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第十七話

 港街プエルト・エスぺランサに、本格的な春の兆しが訪れていた。

 冬の間に凍てついていた大地は柔らかさを取り戻し、街路の雪は完全に姿を消し、小川のせせらぎが明るい音を立てて流れていた。

 色とりどりの花々が庭園を飾り始めその甘い香りが風に乗って街中に広がる。

 長く閉じ込められていた人々は、ようやく解放されたかのように街へと繰り出し市場は活気に満ち溢れ、子供たちの歓声がそこかしこで響き渡っていた。


 そんな生命の息吹に満ちた季節の到来は、貴族社会にも新たな社交シーズンの幕開けを告げていた。

 冬の間に滞っていた交流が再開され、舞踏会や茶会、音楽会といった催しが、連日のように開かれるようになる。

 中でも、港を見下ろす高台に立つデル・ルナ侯爵邸はその華やかさと格式で社交界の中心となっていた。


 今回の小規模な社交パーティーは、表向きは侯爵が新興勢力との関係を深めるためのものとされていたがその裏には侯爵邸に「預かり」の身分で迎え入れられたイネス・ブランネスが自らの存在を社交界に知らしめ、その地位を確立するための意図が隠されていた。


 侯爵邸は、パーティーに向けて入念な準備が進められていた。

 大広間は、天井から吊るされた巨大なシャンデリアが眩い光を放ち、磨き上げられた大理石の床にはその光が反射してきらめいていた。壁には歴代侯爵の肖像画が飾られ、重厚な絨毯が敷き詰められた階段は訪れる貴人たちを二階へと誘う。

 部屋の隅々には季節の花々が生けられ、その芳しい香りが焼きたての菓子やワインの芳醇な香りと混じり合って漂っていた。

 使用人たちは皆最高級の制服に身を包み、完璧な動作で客人を迎え入れる準備を整えている。


 イネスは、侯爵邸の新たな「預かり」としてこのパーティーの準備を見守っていた。

 侯爵夫人イサベラの病弱を理由に邸の実務は執事長エミリオが中心となって取り仕切っていたが、イネスはその様子を注意深く観察する機会を得た。

 彼女は表向き恭しく振る舞いながらも、使用人たちに『侯爵様はご機嫌麗しいでしょうか』『奥様のご体調はいかがですか』とさりげなく声をかけ侯爵夫妻の様子を探った。

 また、『カイエン様やエレナ様は、どのようなご趣味をお持ちでいらっしゃるのかしら』と尋ねることで、彼らの日常や人となりについて一言二言聞き出していた。

 彼女は使用人たちの動線、物品の管理、そして邸の隅々に至るまで、その目と記憶に焼き付けていった。

 時に控えめな「提案」を口にすることもあったが、それはあくまで客分としての礼儀を装ったものであり、決して采配を振るうような真似はしなかった。

 しかし、その洞察力と機転は使用人たちの間でも密かに「鋭い眼をお持ちの方」と囁かれ始めていた。


 パーティーが始まると、邸内はたちまち華やかなざわめきに包まれた。

 軽やかな弦楽器の音色が満ち、貴婦人たちのドレスの擦れる絹ずれの音や宝石の微かな煌めきが、視覚と聴覚を刺激する。

 深紅のベルベットのカーテンが窓辺を飾り、外の春の光を柔らかく遮っていた。

 テーブルには、山海の珍味が贅沢に並べられ、芳醇なワインの香りが部屋中に漂う。

 誰もが完璧な笑顔を浮かべ、しかしその瞳の奥にはそれぞれが抱える思惑や計算が隠されていた。


 イネスはその中心にいた。

 深紅のシルクのドレスは彼女のしなやかな体つきを際立たせ、微かな香水の匂いが、周囲の男たちを魅了する。彼女は人当たりの良い笑みを絶やさず訪れる貴族や有力者たちに丁寧に挨拶を交わし、巧みな会話術で彼らの心を開いていく。

 病弱な母の見舞いという表向きの口実も、彼女の「温和で人当たりの良い貴婦人」としての振る舞いを補強し、周囲の貴族たちはイネスを好意的に受け入れた。


 しかし、その瞳の奥ではイネスは常に情報を探っていた。

 彼女は会話の端々から、侯爵家の内部事情、侯爵の行動パターン、そしてカイエンの性格や交友関係など、侯爵家の「弱点」となりうる情報を注意深く探り入れた。

 特に、侯爵が最近街の警邏隊長ダミュエルと密かに会っているという噂や、侯爵夫人が体調を崩しがちで、邸の運営に支障をきたしているという話は彼女にとって重要な情報として頭の中に記憶されていく。

 彼女の目的は侯爵への復讐と自身の境遇からの脱却であり、そのために必要な情報を彼女は決して見逃さなかった。


 パーティーの最中、ラモン侯爵は広間の中心に立ち訪れる貴族たちを威厳ある態度で迎え入れていた。

 彼の顔には自信に満ちた笑みが浮かんでいたがその視線は常に周囲を警戒するように巡らされていた。

 

「侯爵様、この度の『慈善事業』、誠に素晴らしい取り組みでございます。街の者どもも、さぞや感謝していることでしょう」

 中堅貴族が恭しく頭を下げて侯爵を称えた。

 

「ふむ、当然のことだ。この街の安寧こそ、我が領主としての務め。民に施しを与えるは、統治者の当然の責務であり、それをもって街が潤うならば、余に異存はない」

 

 侯爵は鷹揚に頷きながらもその言葉にはどこか冷たい響きがあった。

 彼はこの「慈善事業」が自身の権力基盤を強化するためのものだと、暗に示しているかのようだった。


 その侯爵の傍に、カイエンが近づいてきた。

 いつものようにどこか頼りない笑みを浮かべている。

 

「父上、今日のパーティーも盛大ですね。美味しいお酒と、美しい方がたくさんで、僕も楽しんでおりますよ」

 

 カイエンは、わざとらしくグラスを傾けながら言った。その言葉と仕草は、貴族の社交を楽しむ世間知らずの息子の振舞だ。


 侯爵は、カイエンを一瞥し、わずかに眉をひそめた。

「カイエン、貴様はいつもそうだな。そのような浮ついた言葉ばかりで、いつになったら侯爵家を背負う者としての自覚が芽生えるのか。そろそろ真面目に家政に関わるべきだぞ」

 侯爵の声には、息子への失望と、わずかな苛立ちが滲んでいた。彼はカイエンの「無能」な振る舞いを、心底見下しているようだった。


 カイエンは、父親の言葉にも動じることなく飄々と笑った。

 

「はっはっは、父上。僕にはまだ難しいですよ。それよりも、このパーティーで、侯爵家にとって有益な情報でも探してくる方が、僕には向いているかもしれませんね。美人なご令嬢方との会話は、意外と世情を映す鏡ですから」

 

 カイエンは、まるで冗談を言うかのように言いながらちらりとイネスの方に視線を向けた。

 彼の言葉の裏は侯爵の耳には届かない、別の意味が込められていることを彼だけが知っていた。

 侯爵は鼻を鳴らし、それ以上カイエンに構うことなく別の貴族との会話へと移っていった。

 カイエンは侯爵の視線から逃れるように、静かにその場を離れた。

 彼の軽薄な振る舞いの仮面は、父親の前で一層深く被り続けなければならなかった。


 パーティーの最中、一人の青年が侯爵に挨拶を交わしていた。

 新興商家の三男として、プエルト・エスぺランサで話題になっているレオンハルト・フォン・ヴィンターだ。

 彼は侯爵の招待を受けこの宴会に出席していた。

 表向きは商会の事業拡大のための「勉強」とされていたが、彼の真の目的は侯爵の不正を調査しその証拠を収集することにあった、彼は洗練された礼服に身を包みその表情には常に冷静な知性が宿っている。


 レオンハルトと侯爵は丁重な挨拶を交わした。

 侯爵は表向きは丁重に応じたが、その眼差しは急成長する新興商家の三男であるレオンハルトの奥底を探るようだった。

 侯爵の脳裏には以前レオンハルトが自身の秘密保管庫から「密約書」を盗み出した事実が鮮明に焼き付いていた。

 侯爵はレオンハルトの行動を警戒し、彼が再び侯爵家に危害を加えることを恐れていた。

 しかし公に騒ぎ立てれば自身の不正が露見する危険があるため、表向きは穏やかに接するしかなかった。

 侯爵はレオンハルトを招待することで、彼を監視し、その動きを牽制しようと考えていた。

 レオンハルトは侯爵にとって無視できない厄介な人物だった。


「レオンハルト殿、ようこそ我が侯爵邸へ。そなたの商会が目覚ましい発展を遂げていると聞く。この港街の将来のためにも、そなたのような才覚ある若者の力は欠かせぬものと期待している。だが、街の秩序を乱すような行いは、決して容認できぬ。貴殿も気を付けて過ごして頂きたい。」

 

 侯爵の声には表面的な称賛とその裏に隠された冷酷な圧力が込められていた。

 彼の瞳はレオンハルトのわずかな動揺すら見逃すまいと鋭く光っている。

 侯爵は内心で、この若者をいかにして無力化するかその思案を巡らせていた。


 レオンハルトもまた、侯爵の表面的な態度とその裏に隠された冷酷さを感じ取り、警戒心を怠らなかった。

 彼もまた、侯爵が自分を招いた真意が探りや牽制にあることを理解していた。

 

「侯爵様、過分なお言葉、恐縮でございます。微力ながら、この港街の発展に貢献できるよう尽力いたします。貴殿の広大な領地の隅々にまで、豊かな商いの風が吹くよう、私どもも精一杯励む所存でございます」

 

 レオンハルトは、侯爵の言葉の裏にある牽制を理解しつつあくまで恭しい態度で応じた。

 彼の言葉には、侯爵の支配が港街全体に及んでいることへの言外の示唆と、自身の商会がその影響力を広げつつあるという静かな主張が含まれていた。

 レオンハルトは侯爵との会話の合間にも周囲に集まる貴族たちの様子を観察し、言葉巧みに彼らの懐に飛び込み、侯爵やデル・ルナ家に関する情報を少しでも多く聞き出そうとしていた。

 彼の冷静沈着な振る舞いは内に秘めた強い正義感と知的好奇心によって支えられていた。


 短い会話の応酬の中、互いの腹を探り合うような見えない火花が散る。

 会話を終えたレオンハルトは広間を見回した。

 豪華絢爛な装飾、高価な酒と料理、そして着飾った人々。しかし、その華やかさの裏には薄暗い権力闘争や腐敗した貴族社会の匂いが渦巻いているのを彼は肌で感じ取っていた。

 彼にとってこの社交の場は、獲物の動きを探るための狩場に他ならなかった。


 レオンハルトは酒を片手に広間をゆっくりと巡っていた。

 その耳には、様々な貴族たちの噂話が飛び交う。

 

「侯爵様も、最近はご苦労なさっているようで。あの『街の酒場』での騒ぎでは、ずいぶんんと評判を落とされたと聞く」

 老貴族が、低い声で隣の男に囁いているのが聞こえる。

「ああ、しかし、この度の『救済の館』は、さすが侯爵様というべきか。民の不満を巧みに逸らしている」

 別の貴族が、侯爵の偽善的な慈善事業を称賛するような口調で応じた。レオンハルトは、内心で冷ややかに鼻を鳴らす。

 彼は、若手の貴族グループに近づき、柔らかな笑みで話しかけた。

「皆様、今晩は。私は旅の商人で、レオンハルト・フォン・ヴィンターと申します。貴地の社交は、活気に満ちていらっしゃる。最近、港街では新たな動きが多いと聞きますが、皆様は何かご存知ですか」

 

 彼の質問はあくまで商人の好奇心を装っていたが、その問いかけは最近の侯爵の動きや、その背後にある噂を探るものだった。

 若手貴族たちは、旅の商人という珍しい来訪者に興味を示し警戒心なく口を開き始めた。

 

「そうですね、やはり『救済の館』の話題が大きいでしょう。侯爵様のご慈悲で、貧しい者も救われると」

「しかし、陰では、館での労働が過酷だとか、夜な夜な不審な者が運び出されるとか……物騒な噂も耳にしますね」

 

 レオンハルトは彼らの言葉を注意深く聞きながら、その情報に隠された真実の断片を探っていた。

 彼の表情は変わらず穏やかで、知的なユーモアを交えながら会話を続け相手の懐に入り込んでいく。


 その視線が、ふと侯爵家の一人娘エレナ・デル・ルナに留まった。

 彼女はまだ幼さが残る顔立ちだが、その瞳はきらきらと輝き、まるで好奇心の光を宿しているかのようだった。

 エレナは、父親である侯爵に大切に囲われて育ったため、世間知らずでどこか人形のような無垢な明るさをまとっていた。

 兄カイエンの軽薄な振る舞いを、彼の生まれ持った本質だと信じ込んでいたがそれでも兄への深い愛情と信頼を抱き、常に心配し、その将来を案じていた。

 周囲の貴族たちがカイエンを評する、ささやかな嘲笑や諦めの声が耳に届くたびエレナの胸はきゅっと締め付けられ、深い悲しみに包まれた。

 愛する兄がそのように見下されている現実に、彼女はひどく落ち込んでいた。

 同時に、最近父ラモン侯爵の気性が荒くなっていることにエレナは漠然とした恐れと心配を抱いていたが、その真の意味を理解するには、あまりにも無垢すぎた。


 この宴会でも彼女は兄の姿を遠巻きに眺め、小さくため息をついていた。

 エレナの周りには彼女と同年代の貴族の子女たちが集まり、他愛のないおしゃべりをしていた。

「エレナ様、今日のドレスも素敵ね。春の庭園の妖精みたいだわ」

 令嬢の一人がエレナのドレスを褒めた。

 エレナははにかみながら答える。

「ありがとう存じます。しかし、わたくしには、少々豪華すぎる気がいたしますわ。この華やかな宴も、わたくしには少々眩しすぎますようで……」

 エレナはそう答えると、小さく肩を落とし人ごみを避けるように静かにその場を離れた。

 周囲の令嬢たちの楽しげな話し声が遠ざかる中で、彼女は小さく震えるような溜息を吐き出した。

 そして、そっと呟く。

「兄様は、なぜ……。世間では、兄様をそのような方だと……」

 彼女の言葉からは、兄への純粋な心配と、周囲の噂を気にしている様子が滲み出ていた。


 レオンハルトは、エレナの様子に気づきそっと彼女の元へと近づいた。

 

「夜会はあまりお好みではないのですか、お嬢様」

 

 エレナは突然話しかけられ、驚いてレオンハルトを振り返った。

 見慣れない、しかし洗練された立ち振る舞いの青年に彼女は目を丸くして好奇心いっぱいの表情を浮かべた。

 初対面の人物に対する警戒心よりも、新たな出会いへの純粋な興味が勝っているようだった。

 

「あら、これは……あなたはどちら様でいらっしゃいますか。確かに人が多くて、少々、賑やかすぎると感じることもございますわ。ですが、皆様の装いや宝石の輝きは、実に目を奪われますわ」

 

 レオンハルトは、エレナの無垢な明るさにわずかに驚きを覚えた。

 彼は、侯爵家の内情をある程度把握しておりカイエンが巷で思慮に欠ける人物と噂されていることも知っていた。

 

「なるほど。この賑わいも時には疲れるものですね。しかし、お嬢様がこの侯爵邸の庭園を隅々までご存知であるのは当然のこと。この季節の夜の庭園は、月明かりに照らされて、また格別の趣がありますよ。月明かりに照らされた噴水の水音が、昼間とは異なる静けさをもたらします。もしよろしければ、後ほど、夜風に当たって、少しばかり静かな時間を過ごされては如何でしょうか。わたくしも、庭園を散策するのが好きでして、お嬢様の邸の庭園ならば、また新たな発見があるかもしれません」

 

 レオンハルトの洗練された振る舞いと穏やかな声に、エレナは次第に好感を抱いていく。

 彼の言葉には貴族社会の空虚さとは異なる聡明さと優しさがあった。

 

「夜の庭園、ですか。わたくし、そのような視点で庭園を拝見したことはございませんでしたわ。それは素敵でございますね。……ええ、少々、外の空気を吸いたい気分でございました。もしよろしければ、後ほどお会いできますでしょうか」

 

 エレナはまだ警戒を完全に解いたわけではなかったが、彼の提案に微かに顔を綻ばせた。

 二人の間にごくわずかな、しかし印象的な会話が交わされた。

 レオンハルトはエレナの瞳の純粋さに、侯爵家の暗部とは異なる希望の光を感じ取っていた。

 彼は、この少女が侯爵家の腐敗に染まっていないことにある種の安堵を覚えた。


 社交の場では、カイエンもまた周囲を観察していた。

 彼はイネスの巧みな社交術を傍観しながらもその真意を探っていた。

 彼女が貴族たちから引き出す情報の一つ一つが、侯爵家の未来にどう影響するか冷静に分析していた。

 カイエンは、レオンハルトがエレナに近づき親しげに話していることに気づくと静かに二人の元へと歩み寄った。

 彼は陽だまり亭でのレオンハルト・フォン・ヴィンターとの面識を思い起こした。

 ヴェールとしての活動でレオンハルトが港街の不正を探っていることはカイエンも把握していた。

 ヴェールとしてレオンハルトを助けたこともあり、彼らの間には言葉にはせずとも互いの目的を理解し合うような絆を感じていた。

 その絆は、彼の「世間知らず」としての仮面と、ヴェールとしての正体を隠すという、綱渡りの上に成り立っていた。

 カイエンは自然な挨拶を装いながらレオンハルトの真意を探ろうとした。


「おや、レオンハルト殿ではありませんか。まさか侯爵邸でお目にかかれるとは。以前、街でお見かけしたことはございますが、こうしてきちんとお話しするのは初めてですね。デル・ルナ侯爵家の長男、カイエンと申します。どうぞよろしく」

 

 カイエンはいつもの飄々とした笑みを浮かべながらレオンハルトに手を差し出した。

 その視線は、レオンハルトの反応を静かに探っていた。


 レオンハルトもまた、カイエンの接近に内心で警戒しながら表面上は穏やかに応じた。

 彼の頭には、カイエンの世間が語る『無為な男』という噂と時折見せる鋭い眼差しとの間の違和感が確かにあった。

 

「カイエン様。以前より、カイエン様のお名前は度々耳にしておりました。こうして直接お話しできる機会を得て、光栄に存じます。」

 

 レオンハルトは差し出されたカイエンの手を握り返し、その表情は冷静そのものだった。

 陽だまり亭での出会いには一切触れず、互いの表向きの立場を尊重し合う。

 しかし、その短い会話の応酬の中に二人の間に流れる見えない探り合いと、ある種の共鳴が感じられた。

 世間が語る『無為な男』という噂とは裏腹に、レオンハルトはカイエンの言葉の端々や時折見せる鋭い眼差しに何か隠された意図があるのではないかと感じ始めていた。

 彼の鋭い洞察はカイエンの完璧な仮面の奥に微かな綻びを見つけようとしていた。

 カイエンは、レオンハルトの視線が自身の『軽薄な振る舞い』の仮面を射抜こうとしているのを感じ、内心で冷や汗をかいた。

 以前ヴェールとしてレオンハルトを助けたことがあるため、自身の些細な癖や反応から正体が露見することを恐れていたのだ。


 その時、執事長のエミリオがカイエンの傍に音もなく近づいてきた。

 

 彼の視線はイネスに向けられ、微かに警戒の色を帯びている。

 エミリオはカイエンの耳元で、囁くような声で続けた。

 「カイエン様、イネス殿は侯爵様のお側に近づけぬよう、私めが目を光らせております。他の貴族との接触にも注意を払っております。ですが、そちらのレオンハルト様も、油断なさらないでください。彼もまた、侯爵様とは別の意味で、この邸の動向を探っておられます。」

 カイエンは静かに頷きエミリオと視線を交わした。

 エミリオの目にはデル・ルナ家を守るという彼の揺るぎない忠誠心と、イネスとレオンハルトに対する深い警戒心が明確に見て取れた。

 彼らは言葉を交わさずとも互いの思惑を理解し合っていた。

 侯爵邸でカイエンの真意を理解し、デル・ルナ家を守るために動ける唯一の存在がエミリオだった。

 侯爵の命を受けイネスの動きを厳しく監視するエミリオの目は、彼女が他の貴族と密かに接触することすら許さなかった。

 侯爵邸の警備はラモン侯爵に忠実な警邏隊員や私兵が厳重に固めており来賓の出入りから邸内の動線までその目は光っていたが、しかし二人とも表立って行動できない。

 常に神経を研ぎ澄ませ、周囲の動きに細心の注意を払っていた。


 イネスの巧妙さ、レオンハルトの底知れぬ野心、そして侯爵の冷酷な支配。カイエンは、自身の戦略を練り直す必要性を強く感じていた。

 完璧な「軽薄者」を演じることは人々の警戒心を解き情報を得る上で不可欠だったが、それは同時に彼自身の心を蝕む毒でもあった。

 真実を隠し続ける孤独、そして愛する者たちを欺いているという感覚が彼の精神を深く疲弊させていた。

 まるで、氷のように冷たい自己嫌悪が彼の胸の奥で常に燃え盛る怒りの炎と対峙しているかのようだった。


 この宴会の警備には警邏隊員たちも駆り出されていたが侯爵の息のかかった私兵や、侯爵に与する警邏隊員が圧倒的多数を占めていた。

 彼らは華やかな会場の片隅で貴族たちの浮かれた様子を眺めながらも、侯爵の周囲の怪しい動きに注意を払っていた。

 特に、最近侯爵が私的に接触しているとされる怪しい商人や、普段は表舞台に立たない人物たちの姿に、彼らの目は鋭く光っていた。彼らは街の秩序を守るため、そしてヴェールが目指す正義のために、密かに情報を収集していた。

 警邏隊長ダミュエルもまた、この宴会の警備責任者として侯爵の信頼を裏切らぬよう、そして街の平穏を保つよう、目を光らせていた。

 彼もまた、侯爵の不正の噂やヴェールの出現による街の変化に気づいていたが、自身の立場から表立って動くことはできなかった。


 侯爵邸の華やかな社交の場は、それぞれの思惑が交錯する舞台となっていた。

 イネスとレオンハルト、そして侯爵一家。彼らの出会いがプエルト・エスぺランサにやがて大きなうねりを生み出すことになろうとは、まだ誰も知る由もなかった。

 エレナとレオンハルトの短い出会いは、侯爵家の暗部とは異なる新たな光を物語に投げかける。

 そして、イネスが掴み始めた侯爵やカイエンの「弱点」への糸口は、やがて巨大な波となって街全体を飲み込む。

 社交の場に潜む陰謀の種は、春の息吹と共に静かに芽吹き始めていた。

お久しぶりです。

パソコンを修理に出していたため、更新することができませんでした。

申し訳ございませんでした。


無事に、更新させて頂きましたありがとう御座います。


読んで頂いている方、本当にお待たせいたしました。

お時間いただきました、読んで頂いて有難う御座います。


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