第二十話
晩春の柔らかな陽光に包まれて、潮風はすっかりその冷たさを失い、遠くの海からは穏やかな波の音が聞こえてくる。
街路の雪は跡形もなく消え去り、代わりに色とりどりの花々が咲き誇り、その甘い香りが風に乗って街中に広がる。
木々の新緑は目に鮮やかで鳥たちのさえずりが空に響き渡っていた。
長く厳しい冬を越えた人々は、ようやく訪れた穏やかな季節にわずかな安堵を覚えているかのようだった。
しかし、その穏やかな季節の到来とは裏腹に、港街にはどこか張り詰めた空気が漂っていた。ラモン侯爵が主催する「春の祭典」。
それは、侯爵が王国や他領の貴族に対し港街の「健全な発展」を示すための見せかけの催しであり、同時に「大規模改修計画」への市民の不満を逸らすための巧妙な策だった。
祭典の費用の一部は、王国から得た「都市活性化政策給付金」から捻出されていると公表されたが、市民は以前ほど無邪気に喜ぶことはなかった。
祭りの賑わいの裏で彼らの心には不満や諦めが募っていた。
祭典当日、港街の中心広場は色鮮やかな旗や飾り付けで彩られ、祝祭の音楽が鳴り響いていた。
広場の中心では、鮮やかな衣装をまとった大道芸人が火を吹く芸を披露し、子供たちの歓声が上がっていた。
その傍らでは、吟遊詩人が軽快なリュートの音色に合わせて春の訪れを歌い上げている。
露店からは、焼き菓子の甘い匂い、香ばしい肉の串焼き、そして淹れたてのコーヒーの香りが混じり合い食欲をそそる。
手作りの装飾品や、色とりどりの布製品が並べられ、人々は品定めをしながら談笑していた。
侯爵は、広場に設けられた特設の壇上から集まった市民たちに高らかに挨拶を述べた。
彼の顔には、自らの「善意」に満ちた笑みが浮かんでいる。
「諸君、この素晴らしい春の訪れを共に祝い、港街の繁栄を祈ろうではないか。この祭典は、我がデル・ルナ侯爵家が、諸君らの日々の労苦を労いプエルト・エスぺランサへ未来の希望を分かち合うためのものだ、存分に楽しんで頂きたい」
侯爵の言葉に市民たちの拍手はどこか乾いた音を立て、その歓声は祭りの音楽に吸い込まれるように消え、熱を帯びていなかった。
彼らの表情には、無理に作った笑顔の裏に深い疲弊と諦めの色が浮かんでいた。
侯爵に忠実な警邏隊は祭りの警備に当たり、人々の間を巡回していた。
彼らの中には命令を忠実に遂行しようとするが、市民たちの冷めた反応や、侯爵の偽善的な振る舞いを間近で見て、内心で反発を強める者もいた。
警邏隊員の一人、若い兵士が祭りの賑わいの中で、ふと視線を落とした。
彼の足元には、幼い子供が落としたであろう小さな木の人形が転がっている。
その人形はどこか疲れたような表情をしていた。
彼は人形を拾い上げ子供に返そうと周囲を見回したが、その光景は彼の心を締め付けた。
広場にいる子供たちの多くは、以前のような無邪気な笑顔を見せず、親のローブの裾にしがみつき、不安げに周囲を見回している。彼らの親もまた、祭りの食べ物を買うことすら躊躇し、財布の中身を何度も確認していた。
侯爵様は、本当に我々のことを考えているのだろうかと、若い兵士の心に疑問が渦巻いた。
彼は侯爵の命令と自身の良心の間で、激しい葛藤を覚えていた。
侯爵の言葉はまるで空虚な響きを伴って彼の耳に届いた。
彼は、この祭典が市民の苦しみを覆い隠すための、薄っぺらい仮面に過ぎないことを痛感していた。
広場の奥では、レオンハルトが祭りの喧騒の中に身を置いていた。
彼は《陽だまり亭》に逗留する商人として、この港街の祭典を観光客の一人のように楽しんでいるように見えた。
洗練された礼服に身を包み、その表情には常に冷静な知性が宿っている。
彼の真の目的は、侯爵の偽善的な「慈善事業」の裏側を探り、市民の真の感情を把握することだった。
彼は侯爵が壇上から高らかに語る言葉へ耳を傾けながらも、その視線は広場に集まる市民たちの顔を注意深く観察していた。
(侯爵は、この祭典で民衆の不満を逸らそうとしている。だが、彼らの目には疲弊と諦めの色が深く刻まれている。この華やかな催しが、彼らの心を癒すことはないだろう)
彼は、侯爵の言葉と市民の反応との間に横たわる深い溝を冷静に分析していた。
人々の間を縫うように歩き、露店の賑わいに紛れて様々な人々と会話を交わす。
「このパンは美味いな。だが、こんな祭りをやってる場合じゃないだろうに」
「ああ、まったくさ。税金で苦しめられてるのに、誰が心から喜べるものか」
「そう思うかい……。あんた、どこから来たんだい」
そんな声が彼の耳に届く。
レオンハルトは、市民の言葉に相槌を打ちながら彼らの本音を引き出していく。
侯爵の支配が揺らぎ始めていることを肌で感じていた。
彼の視線は、侯爵に従っている警邏隊の動きにも向けられた。
彼らが市民の小さな抵抗にどう反応するか、あるいは見て見ぬふりをするのか、その行動の一つ一つを注意深く観察していた。
彼は、この祭典が侯爵の支配の脆弱性を暴く、新たな手がかりとなる可能性を秘めていることを予感していた。
一方、広場の別の場所では侯爵家の長男カイエンが祭りの広場を気ままに歩き回っていた。
彼はいつものように、どこか頼りない、呑気な笑みを浮かべ、手に持った酒瓶を傾けている。
周囲の貴族や市民からは、「またあの道楽息子が」という嘲笑や呆れの視線が向けられるが、彼は全く気にする様子がない。
(父上も随分と派手なことをする。この祭典で、民衆の目を欺けると思っているのか)
彼の心の中では、侯爵の偽善に対する冷徹な分析がなされていた。
彼は、祭りの賑わいに紛れて市民たちの顔を一人ひとり観察していた。
彼らの瞳の奥に宿る諦めと、それでも消えずに残る微かな抵抗の光をカイエンは見逃さなかった。
カイエンは、露店の並ぶ通りをゆっくりと歩いた。
焼き菓子の甘い香りに誘われるように立ち止まり、一つ手に取ると、わざとらしく「うむ、これは美味い」と大声で唸り、代金よりも多めに金貨を置いて去っていく。
次に、手作りの木工品を売る店の前では、子供向けの小さな木馬を指差し、「これは可愛いねぇ、知り合いの子供にでも買ってやろうかね」と、にこやかに購入した。
彼は、道化を演じながらも店主の顔に浮かぶわずかな困惑や、客の少ない露店の寂しさを敏感に感じ取っていた。
そしてさりげなく、しかし確実に、街の人々の売り上げに貢献していた。
祭りの賑わいの裏で市民たちのささやかな抵抗が静かに、しかし確実に広がっていた。
露店の片隅で一人の老人が、侯爵の家紋が飾られた旗にこっそりと小さな石を投げつけかすかに汚れをつけた。
それは、一見するとただの偶然の出来事に見えるが、その老人の瞳には確かな反抗の光が宿っていた。
別の場所では、数人の若者たちが侯爵の栄光を称える行進曲に合わせて、古くから港街に伝わる労働歌を低い声で口ずさんでいた。
その歌は、抑圧された者たちの苦しみと、いつか訪れる自由への希望を歌い上げるものだった。
彼らの歌声は祭りの喧騒に紛れてほとんど誰にも気づかれない。
しかしその歌声を聞いた警備にあたる警邏隊員の中には、その歌の意味を理解しあえて見て見ぬふりをする者もいた。
彼らは、警邏隊員たち同僚の目を欺きながら、市民の小さな抵抗を黙認していた。
彼らの心には、ヴェールの影響が深く根付いておりこの街に真の正義が訪れることを密かに願っていたのだ。
カイエンは、侯爵の家紋が飾られた旗に石を投げつけた老人を見ても何も言わずに通り過ぎた。
労働歌を口ずさむ若者たちの傍を通り過ぎる際も、彼らの歌声に耳を傾けながらただぼんやりと空を見上げるだけだ。
彼の放蕩息子としての仮面は、彼がヴェールとして活動するための完璧な隠れ蓑だった。
カイエンは、レオンハルトが市民の様子を注意深く観察していることに気づくと、さりげなく彼の近くを通り過ぎた。
二人の間に言葉は交わされないがカイエンはレオンハルトの鋭い観察眼が自身に向けられていることを感じ取り、レオンハルトもまた、カイエンの呑気な仮面の下に何か隠されたものがあるのではないかと微かな違和感を覚えていた。
カイエンの心には、この街を救うという強い決意と愛する者たちを守るという重い責任感が渦巻いていた。
彼の二重生活は彼の精神を深く疲弊させていたが、この街の未来のために彼はその仮面を被り続けるしかなかった。
《陽だまり亭》は、祭典に合わせて広場に小さな露店を出していた。
ハンスが腕を振るって作った総菜パンは三種類有り、ゴロゴロと具材の入っていてそれぞれ味が違うのだ。
ギリギリの安値で大量に準備されており、凍える冬を越えて税金も上がってお腹が一杯に食べれる事が少なくなり、少しの食べ物を確保するのも大変な今は、何よりのご馳走だった。
ゼックとマチルダ、そしてアルトは露店に立ち声を上げて人を呼び込み、試食をして貰ったりと忙しくしていた。
露店の前で客引きをしていると、アルトは自分と変わらないぐらいの男の子が母親の手に引かれて祭典を見て回っているのを見つけた。
男の子のほうはキョロキョロと色々な食べ物の出店を見ており母親は少しくすんだ服を着ていた。
陽だまり亭の出店場所近くに来た時、アルトはその男の子の前に元気よく飛び出した。
「ねぇ、味見してかない」
アルトはそう話しかけると、手に持っていた総菜パンを半分に割って、その子に差し出した。そして、もう片方の半分を母親に渡そうとする。母親は、お金がないからと断ろうとしたが、アルトは屈託のない笑顔で続けた。
「今日のパンは特別だけど、陽だまり亭の普段のパンもおいしいんだ。最近は種類も増えたしさ、比べるためにも食べてみてよ」
アルトの言葉に、母親は戸惑いながらも、その純粋さに心を動かされているようだった。その様子を見たマチルダが、母親に優しく声をかけた。
「何も買って帰れと言ってるんじゃないよ。これを機会に、気が向いたら陽だまり亭に来てくれればいいなって思ってるだけさ。試しに食べてみな」
マチルダの温かい言葉に、母親は少しだけ顔を赤らめながらも、差し出されたパンを受け取った。男の子は、パンを一口頬張ると、その顔に満面の笑みを浮かべた。その笑顔は、祭りの賑わいの中で、ひときわ輝いて見えた。
陽だまり亭の露店は、おかげさまで昼時にはかなりの賑わいを見せた。
客足が途絶え、しばらく暇ができた時、アルトはゼックとマチルダに声をかけた。
「ゼック兄ちゃん、マチルダさん、僕、ちょっと広場を見て回ってきてもいい」
ゼックはアルトの頭をくしゃっと撫でた。
「ああ、いいぞ。だが、あまり遠くへ行くなよ。何かあったらすぐに戻ってこい」
マチルダも笑顔で頷いた。
「気をつけてね、アルト。迷子になったら大変だからね」
アルトは元気よく返事をすると、再び好奇心にかられて広場の探索を始めた。
彼は《陽だまり亭》での手伝いを通じて街の様々な人々と交流し、スラムで培った機転と観察力を磨いていた。
彼の純粋な好奇心は、大人たちが見落としがちな細部にまで目を向けさせた。
祭りの最中、アルトは広場の隅にある普段は使われていない古い倉庫の裏手で不審な動きを目撃した。
粗末な布に包まれた複数の人影が、何かを運び出しているのだ。
その包みは人の形を思わせるほどに大きく、しかし、まるで中身が軽いかのようにひどく不自然に揺れていた。
運ぶ者たちの足音は祭りの喧騒に紛れてほとんど聞こえなかったが、時折、布と布が擦れるような、微かな、しかし耳障りな音が響いた。
アルトは、その人影が以前《救済の館》の裏口から運び出されていたものと似ていることに気づいた。
彼にはそれが何なのかまでは分からなかったが、その光景はアルトの幼い心に、冷たい氷の塊を落とし込んだかのような、言いようのない不安を刻み込んだ。
さらにアルトは、警邏隊長と、慈善団体を名乗る悪徳商人ジェラが、祭りの喧騒から離れた場所で密かに言葉を交わしているのを目撃した。
彼らの手には小さな袋が握られており、そこから金貨の音が微かに聞こえた。
その警邏隊長の顔には、普段の厳格な表情とは異なるどこか焦りのようなものが浮かんでいた。
アルトは、その光景が何か悪いことと関係していると直感した。
彼らの会話が風に乗って微かに耳に届く。
警邏隊長の低い、しかしどこか苛立ちを含んだ声と、ジェラのねっとりとした妙に愛想の良い声が、交互に聞こえてきた。
「……あの件は、滞りなく進んでいるな」
「ええ、館の裏手から……誰も気づきませんよ。これで侯爵様もご満悦でしょう」
アルトには、それが何を意味するのか正確には理解できなかった。
しかし、「館の裏手から……誰も気づかない」という言葉が、彼の胸に冷たい鉛を流し込むような不気味さを与えた。
それは、彼が以前《救済の館》の裏口で目撃した不審な動きと明確に結びつくものだった。
アルトは、その日の夕方、祭りの露店が片付けられ始めた頃に興奮した様子でゼックとマチルダに駆け寄った。
ゼックのローブの裾を引っ張り、内緒話をするように小声で耳打ちした。
「ゼック兄ちゃん、あのね、僕、聞いちゃったんだ。すごい、すごい悪いこと……」
アルトは、震える声で広場の隅で聞いた警邏隊長とジェラの会話についてゼックにだけ詳しく語り始めた。
不審な人影の運び出し、そして彼らの会話の内容。
彼の言葉は幼いながらも具体的で、その内容の恐ろしさにゼックの顔から血の気が引いていく。
アルトの報告を聞き終えると、ゼックは眉をひそめ真剣な表情になった。
「アルト、よく見つけたな。それは重要な情報だ。お前はスラムで育ったから、行っていい場所と悪い場所の区別はつくはずだ。お前が耳にしたのは、侯爵の悪意の根幹に関わる話だったんだ。もし次に何か異変に気づいても、絶対に一人で近づくな。すぐに俺か、ドラグに言うんだ。――いいな、 お前を守れるのは俺たちだけなんだから」
ゼックの声にはいつものぶっきらぼうな響きに加えて、心配とアルトを案じる親心のような響きが宿っていた。
アルトの勇敢な行動を認めつつも、彼が危険に晒されることへの強い懸念を示す。
ゼックは、この情報が侯爵を追い詰めるための重要な手がかりとなることを予感していた。
祭りが終わり、陽だまり亭の本店に戻ったゼックは夜の営業が落ち着いた頃合いを見て、アリアを住居スペースへと呼び出した。
暖炉の火が静かに燃えるリビングでゼックはアルトを優しく膝に乗せ、アリアもまた、その傍らに座りアルトの小さな肩を抱き寄せた。
二人は、アルトを挟むようにしてその小さな秘密を共有する準備を整えた。
「アルト、よく聞いてくれ。さっき広場で見たこと、そして聞いた話、それはとても大切なことだ。だが、同時に、とても危ない話でもある」
ゼックは、アルトの目を見つめ、静かに、しかし真剣な声で語りかけた。
「黒い布に包まれた人たちが何かを運んでいたこと、警邏隊のおじさんとジェラが話していたこと……『館の裏手から……誰も気づきませんよ。これで侯爵様もご満悦でしょう』って、そう言っていたんだろう」
アルトは震える声で頷いた。
彼の顔色は、青ざめている。
アリアは、アルトの頭を優しく撫でながらその小さな背中を抱きしめた。
「アルト、よく見ていたわね。本当に、すごいわ。でもね、これは、私たちだけの秘密よ。誰にも話してはいけないわ。このお話は、ゼック兄ちゃんとアリア姉ちゃん、そしてアルトの三人だけの秘密。いいかしら」
アリアの言葉は、アルトの心にこの情報の重大さを改めて刻み込んだ。
それが、どれほど危険な秘密であるかを幼いながらも理解したのだ。
「……館の裏手から……誰も気づかない、だと……」
ゼックは、絞り出すような声で呟いた。
その言葉が意味することを、彼はすぐに理解した。
以前から噂されていた《救済の館》での不審な失踪。
それが、侯爵の私兵と警邏隊、ジェラによって組織的に行われていることをアルトの無邪気な報告が明確に示していたのだ。
ゼックは、アルトの小さな手をぎゅっと握りしめた。
「アルト、よく頑張って話してくれたな。でも、もうこんな危ない場所には行っちゃダメだ。約束しよう。もし次に何か異変に気づいても、絶対に一人で近づくな。すぐに俺か、ドラグに言うんだ。 お前が痛い思いをするのも、怖い気持ちになるのも、俺たちは考えただけで悲しくて辛くて、そんなことになったら相手を許せないよ」
彼の声には、心配と、そしてアルトを案じる親心のような響きが宿っていた。
アリアは、アルトの成長に目を細めた。
彼の言葉の一つ一つが、侯爵の不正の新たな糸口となる可能性を秘めている。
彼女の胸に希望の光が灯った。
「アルトよく見ていたわね、本当にすごいわ。でもね、無事に帰ってきてくれてありがとう」
アリアはアルトの頭を優しく撫で、その小さな背中を抱きしめた。
彼女の心には、この街の未来を諦めてはならないという強い決意が芽生えていた。
市民のささやかな抵抗、そしてアルトのような子供たちの成長がこの街に希望の火を灯し続けている。
祭りの終わりと共に侯爵の圧政が再び強まる予兆が、港街の空に漂い始めていた。
祭りの賑わいは一時的なものでしかなく、市民の心に深く根差した不満は決して消え去ることはなかった。
侯爵は、祭典の成功を自らの権威の象徴と捉えその支配の網をさらに強固に張り巡らせようとしていた。
街には、祭りの後の静けさとは異なる重苦しい予感が満ち始めていた。
アルトが目撃した情報は侯爵の不正の新たな側面を明らかにするものであり、今後の展開に大きな影響を与えるだろう。
読んで頂き、ありがとうございました。
遅い時間に更新していますが、
一人でも読んでくださっている方がいれば本当に嬉しいです。
有難う御座いました。




