解と信頼があった。
その時、使用人が慌ただしく部屋に駆け込んできた。
「マヌエル様、お客様が。陽だまり亭のアリア様と、その護衛の方がお見えです」
使用人は、陽だまり亭のアリアとその護衛が訪れたことを報告した。
マヌエルはその報告に驚き、一瞬目を見開いた。
アリアがこの別邸を訪れるのは予想外だったが、カイエンの負傷に関わっていると知りマヌエルはすぐに彼女の真摯な気持ちを察した。
「陽だまり亭の……レオンハルト様、アリア様をお連れ致してもよろしいでしょうか」
レオンハルトは、一瞬考えた後静かに頷いた。
「構わない。彼女には、カイエン様がご無事であることを知る権利がある。マヌエル殿、君はアリア殿をカイエン様の部屋へ案内したら、すぐに休むといい」
マヌエルは、レオンハルトの言葉に安堵し頭を下げた。
彼は、アリアをカイエンの部屋へと案内するため足早に部屋を出て行った。
マヌエルは門番からの報告を受け玄関へと向かった。
重厚な扉を自ら開けると、そこにはアリアと、その隣に立つ大柄なドラグの姿があった。
マヌエルは、その表情に冷ややかな光を宿しぶっきらぼうに尋ねた。
「何の用だ」
ドラグはマヌエルの問いに、一歩前に進み出た。
その大きな体で深々と頭を下げ、低く、しかしはっきりとした声で答えた。
「恐れながら、私めは陽だまり亭に住み込みで警備・守護の仕事をしております、ドラグと申します。ですが最近街の治安が悪く、アリアが絡まれる事が多くなりましたため、道中の護衛に共にお伺いさせていただきました。この度は、アリアを助けていただき誠に有難う御座います。その上、カイエン様に傷を負わせてしまい、大変申し訳ございません」
ドラグの言葉には誠実さと、アリアへの深い配慮が滲んでいた。
マヌエルは、ドラグの意外なほど丁寧な態度とその言葉の重みにわずかに目を見張った。
アリアはマヌエルの前に進み出て深々と頭を下げた。
「突然の訪問、誠に申し訳ございません。陽だまり亭の店主であり家長である兄が不在で、私のみの訪問誠に失礼でございますがお許しください。昨日、私めがゴロツキに絡まれた際カイエン様が私を庇ってくださり、その際に負傷されました。そのお詫びと、心ばかりの感謝を直接お伝えしたく……何卒、カイエン様にお目通り願えませんでしょうか」
アリアの言葉を聞き終えると、マヌエルはちらりとドラグに視線を向けた。
「お気持ちはありがたいのですが、負傷されている主人のもとへ複数の人をお連れするわけにはいきません。ドラグ殿は、来客用の応接室へご案内いたします。アリア様は私がお部屋までご案内いたしますので、どうぞ」
ドラグは、アリアの顔を見つめ無言で頷くとアリアもまた、ドラグに小さく頷き返した。
マヌエルはまずドラグを来客用の応接室へと案内し、それからアリアをカイエンの私室へと足早に案内した。
アリアは、カイエンの私室へと足を踏み入れた。
部屋の中は、薬の匂いと、かすかな血の匂いが混じり合っていた。
ベッドに横たわるカイエンの姿を目にした瞬間、アリアの胸は締め付けられた。
部屋にはすでにレオンハルトがカイエンの傍らで看病にあたっていた。
アリアは、その姿に一瞬驚きよりも先に知己の顔を見た安堵を覚えた。
そして、すぐに気を取り直し深々と頭を下げて挨拶した。
「レオンハルト様、先日は助けていただき有難う御座います。アリアでございます」
レオンハルトはアリアの訪問に穏やかに頷いた。
「アリア殿、来てくれたか。カイエン様はまだ意識が朦朧としておられるが、命に別状はない。君も心配だっただろう」
アリアはカイエンの寝ているベッドの傍らに歩み寄り、そっと跪いた。
青白い顔で苦しげに息をするカイエンの姿に胸が締め付けられる。
「カイエン様……この度は、私を庇ってくださり誠に有難うございました。そして、そのお怪我、本当に申し訳ございません」
アリアが声をかけると、意識が朦朧としていたカイエンの瞼が微かにピクリと動いた。
その小さな反応をマヌエルとレオンハルトは決して見逃さなかった。
アリアはマヌエルの方に振り向くと、その目に強い意志を宿して懇願した。
「マヌエル様、恐縮ではございますがどうか私にカイエン様の看病をさせてはいただけないでしょうか。私にできることなら、何でも……」
マヌエルは、アリアの真剣な眼差しとカイエンの微かな反応を見て、一瞬迷った。
カイエンの容態はまだ不安定で外部の人間を入れることに躊躇があったが、アリアの強い思いと、カイエンが彼女に反応した事実が彼の心を動かした。
彼は静かに頷いた。
「……分かりました。アリア様、どうかよろしくお願いいたします」
マヌエルはアリアの申し出を受け入れ、看病を頼んだ。
レオンハルトはマヌエルに言った。
「応接室のドラグ殿のところへ行ってくる。ドラグ殿には私が話しておこう」
「よろしくお願いいたします。申し訳ございませんがお戻りをお待ちしております」
マヌエルはレオンハルトに深々と頭を下げた。
レオンハルトは廊下に出ると、近くにいた別の使用人を見つけ応接室へ案内するように頼んだ。
応接室の扉が開くと、そこにはドラグが静かに座っていた。
目の前のテーブルには、別の使用人が運んできた冷たい飲み物が置かれていたがドラグはそれを口にすることなく、落ち着かない様子で膝の上の拳を握りしめていた。
アリアのことが心配で、じっと座っていることすらままならない。
レオンハルトはドラグに近づき、親しみを込めた口調で話しかけた。
「ドラグ殿、待たせてすまない。アリア殿は今カイエン様の傍で看病してくれている。カイエン様も、彼女の声に反応を見せてくれたよ」
ドラグは、レオンハルトの言葉に安堵の表情を浮かべた。
「そうですか。それは何よりです。アリアも、さぞ心配しておりましたでしょうから」
レオンハルトは続けた。
「アリアがカイエンの看病を申し出てくれたので、しばらくここに残ることになった。陽だまり亭へは私が責任を持って送っていくので、ドラグ殿はもう戻って大丈夫だ。陽だまり亭での仕事もあるだろう」
それを聞いたドラグは、レオンハルトの配慮に深く頭を下げた。
「かしこまりました。アリアをよろしくお願いいたします。ですが、レオンハルト様、アリアを陽だまり亭まで無事に送り届けてくださることを、どうかお約束いただけますでしょうか」
ドラグの言葉にはアリアへの深い心配と彼女の安全を案じる気持ちがにじみ出ていた。
レオンハルトはドラグの真剣な眼差しを受け止め、力強く頷いた。
「もちろん約束しよう。アリア殿は、私が責任を持って陽だまり亭まで送り届けるよ。君も安心して戻ってくれ」
ドラグはその言葉にようやく安堵の息をつき、再び深々と頭を下げると「有難うございます。では、失礼いたします」
とだけ告げ、邸を後にすることを決めた。
レオンハルトがカイエンの私室に戻ってくると、マヌエルが心配そうにカイエンの顔を覗き込んでいた。
「レオンハルト様、ドラグ殿は見送られましたか」
「ああ、無事に見送った」
マヌエルの質問にレオンハルトはすぐ答えた。
「レオンハルト様も、一晩共に看病していて疲れていることでしょう。客室をご準備していますので、どうぞお休みください」
すると、アリアがすかさず口を挟んだ。
「マヌエル様も一晩中看病されてお疲れでしょう、レオンハルト様と共にお休みください。私がカイエン様についておりますので」
「アリア様、お気遣い痛み入ります。ですが、私のような使用人に、様付けは不要でございます。マヌエルと、どうぞお呼びください。」
アリアの言葉に、マヌエルは少し驚いた顔をしたが、レオンハルトはアリアの気遣いに穏やかな笑みを浮かべてマヌエルにも休むように促した。
「アリア殿の言う通り、疲れているだろう。休んでくれ」
マヌエルは承知し、「では、アリア様、カイエン様をよろしくお願いいたします」
というとレオンハルトもまた、「私も少し休ませてもらう。部屋で休んだらまた来る。それまでカイエン様をよろしく頼むぞ、アリア殿」とアリアに告げた。
二人は、アリアにカイエンの看病を任せ静かに部屋を後にした。
アリアは、カイエンの傍らに座り冷たい布で彼の額の汗を拭い始めた。
その肌は、普段の彼からは想像できないほど熱い。
彼女は、彼の苦しそうな息遣いを聞きながら献身的に看病を続けた。
彼の顔を拭い、濡れた髪をそっと整える。
その指先が彼の頬に触れるたび、アリアの心には路地裏で見た彼の真剣な表情が蘇った。
あの「お調子者」の仮面の裏に、こんなにも深い優しさと、そして何か隠された秘密があるのではないかという思いが彼女の胸に募っていく。
看病を続けるうち、カイエンの左脇腹に巻かれた包帯の隙間からいくつかの古傷が覗く事に気づいた。
アリアの脳裏に、初めて路地裏で倒れていたヴェールを見つけ、義姉の実家で介抱した彼の姿が鮮やかに蘇った。
彼の身体にも確かに同じような傷跡があったはずだ。
薄れかけていた記憶の断片が、目の前の光景と結びつきアリアの心にざわめきが広がる。
時間は静かに流れていく。
アリアは、カイエンの熱い手をそっと取り自分の掌で包み込んだ。
その瞬間、意識が朦朧としたカイエンが無意識に彼女の腕を引き寄せた。
アリアは驚きに息を呑む。
次の瞬間、彼の熱い唇がアリアの唇にそっと触れた。
そのキスは情熱を帯びたものではなく、むしろ苦しみの中で無意識に求める「救い」そのもの。
深い孤独の淵で縋るような、切なく、それでいてアリアの魂を激しく揺さぶるものだった。
そしてカイエンの腕が、アリアの体をゆっくりと抱きしめる。
その抱きしめられ方は、アリアにとって決して忘れられない記憶と寸分違わなかった。
過去にベインにより陽だまり亭から立ち退きを要求され、代わりに自分がついていくことで助かるならと警邏隊員に連行された時、ヴェールが彼女を助け出し抱きしめてくれたあの時の感触と全く同じだったのだ。
アリアの脳裏に、ヴェールの強くて優しい腕の感触が鮮やかに蘇る。
そして、その抱擁の中でカイエンの口から微かにアリアの名前がこぼれた。
アリアは、衝撃に全身が硬直した。
心臓が警鐘のように激しく鳴り響き、目の前が真っ白になる。
全身の血の気が引くのを感じ、耳鳴りがした。
彼女は、カイエンの腕の中からゆっくりと、しかし必死に体を離した。
その場から数歩後ずさり、力なく床に座り込んだ。
「まさか……そんな、ありえない……」
アリアの頭の中で否定の言葉が何度も繰り返される。
しかし、脳裏を駆け巡る光景はその言葉を打ち砕いていく。
カイエンの道楽者としての気まぐれな笑顔。
広場で私を庇い、高いお酒の瓶を割った時の姿。
酒場で他の客や娼婦と騒いでいた彼。
最近の、やけに疲れている様子。
そして、あの「黒い稲妻」ヴェールとしての闇夜を駆ける力強い姿。
私を救い、優しく抱きしめてくれたあの腕。
路地裏で倒れていた彼を介抱した時に見た、あの古傷……。
まるで高速で再生されるフィルムのように、記憶の断片が次々と脳裏を駆け巡り目の前のカイエンの姿と、あのヴェールの姿とが寸分違わず重なっていく。
「あの時のヴェールの腕の感触が、今、カイエン様の腕の中にいる私と寸分違わない……。そして、あの傷……あの時確かに見たはずの、あの傷跡がここにも……」
アリアの胸に冷たい雷が落ちたような衝撃が走った。
疑惑は確信へと変わる。
「やっぱり……ヴェールとカイエン様が、同じ人……」
アリアは震える声でその真実を口にした。
混乱とそして得も言われぬ幸福感が、同時にアリアの心を包み込んだ。
これまで抱えていた謎が解けた安堵。
彼がずっと自分を護ってくれていたという事実への喜び。
そして、彼が自分にとってどれほど大切な存在であるかを再認識したことへの温かい感情が、彼女の胸を満たしていく。
アリアは、再びカイエンのベッドサイドに歩み寄った。
彼の顔をじっと見つめる。
苦しそうに息をする彼の額に、そっと唇を寄せた。
それは先ほどの無意識のキスとは違い彼女自身の意思で贈る、静かで、しかし深い愛情のこもったキスだった。
アリアはカイエンの傍らに座り、看病を続けた。
その後、レオンハルトとマヌエルも交代で、あるいは共にカイエンの容態を見守り続けた。
そして翌日の朝、アリア、マヌエル、レオンハルトの三人が見守る中カイエンの容態はようやく安定した。
アリアは、カイエンが安定した後もその日の夕方まで彼の傍で看病を続けた。
夕方になり、マヌエルがカイエンの容態を確認しアリアに告げた。
「カイエン様は、もう大丈夫です。熱も下がりました。ここからは私一人で看病できますので、アリア様はもうお休みください」
マヌエルは、心から安心して確かな声で告げる。
レオンハルトは静かに頷くとカイエンの様子を確かめる。
「そうか。アリア殿も看病で疲れ様たでしょう、もう遅いから私と共に帰ろう」
アリアはレオンハルトと共に別邸を後にした。
夜の帳が降り、街の灯りがきらめき始めている。
陽だまり亭の入り口にたどり着くと、店の前で待っていたドラグが二人の姿を認め安堵の表情を浮かべた。
「アリア、レオンハルト様、お帰りなさいませ。ご無事で何よりだ」
ドラグは深々と頭を下げ、二人の帰還を出迎えた。
店の中は、いつものように酒場としての賑やかで温かい雰囲気に包まれていた。
客たちの笑い声や、料理の香りが心地よく、二人はその雰囲気に包まれると張り詰めていた気がふっと抜けるのを感じた。
そんな二人を、ホールにで配膳をしていたマチルダが気づき、「おかえり」と明るい声で迎えた。
アリアはゼックに挨拶するためカウンターへ向かうと、ゼックは一瞬顔を顰め帰りが遅いことに一言心配と苦言を言おうとしたが、すぐにその表情を和らげた。
「おかえり、二人とも疲れただろう。何か食べるか、それとももう部屋で休むんだ方がいいか」
ゼックの優しい言葉に、アリアは小さく頷いた。
レオンハルトは、「遅くなりまして申し訳ありません、私は部屋で休ませていただきます」と告げ、宿泊している二階の部屋へと向かった。
アリアもまた、「ただいま兄さん、私も部屋に戻るわ」っと挨拶をすると、住居スペースにある自室へ休みに戻るのだった。
自室に戻ったアリアは、ベッドに横たわった。
天井を見つめながら、今日一日の出来事が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
カイエンの熱い唇の感触がまだ鮮やかに残っている。
そして、あの抱擁。
ヴェールと寸分違わぬあの力強く優しい腕。
彼は、ずっと自分を護ってくれていたのだ。
アリアは、胸に手を当てた。
ヴェールに抱いていた特別な感情が、今、目の前のカイエンと完全に一つになった。
彼の無意識のキスと、あの抱擁が、彼女の心を深く揺さぶった。
守られ、庇われ、そして献身的に看病したことで、カイエンという存在そのものが愛おしく、守りたいと強く願う対象へと変わっていた。
しかし、ふと、親友クララの顔が脳裏をよぎる。
クララは、ヴェールのことを好きだと公言していた。
この真実を知ってしまった今、アリアの心は複雑に絡み合う。
この秘密は誰にも話してはならない。
特に、クララには。
アリアは、ぎゅっと目を閉じた。
心の中で二つの感情が静かに重なり合うのを感じる。
ヴェールへの純粋な憧れと好意。
そして、目の前で苦しんでいたカイエンへの心配と深く温かい愛情。
それはもはや区別できないほどに混じり合い、彼女の心を支配していた。
この秘密を抱え、これから彼とどう向き合っていくのか。
アリアは、自分の胸に秘めたこの新たな感情と彼への深い理解を抱きしめる。
それは、誰にも言えない彼女だけの大切な真実。
そして、その真実を胸に彼女は静かに目を閉じた。
彼女の人生を大きく変える、新たな夜明けの予感に満ちた眠りだった。
更新が、なかなか決まった時間と感覚にならなくて申し訳ありません。
読んで頂いている方、お時間も頂ました。
本当にありがとうございます。




