第二十五話
初夏の太陽が、港町プエルト・エスぺランサの石畳を照らし始める。
海からの風は穏やかで、市場には活気が戻りつつあった。
しかしこの見せかけの平和の裏では、ラモン侯爵の支配がさらに陰湿な形で街を蝕んでいた。
特に、謎の義賊「ヴェール」に二度も煮え湯を飲まされた侯爵は、静かな怒りを燃やしその影響は街の隅々にまで及んでいた。
ラモンの不義の子として侯爵家預かりの立場であるイネスは、侯爵の屋敷で暮らす。
父親への深い憎悪、腹違いの弟カイエンへの複雑な感情、そして元使用人だった母親の不幸な人生と、自らが娼婦として味わった苦しみ。
これらすべてが、彼女を侯爵への復讐へと駆り立てる原動力となっていた。
だが、イネスが疑うのは侯爵だけではない。
カイエンの「うつけ者」としての振る舞いには、どこか不自然な影がつきまとう。
そして、街を騒がせる謎の義賊「ヴェール」の存在。
イネスは、カイエンとヴェール、そしてラモン侯爵の間に何か隠された繋がりがあるのではないかと疑念を募らせていた。
彼女は、カイエンのいつもの様子に隠された本当の姿を暴き、その混乱を利用して侯爵とカイエン両方に復讐を遂げようと画策する。
アリアはそのための都合の良い「道具」に過ぎなかった。
カイエンがアリアに異常なほど執着していることを、イネスは既に看破していたのだ。
「あの男の仮面を剥がし、本当の姿を暴くには、彼が一番大切にしているものを危険に晒すのが一番手っ取り早い」
イネスは、艶っぽい笑みを浮かべ、しなやかな指先で唇をなぞる。
彼女の目は、獲物を見定めるかのように鋭く光った。
元娼婦として身につけた巧みな話術と、男を惑わす魅惑。それらを自在に操り、彼女は港町のスラムの住人、チンピラ、侯爵の屋敷の使用人、そして一部の警備兵たちを、甘い言葉と誘惑で巧みに手懐け、自分の意のままに動く手駒へと変えていった。
ある日の午後、イネスは薄暗い酒場の片隅で、チンピラの親玉らしき男と密会していた。男は彼女の艶やかな笑みに見惚れ、彼女の指先が触れるたびに、まるで操り人形のように身を震わせる。
「ねぇ、あなた。陽だまり亭っていうお店があるでしょう。あそこの娘を少し困らせてほしいの。手を出してはいけないわ。ただ、困らせるだけでいいのよ。それができたら、この金貨はあなたのもの。もちろん、もっと良いこともしてあげるわ」
イネスの甘くささやく声は、薄暗い酒場の喧騒にもかき消されず男の耳に直接響いた。
彼女は艶っぽい笑みを浮かべながら、ひんやりとした金貨を男の掌にそっと滑り込ませる。
その指先が触れるたび、男の体にはかすかな震えが走った。
男の目は欲でギラつき、イネスの魅惑的な視線と、掌の金貨の重みに逆らうことは叶わない。
彼の頭の中には金貨がもたらすであろう贅沢な酒と女、そして仲間からの羨望がはっきりと描かれ、その誘惑に抗う理性はあっという間に掻き消えた。
イネスの甘い声が彼の欲望をさらに掻き立てる。
彼は、まるで彼女の言葉が絶対的な命令であるかのようにそのすべてを受け入れた。
「へへ、お嬢様のお望みとあらばどんなことでも。あの娘を困らせるだけなら、お安い御用だ」
男は、イネスの指先に触れるように金貨を受け取ると下品な笑みを浮かべた。
イネスはそんな男の反応を冷めた目で見つめ、満足そうに頷く。
彼女の目的は、アリアが困った状況になることでカイエンがどんな反応を見せるか、その行動の裏に隠された「ヴェール」の片鱗を掴み彼らの関係を白日の下に晒すことだった。
それは、侯爵の支配を揺るがし、カイエンをも巻き込む、彼女の復讐の第一歩となるはずだった。
その日の午後、陽だまり亭に異変が起こる。
普段は陽気な客で賑わう店内へ、突然見慣れないチンピラたちがなだれ込んできたのだ。
彼らはイネスの甘言に踊らされ、彼女の艶っぽい笑みに魅了されたかのようにわざとらしく酒をひっくり返し、大声で騒ぎ立て、他の客を脅しにかかる。
店内に響くガラスの割れる音、酒の飛び散る音、そして客たちのざわめきが、一瞬にして陽気な雰囲気を凍りつかせた。
鼻腔を突くこぼれたワインの酸っぱい匂いが、不穏な空気を一層際立たせる。
彼らの目にはイネスから与えられたわずかな金貨と、彼女の言葉の残滓がちらついていた。
「おい、こんな店で飲めるか。もっといい酒を出せ」
一人のチンピラが、カウンターに立つアリアに向かって嘲るような笑みを浮かべながら手を伸ばす。
アリアは体を硬くした。
「おやめください。お客様、他のお客様のご迷惑になります」
アリアはきっぱりとした態度で答えるが、その声にはかすかな震えが混じる。
その時、奥からドスッと重い足音が響いた。
陽だまり亭の店主、そしてアリアの兄であるゼックが、その大きな体を揺らしながら現れる。
彼の顔には普段の優しい笑顔はなく、鋭い目つきがチンピラたちを睨みつけた。
「お前ら、何をしている」
ゼックの声は低く、しかし有無を言わせぬ威圧感を放つ。
彼の視線がチンピラたちを威圧した。
チンピラたちは一瞬ひるむが、すぐに口元を歪めた。
「なんだ、このデカブツは。店の用心棒か。俺たちを誰だと思ってる」
その言葉にはゼックを侮る響きがあった。
「ここは、客が安心して酒を飲める場所だ。静かにできないのなら、出て行け」
ゼックは一歩踏み出す。
チンピラの一人が剣に手をかけようとした瞬間、陽だまり亭の用心棒であるドラグがその大きな体でゼックの前に立ちはだかった。
彼の目は冷たく、その無言の圧力にチンピラたちは思わず後ずさる。
ドラグの拳が唸りを上げ、その一撃はチンピラの顔面にめり込んだ。
鈍い衝撃音が店内に響き渡り男はうめき声一つ上げることなく、店の外へと吹き飛ばされる。
その場にいた者たちは、一瞬にして静まり返り、チンピラが倒れた場所を呆然と見つめた。
残りのチンピラたちは、ドラグの圧倒的な力に怯え、恐怖の叫び声が響く中我先にと店の外へ転がり出る。
彼らは互いを押し退けるように石畳に不規則な足音を響かせながら一刻も早くこの場から逃れようと夜の闇へと姿を消した。
その背中には獲物を前にした時とは異なる、みっともないほどの焦りが張り付いていた。
「アリア、無事だったか」
ゼックは心配そうにアリアに声をかける。
アリアは震える手でカウンターを掴みながら、小さく頷いた。
「えぇ、兄さん。ドラグさんも、ありがとう」
彼女の感謝の言葉には安堵の息が混じる。
この一件以来、陽だまり亭には以前にも増して重苦しい空気が漂う。
ゼックはアリアの身を案じ、一人で出かけることを強く禁じるようになった。
アリアもまた、街の裏に潜む悪意を肌で感じ外出を控えるようになったが、日々の店の運営にはどうしても足りないものが出てくることもあった。
その数日後、カイエンは街の裏路地でレオンハルトと「偶然」出会う。
カイエンはいつものように酒瓶を片手に、ふらふらと歩いていた。
「やあ、レオンハルト殿。こんなところで会うとは珍しいねぇ。最近、どうも街の空気が怪しいと聞いてね。特に、とある酒場の娘さんが、妙な貴婦人に目をつけられているとか。君のような情報通ならば、何か知っているだろう。僕はてっきり、君のような真面目な商人は、こういう俗っぽい噂には疎いものだと思っていたんだけどね」
カイエンは、わざとらしく酔ったふりをしてレオンハルトに話しかける。
彼の瞳の奥には酒の濁りとは異なる、冷たい光が宿っていた。
その視線は、レオンハルトのわずかな表情の変化さえも見逃すまいと、鋭く彼を捉えていた。
レオンハルトはカイエンの意図を察し、落ち着いた表情で答えた。
「ああ、カイエン様。確かに珍しいですな。私もその噂は耳にしております。どうやらその貴婦人は、街の『慈善』に熱心なあまり、少々やりすぎた行いをしていると。特に、陽だまり亭のアリア殿が、その影響を受けているようですな。カイエン様も、そのような街の噂に耳を傾けるとは、意外でございます。」
レオンハルトはイネスの巧妙な手口とアリアが困惑している様子を簡単に伝え、カイエンの本当の気持ちを探るように言葉を返した。彼の口元にはカイエンの真意を悟ったかのような微かな笑みが浮かんでいた。
「ふむ、それは困ったものだね。あの娘は、少々お人好しだからね。厄介なことに巻き込まれなければいいが。何か、手立てはないものか。君のような賢い商人が、何も考えていないはずはないだろう、レオンハルト殿」
カイエンは心配そうな顔で尋ねる。
その言葉にはアリアを守りたいという強い思いが込められているが、同時にレオンハルトがどう出るかを探る意図もにじむ。
彼の指先が持っていた酒瓶の縁を無意識に、しかし強く握りしめていた。
「ええ、私も同感です。彼女は、この街にとって大切な存在ですから。しかし、表立って動けばかえって事態を悪化させる可能性もございます。慎重に、しかし確実に、動く必要がありましょう。カイエン様もご自身のお立場を考えれば迂闊な行動は慎むべきかと」
レオンハルトは慎重な行動の必要性を強調し、カイエンに釘を刺すように言った。
彼の視線は、カイエンの瞳の奥に宿る普段とは異なる真剣な光を捉えていた。
「なるほど。では、また『偶然』会う機会があればその時にでも、もう少し詳しく話を聞かせてもらおうか。くれぐれも、用心するんだぞ。君のような才能ある商人が、無駄に命を落としては街の損失だからね」
カイエンは、そう言って、レオンハルトの肩をポンと叩く。
その仕草はまるで酔っ払いの気まぐれな行動のように見えたが、その瞳はレオンハルトに明確なメッセージを送っていた。
「ええ、カイエン様も。お大事になさってください」
レオンハルトはカイエンの怪我を気遣う言葉をかけ、二人は別々の方向へと歩き出した。
その日の夕方、陽だまり亭の厨房ではどうしても欠かせない香辛料がほとんど底をついていた。
ハンスは頭を抱え、ゼックも他の用事で手が離せない。
アリアは、みんなの負担を減らそうと自ら市場へ向かうことを申し出た。
「すぐに戻るから」と笑顔で店を出たが、その心には昼間の騒動の残滓がかすかに残る。
しかし、買い物帰りの路地裏で彼女は再び悪意に満ちた影に囲まれた。
今度は、侯爵の私兵たち、そして彼らにそそのかされた数人のチンピラがアリアを待ち伏せていたのだ。
彼らの目は、以前のチンピラたちよりもはるかに冷酷で明らかに危害を加えるつもりだと見て取れた。
「お嬢さん、少々お話がある」
私兵の一人が、冷たい声でアリアに近づく。
アリアは体を硬くし、店の扉に背中を押し付けた。
その瞬間、彼女の心臓がまるで警鐘のように激しく鳴り響いた。
「何をされるつもりですか。私は何も知りません」
アリアの声は震えるが、必死に店を守ろうとする。
彼女の頭の中には、ゼックやアルト、そして陽だまり亭の仲間たちの顔が浮かんだ。
彼らを危険に巻き込むわけにはいかない。
私兵たちはアリアの抵抗をあざけり、一歩、また一歩と距離を詰めていく。
多勢に無勢。
絶望的な状況だった。
アリアは目を閉じ、覚悟を決める。
その時、闇を切り裂くように一つの影が飛び込んできた。
「おいおい、何をしているんだ。可愛い娘さんをいじめるなんて、趣味が悪いではないか」
カイエンだった。
彼は、酒で赤らんだ顔にいつもの「うつけ者」の笑みを浮かべていた。
しかし、その瞳の奥には氷のような鋭い光が宿る。
彼はアリアの危機を察知し、迷うことなく駆けつけたのだ。
最近の疲労と、まだ治りきっていないヴェールとしての活動中の古傷が、彼の動きをわずかに鈍らせていた。
普段であれば完璧にこなすはずの身のこなしも、どこかぎこちなく、一瞬の隙を生んでしまう。
私兵たちは突然のカイエンの出現に驚き、一瞬動きを止める。
「カイエン様。これは、侯爵様のご命令で……」
「侯爵ねぇ、お父様は女性を数人の男で囲んで何をしろとご命令だ」
カイエンの声は普段の軽薄なものとは全く異なり、低く、そして絶対的な響きを帯びる。
彼は、アリアの前に衝動的に立ち塞がった。
私兵の一人が、カイエンの隙を突き剣を振り下ろした。
剣の切っ先がカイエンの左脇腹を深く切り裂く。
冷たい刃が肉を断つ鈍い音が響き、彼の服にじわりと鮮血が滲んでいく。
鉄の匂いが鼻を刺激し、アリアの目の前で彼の「うつけ者」の仮面が、一瞬にして崩れ落ちた。
苦痛に歪んだ真剣な表情が月の光に照らされて、アリアの目に焼き付く。
まるで別人のようだった。
初めて見る彼の本気の顔。
その衝撃が、アリアの全身を駆け巡った。
彼の瞳は、アリアを心配する深い感情で満たされていた。
(あの、いつもふざけてばかりのカイエン様が、なぜ、こんなにも真剣な顔をしているの…… それに、この疲労の色……まるで、夜の闇を駆けるあのヴェール様のよう……)
アリアの頭の中には、ヴェールが街を救うために戦う姿がはっきりと蘇る。
これまで漠然と感じていたカイエンの行動の違和感、時折見せる疲れた様子、そしてあの寒い路地でアルトと共に助けたヴェールの姿と、目の前のカイエンの姿が一瞬重なった。その混乱と、彼が自分を庇ってくれた事実が、彼女の胸を締め付ける。
アリアは、その場で息を詰めたまま、彼の血が地面に吸い込まれていくのをただ見つめることしかできなかった。
時間は、まるで凍りついたかのようにゆっくりと流れていく。
「逃げろ……アリア」
カイエンはそう絞り出すように呟くとその場に膝から崩れ落ちた。
彼の着ていた服が、血でじわりと赤く染まっていく。
その声には、アリアをこの危険な場から一刻も早く遠ざけたいという焦りと切迫感がにじんでいた。
アリアの耳にはその言葉だけが、遠く、しかしはっきりと響いた。
彼女は一歩も動けないまま、ただ、その場に立ち尽くしていた。
この光景を目の当たりにした警備兵の一人が、思わず剣を落としそうになる。
(侯爵の命令は絶対だ。だが、これは……)
彼の指先が剣の柄を強く握りしめた。
侯爵の命令とはいえ罪のない娘を囲み、それを庇ったカイエンを斬りつける私兵たちの暴挙に彼の正義の心が激しく揺さぶられた。
アリアは、目の前で起こった出来事にただ呆然と立ち尽くす。
息を呑み、心臓が凍りつき、目の前が真っ白になった。
全身の血の気が引くのを感じ、耳鳴りがした。
カイエンが自分を庇って傷ついたのだ。
あの、いつもふざけてばかりの「道楽者」が。
彼の瞳に宿っていた、あの真剣な光。
そして、絞り出された「逃げろ」という言葉。
それは、彼が単なる「うつけ者」ではないこと、これまで漠然と感じていた疑いを確信へと変えるには十分すぎる光景だった。
その時、背後から落ち着いた声が聞こえた。
「おいおい、何をしているんだ。こんなところで騒ぎを起こすのは感心しないな」
レオンハルトだった。
彼はカイエンがヴェールであることを知っており、侯爵の私兵とイネスの動きを警戒しこの場所へと駆けつけていたのだ。
彼の瞳は鋭く、事態を瞬時に把握する。
彼は倒れている人影に目をやった。
レオンハルトは、その傷つき倒れた姿がカイエンであると瞬時に理解した。
レオンハルトは、倒れたカイエンの傍らに駆け寄ると私兵たちを冷たい視線で睨みつける。
「貴様ら、何をしている。街の者に手を出した上、侯爵家の長男にまで危害を加えるとは、ただでは済まないぞ」
彼の声には侯爵家と繋がりを持つ商人としての威厳が込められていた。
私兵たちは、レオンハルトの言葉に動揺し一瞬ひるむ。
侯爵の命令を受けていたとはいえまさかその息子にまで危害を加えることになろうとは、彼らの想定を超えていた。
顔には不満の色が浮かんだが、上官からの明確な指示がない以上、これ以上の行動は控えるのが彼らの身の処し方だった。
彼らは互いに視線を交わし、しぶしぶといった様子でカイエンから距離を取ると路地の奥へと溶け込むように姿を消した。
その足音には任務の中途半端な終わりに対する苛立ちがにじんでいたが、同時に、命令には逆らえない兵士としての従順さも感じられた。
その直後、騒ぎを聞きつけた街の人々や良心的な警備兵たちが駆けつけ、逃げ遅れた私兵やチンピラたちを捕らえていく。
アリアは、カイエンの傍らに駆け寄った。
彼の脇腹からは血がじわりと滲み出ている。
「カイエン様。大丈夫です。申し訳ありません、私のせいで……」
アリアは震える手でカイエンの傷に触れようとした。
その瞳には、心配と、そして深い感謝と申し訳なさが入り混じる。
しかし、レオンハルトがその手を制した。
「アリア殿、手当は私がしよう。カイエン様は、私が責任を持って送っていき手当をします」
レオンハルトは、アリアの言葉を遮るように言った。
彼の視線はカイエンに送られる。
カイエンは、レオンハルトの意図を察しかすかに頷いた。
「はっはっは、レオンハルト殿。ご心配には及びませんよ。この程度の傷、どうということはない。だが、せっかくのご厚意だ。君に世話になるのも悪くないね。陽だまり亭に運ぶのは、少しばかり人目が気になる。僕の別邸の方が、ゆっくりと休めるだろう。邸に着いたらマヌエルを呼んでくれるかい」
カイエンは、苦痛に歪んでいた表情を瞬時にいつもの軽薄な笑みに切り替えた。
その口元は笑っているが、わずかに引き攣り、左脇腹に回した手が、無意識に傷口を庇うようにかすかに震えているのが見て取れた。
彼の瞳の奥には、まだ痛みの色が残っていたがそれを悟らせまいと、彼はわざとらしく肩をすくめる。
彼の言葉は表向きは気ままな道楽者の振る舞いだが、その裏には、自身の正体を隠すための明確な意図が込められていた。
レオンハルトは、カイエンの言葉に静かに頷いた。
彼の視線はカイエンの震える指先を一瞬捉え、そしてすぐにアリアへと向けられた。
その表情には、カイエンの覚悟を理解した上での深い尊敬と、そしてわずかな悲しみが宿っていた。
彼はアリアに「心配するな」と告げると、カイエンを支えて、出来るだけ人目のある通りを通って別邸へと姿を歩き出した。
アリアは二人の後ろ姿を見送りながら、ただ呆然と立ち尽くした。
彼女の視線は、カイエンが倒れていた場所に残されたわずかな血痕に吸い寄せられる。
その赤色が、彼の真剣な表情と、自分を庇ったという事実を何度も何度も彼女の脳裏に焼き付けた。
カイエンの本当の姿への疑問と、自分を庇ってくれた彼への感謝、そして得体の知れない温かい感情が、彼女の胸の中で渦巻く。
それはこれまで知っていた「カイエン様」という枠をはるかに超える、複雑で、しかし抗いがたい引力を持つ感情だった。
一方レオンハルトは、カイエンの二重生活を目の当たりにし、その命がけの戦いに改めて深い敬意を抱いた。
彼は、この街の闇の深さと、それに立ち向かうカイエンの孤独な戦いを改めて認識したのだった。
しばらくして、侯爵の屋敷では報告を受けたラモンが、書斎の重厚な椅子に深く身を沈めていた。
カイエンが負傷し、それが自分の命令ではない私兵の暴走によるものだと知らされた時、彼の内ではぐつぐつと煮えたぎる鉄のような怒りが込み上げた。
しかし、長年この街を支配してきた侯爵はその感情を瞬時に、そして冷徹に抑え込んだ。
「馬鹿な。私が命じていないことが、なぜ起こる。誰が私の意図に反して動いているのか。そして、なぜカイエンが巻き込まれたのか」
彼はゆっくりと目を開き、その瞳はまるで深淵を覗き込むかのように冷たくそして鋭い光を放っていた。
「この件の真相を、徹底的に調べ上げろ。関わった者全てを洗い出し、私に報告せよ。誰の差し金であろうと、私の領域で勝手な真似は許さない。早急に、そして秘密裏にな。逆らう者は、一人残らず潰せ」
彼の言葉には一切の感情が込められていないように聞こえたが、その声の底には自身の支配を揺るがす者への深い氷のような怒りと、冷酷なまでの報復の意思が宿っていた。
侯爵の書斎には、静寂だけが残された。
少し日が開いてしまいましたが、更新させて頂きました。
読んで頂いた方、ありがとうございます。
そしてお時間頂まして、ありがとうございました。




