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第十六話

 港街プエルト・エスぺランサを覆っていた厳しい冬の支配はようやく終わりを告げようとしていた。

 鉛色の空には時折柔らかな陽光が差し込み、凍てついていた街路の雪はしずくとなってゆっくりと溶け始める。

 家々の軒先からは冷たい雪解け水がぽつりぽつりと音を立てて流れ落ち、まるで長い冬の終わりを告げる子守唄のようだった。

 港に吹き荒れる潮風も以前のような刃のような鋭さを失い、どこか穏やかな兆しを帯びていた。

 漁師たちは厚いコートの襟元をわずかに緩め遠くの海を眺める。凍っていた漁船の甲板にも薄日が差し込み、乾いた潮の匂いがかすかに漂う。

 市場には、冬の間姿を消していた春の魚や山菜を売る露店が少しずつ増え始め、人々は久しぶりに小さな活気を取り戻し始めていた。

 凍てついた大地から顔を出す小さな緑の芽が、来るべき季節の喜びを告げているかのようだった。

 街全体に漂う重苦しい沈黙はまだ完全に消えたわけではないが、その厚い氷の膜に確かにひびが入り始めているのを感じられた。

 人々の顔にもわずかながら希望の光が宿り始めていた。それは、長く深い眠りから覚めようとする生命の息吹のようだった。


 そんな変わりゆく季節の中、港を見下ろす高台に立つひときわ豪華な侯爵邸に一台の馬車が到着した。

 真新しい革の座席はまだ硬く、長旅の疲れを拭い去れないまま馬車の扉が静かに開かれるとそこから降り立ったのは一人の女性だった。

 深みのある鳶色の瞳は、周囲の豪華な調度品を一切見ることなくただまっすぐに邸の奥を見据えている。

 彼女の顔には、幾多の苦難を乗り越えてきた者の持つ揺るぎない意志が宿っていた。

 華美な装飾のない質素な旅装を身につけていたがその立ち姿は決して卑屈ではなく、むしろ確固たる自信を漂わせている。

 その名はイネス・ブランネス。しなやかで引き締まった体つきは、過去の厳しい境遇を生き抜いてきた証か、すらりとした体躯に、どこか影のある印象を与えていた。


 彼女はただそこに立っているだけで、周囲の空気を変えるような妖艶さを纏っていた。

 その瞳は吸い込まれるような深みを持ち、微かに微笑む唇は、男たちを惑わす甘い毒を秘めているかのようだった。

 元娼婦としての経験が、彼女の立ち振る舞い、視線、そして声のトーンの一つ一つに、抗いがたい魅力を与えていた。

 表向きは病弱な母イサベラの見舞いを口実に侯爵邸を訪れたとされていたが、その瞳の奥には侯爵家における自身の地位を確立しようとする強固な思惑と、ラモン侯爵への深い恨みが隠されていた。


 出迎えたのは侯爵家のすべてを掌握する老執事エミリオだった。

 彼は長年の経験から、この女性がただの訪問者ではないことを直感していた。

 何よりもデル・ルナ家とその安寧に絶対的な忠義を誓う執事エミリオにとって、イネスの出現はまさに嵐の予兆に他ならなかった。

 エミリオは礼儀正しく頭を下げたが、その視線はイネスの全身を観察するように動き何かを探るようだった。

 彼の内心は、イネスに対する強い警戒心と、デル・ルナ家を守るという忠義が入り混じった複雑な感情で満たされていた。


「ようこそ、デル・ルナ侯爵邸へ。私が執事のエミリオでございます。どのようなご用件でしょうか」

 エミリオの声は冷静だった。

 イネスは彼の探るような視線に動じることなく、艶やかににっこりと笑みを浮かべまっすぐにエミリオを見据えた。


(わたし)はイネス。イネス・ブランネスと申しますわ。ここに、私の父がいると伺いましたので、ご挨拶に参りましたのよ。」

 彼女の言葉遣いは丁寧でありながらも、どこか含みがあり貴族らしからぬその口調にエミリオの眉がわずかにぴくりと動いた。


「イネス様……と申されますと、どのような御用でしょうか、とエミリオは問いました。」

 エミリオは冷静を装いつつも内心ではすでに一つの可能性に思い至っていた。

 侯爵の昔の忘れ去られた過去。

 そして、その過去が今明確な意思を持って目の前に現れたのだ。

 彼は即座に頭の中で侯爵家の記録を辿り始める。

 確か、過去に侯爵が手を出した使用人がいたはずだ。

 しかし、具体的な名前やその後の子供の存在までは記録になかったはずだ。

 エミリオは冷や汗が背中を伝うのを感じた。


「あら、ご存知ないのですか。私の母は、この屋敷で働いていた使用人でしたの。そして、ラモン侯爵との間に、私をもうけた。その事実を、貴方様も覚えていらっしゃるはず、とイネスは挑発的に告げました。」

 イネスの声には、挑発的な響きとどこか確信めいた響きが混じり合っていた。

 エミリオは内心の動揺を悟られぬよう努めて平静を保った。


「失礼ながら、そのような記録はございません。ですが、確かに過去の使用人の中に、お申し出のような者がおりましたことは確認しております。しかし、それが侯爵様との間に……その証明は、いかがなさいますか」

 エミリオは言葉を選びながら慎重に尋ねた。

 彼の目は、イネスのわずかな反応も見逃すまいと鋭く光っていた。


 イネスは何も持たない両手を広げ、邸を見回した。

 その瞳は、豪華な絨毯や、高価な絵画、きらびやかなシャンデリアを冷めた目で見つめる。

「証明。そんなもの、今さらどうやってするのでしょう。しかし、貴族の血は誤魔化せないはず。私の中に、あの御方の血が流れている。それだけで十分です。」

 彼女の言葉には、確固たる自信と貴族社会への侮蔑が込められていた。

 彼女は、この華美な屋敷の隅々にまで過去の憎しみが染み込んでいるかのように感じていた。

 彼女の表情は柔和だが、その奥底に潜む本心は、エミリオには到底読み取れなかった。


 エミリオは、その言葉の裏に隠された強い意志と彼女の瞳の奥に宿る揺るぎない決意を感じ取った。

 この女性を門前払いすることは侯爵家の権威を傷つけるだけでなく、何らかの騒ぎを引き起こす可能性があった。

 そして何より、長年仕えてきた執事としての直感が彼女の主張が真実であると囁いていた。

 侯爵に報告しその判断を仰ぐしかない。

 だが、侯爵がこのような「不都合な存在」を簡単に認めるはずがない。


 数刻後、イネスは応接間に通され侯爵ラモンとの対面を果たした。

 ラモン侯爵は、不機嫌そうな顔でソファに深く沈み込みイネスを侮蔑の眼差しで見ていた。

「くだらない。そのような話聞き飽きたわ。たかが使用人の娘が、何を勘違いしている」

 侯爵の声には尊大さと侮蔑が混じっていた。


 イネスはにっこりと笑みを浮かべ涼やかな声で言った。その声は、侯爵の尊大な態度にも一切臆することがなかった。

 

「勘違いなどしておりませんわ、侯爵様。母を亡くし、居場所も無くしてしまいましたの。しかし私には腹違いとはいえ、この邸にはカイエン様という弟君も、クララ様という妹君もいらっしゃる。そして、私の実の父親である侯爵様がいるのなら、家族として共に暮らしたいと思うことに何もおかしいことはないはず」

 彼女の瞳は侯爵の奥底を見透かすかのように、静かに、そして力強く光っていた。

 侯爵はその喰えない表情の奥に何か底知れないものがあるのを感じ取り、一瞬たじろいだ。


 エミリオが間に入り状況を説明した。

 過去の使用人記録と、イネスの言葉の整合性。

 そして、万が一にも公になれば侯爵家の評判に関わること。

 侯爵は激しく苛立ったがエミリオの言葉にわずかに顔を歪めた。

 世間体を重んじる貴族にとって血筋の醜聞は何よりも避けたい事態だった。


「……仕方あるまい。エミリオの言うことも一理ある。すぐに追い出すのも、かえって余計な詮索を招く。一時的に『侯爵家預かり』として屋敷に置くことを許可する。その間に貴様の言うことが真実かどうか、徹底的に調査を行う。もし虚偽であれば、ただでは済まさない。良いな」

 侯爵は忌々しげに言い放ちイネスを睨みつけた。

 その言葉には、調査という名目のもと彼女を監視し都合の良い時に排除しようとする意図が透けて見えた。


 イネスは侯爵の言葉に何の表情も変えなかった。

 彼女の目的はこの屋敷に入り込むことだった。


「ええ、構いませんわ。私には、貴方様が過去から逃れられないという事実を証明する時間が必要なだけですから。」

 

 その言葉は、侯爵邸の豪華な応接間にまるで冷たい風が吹き込むかのように響いた。

 彼女の唇が冷たい風に微かに震えながら確固たる決意を刻む。


 『報復、それだけの為に私はここに来た。貴族の甘言など私には通じない。絶対に許すものか』

 

 イネスは内心でそう呟き、その瞳の奥に宿る憎悪の炎を何者にも見せることなく押し隠した。


 侯爵邸に迎え入れられたイネスは、表向きは病弱な母親の見舞いと称し温和で人当たりの良い貴婦人として振る舞った。

 しかし彼女はまだ侯爵から正式に認められたわけではなく、「預かり」の身分でしかなかった。

 そのため侯爵邸を自由に動き回ることは許されず、エミリオを含む執事や使用人たちの監視の目が光っていた。

 派手な動きを見せればすぐにでも消されてしまうかもしれない。

 その危険をイネスは十分に理解していた。

 常に表面上は温和な笑みを浮かべながらも、その鋭い視線は屋敷のあらゆる細部を記憶し完璧な情報を手に入れるための機会を窺っていた。

 彼女はまず、カイエンやエレナ、そして侯爵の妻であるイサベラといったデル・ルナ家の主要な面々と接触し少しずつ彼らの内情や人間関係を探っていこうと密かに企んでいた。

 それは、復讐という明確な目的のため彼女が長年培ってきた情報収集能力と環境適応能力の賜物だった。


 侯爵邸での生活が始まって数日。

 イネスは庭園の片隅でぼんやりと空を眺める青年、侯爵家の長男カイエン・デル・ルナを見つけた。

 彼の周りにはいつもどこか間の抜けた雰囲気が漂っている。

 イネスは機会を窺うようにゆっくりと彼の元へと近づいていった。


「あら、カイエン様ではございませんこと。ご挨拶に伺おうと思っておりましたのに、まさかこんな場所でお会いできるなんて光栄です」

 イネスは微笑みを深め、恭しく頭を下げた。

 その笑みはどこか艶やかで、カイエンが纏うぼんやりとした雰囲気を一瞬にして剥ぎ取ろうかのような鋭さを秘めていた。


「やあ、貴女の噂は聞いていたよ。腹違いの姉君が邸に居ると聞いて、これはぜひ会っておきたいと思って戻ってきたんだが残念なことに中々会えなくてね……今日、こんな素敵な出会いがあるなんてね」

  カイエンはいつものように気の抜けた声で応じたが、その眼差しはイネスの表情の微細な変化を読み取ろうと静かに深く探っていた。

 彼は「遊んで出かけている先で噂を聞いた」という言葉で、イネスの訪問を知り会うために戻ってきたことを示唆し同時にこの邸内の変化に自分が疎いことを暗に示そうとしていたのだ。

 彼女のどこか影のある美貌と、元娼婦としての過去を持つという噂が彼の警戒心を掻き立てていた。


 その時、邸の奥から一人の少女が駆け寄ってきた。

 侯爵家の長女エレナ・デル・ルナだ。

 彼女はラモン侯爵の庇護の下で無垢に育ったためか、イネスの放つ独特の妖艶な雰囲気に途惑いと、漠然とした警戒心を抱いているようだった。

 エレナはイネスの姿を見て一瞬足を止めた。

「カイエン兄様、その方はどなたですか」

 エレナは、イネスから視線を逸らすようにしてカイエンに尋ねた。

 その声には明らかに動揺が滲んでいた。


「ああエレナ、丁度良いところに。こちらはイネスさんだ。父上から『預かり』になった、僕たちの腹違いの姉君だよ」

 カイエンは、エレナの顔色を窺いながらわざとらしく呑気な声で説明した。

 その言葉の端々には、エレナをこの場から遠ざけようとする意図が込められていた。


「腹違いの……」

 エレナは、イネスとカイエンの顔を交互に見た。

 突然の知らせに彼女の小さな心が動揺で大きく揺れる。

 イネスは、そんなエレナの動揺を愉しむかのように優雅に一歩近づいた。

「あら、初めましてエレナ様。私、イネス・ブランネスと申しますわ。貴女様のような可愛らしい妹君に大饗出来てホントに嬉しいです。これからどうぞ、よろしくお願いいたします」

 イネスは甘く囁きながらエレナの手を取ろうとした。

 その瞳の奥には、エレナの反応を探るような計算高い光が宿っていた。


 エレナがその妖艶な雰囲気に気圧され思わず身を引いたその瞬間、カイエンが素早くエレナとイネスの間に割って入った。

「はっはっは、イネス姉さんエレナは少し人見知りなものでね。姉さんに会えた喜びで緊張しているんだよ。エレナ、そろそろ父上が心配なさる時間、先に自室に戻っていてくれ」

 カイエンは、エレナの背中をそっと押し彼女をその場から遠ざけようとした。

 その顔にはいつもの飄々とした笑みが張り付いていたが、その手はエレナの背中を強くしかし優しく促していた。

 エレナはカイエンの意図を察し、安堵の表情で小さく頷くとイネスに会釈だけして足早にその場を後にした。


「あらあら随分と妹思いなことですわ、本当に仲の宜しい兄妹のようですわね」

  イネスは、エレナの後ろ姿を見送りながら皮肉めいた笑みを浮かべた。

 その視線を見たカイエンは表情の奥を探っていた。


「はっはっは、僕たちは仲良しなんです。父上にはいつも心配をかけてばかりですからね。そういえば、イネスさんは、邸内はもうご覧になられましたか、広いですから迷子にならないようにしてくださいね」

 

 カイエンは、わざとらしく大げさに笑いながらイネスから視線を逸らし邸の広さについて語り始めた。

 これは、イネスが邸内を自由に動き回っていることへの牽制であり、同時に彼の口から出る侯爵邸の内部情報が、いかに彼が邸に精通しているかを示唆するものでもあった。


 その時、老執事のエミリオが二人のもとへ駆け寄ってきた。

 彼の顔には、焦りと、そして苛立ちが浮かんでいた。

「カイエン様、イネス様。何をしておられるのですか。侯爵様からの調査がまだ終わっていない段階で邸内を勝手に散策されるのはご遠慮ください。ましてや、許可なくカイエン様と接触されるなど、厳命に背く行為でございます。」

 エミリオの声には、デル・ルナ家の秩序と名誉を守ろうとする焦りとイネスに対する強い警戒心が入り混じっていた。

 彼は、侯爵の調査が進行中のこの時期にイネスが家の平穏を乱すことを何よりも恐れていたのだ。


 イネスは、エミリオの厳しい言葉にも動じることなく涼やかな笑みを浮かべた。

「あら執事長、ずいぶんと厳しいお言葉なことですわ。わたくし、ただこの広大な邸を拝見していただけでございますのに。それに、カイエン様にご挨拶をしたのも、腹違いの姉として当然の親睦ではないでしょうか。侯爵様もご家族の絆を深めることをまさかお咎めになるとは思わないでしょう。それともわたくしの素性を疑うあまり、血縁の情まで禁じるとおっしゃるのですか」

 彼女の言葉は、侯爵の体面を逆手に取ったずる賢い言い回しだった。

 侯爵が娘として邸に置くことを許可した以上、家族としての交流を完全に禁じることは体裁が悪くなる。


 エミリオは、イネスの言葉にぐっと詰まった。

 侯爵が世間体を重んじることは彼自身がよく知っていた。

 カイエンは、この状況を収めるかのようにいつもの呑気な笑みを浮かべた。

「はっはっは。そうそう、エミリオ。この方の言う通りさ。僕も、腹違いの姉さんに挨拶をしてしまったんだ。ご心配には及びませんよ」

 カイエンは自分の行動を偶発的なものに見せかけた。


 エミリオは、二人の言葉に反論することなく深く頭を下げた。

 彼の内心は、イネスの狡猾さと、カイエンの読めない態度に、さらなる警戒を強めていた。

(この御方は、やはりデル・ルナ家にとって脅威となる……) 彼の忠義心は、イネスの出現によってデル・ルナ家の未来に危機感を募らせるのだった。


 カイエンはエミリオが去った後も、その場に立ち尽くしていた。

 彼の顔からは、いつもの飄々とした笑みが完全に消え失せ冷徹なまでの真剣な表情が浮かんでいた。

 イネスの出現は、侯爵邸のひいてはデル・ルナ家の根幹を揺るがしかねない。

 そして、彼女が狙っているのはただの地位ではない。

 その目には、深い憎悪と、復讐の炎が宿っていた。

 

 『あの女は、本気だ。父上もエミリオも、まだ彼女の真の恐ろしさに気づいていない。このままでは、エレナも、そして母上も危ない』

 

 カイエンは固く拳を握りしめた。

 これまでは、裏でヴェールとして活動し表では「無能を装う」ことで侯爵の監視の目を欺いてきた。

 しかし、イネスの登場はその戦略を根本から見直す必要を彼に突きつけた。

 

 『邸にいる時間を増やさなければ。もっと頻繁に、母上やエレナの近くにいなければならない。彼女の動きを、この目で監視する。』

 

 彼は自らの身を危険に晒す覚悟を決めた。

 同時に、イネスの真の目的を探りその裏をかくための策を冷徹な頭脳で練り始めた。

 侯爵家の安寧と、愛する家族を守るため、カイエンは新たな決意を胸に静かに歩き出した。


 エレナは自分の部屋に戻ると扉を閉めるなり膝から崩れ落ちた。

 震える手で口元を覆い、込み上げてくる嗚咽を必死で堪える。

 「まさか……私たちの腹違いのお姉様だなんて、お母様が、お可哀想……」

  彼女の脳裏にはいつも気丈で優しい母の姿が浮かんだ。

 この邸に父の過去の過ちの証が堂々と足を踏み入れた。

 その事実が、エレナの無垢な心を深く傷つけた。

 どうすればいいのか何が正しいのか何も分からない。

 不安と動揺が、津波のように彼女の小さな心を押し流す。

 

 その時、静かに扉がノックされカイエンの声が聞こえた。

「エレナ、大丈夫か」

 エレナは慌てて涙を拭い声を整えようとするが、震えが止まらない。

「……兄様」

 扉が開かれ、カイエンが部屋に入ってきた。

 いつもの飄々とした笑みは消え、彼の目には妹を深く案じる色が宿っていた。

 彼はそっとエレナの傍に寄りその震える肩を優しく抱き寄せた。

「大丈夫だエレナ、僕がついている。あの女は父上が一時的に預かっただけだ、何も心配することはない」

 カイエンの温かい腕の中でエレナは堰を切ったように涙を流し始めた。

 

「でも……でも、お母様が、あの、イネス様とやらがもし、本当にお父様の娘だったら、お母様はどれだけお辛い思いをなさるでしょう。わたくし、どうすればいいのか何も分かりません」

 エレナの言葉は、震えながらも母への深い愛情と、自分にはどうすることもできない現状への無力感を訴えていた。

 カイエンは妹の頭を優しく撫でながら、静かにしかし確かな声で語りかけた。

「心配するな、エレナ。僕が母上とエレナを何があっても守る。あの女に好き勝手はさせない。だから、エレナは、いつも通りにしていればいい。いいかい」

 その声は、エレナの心にわずかな安堵をもたらした。

 兄の腕の温もりとその言葉の力強さにエレナはそっと頷いた。

 カイエンはエレナの涙を拭い再び優しく微笑んだ。


 その頃、《陽だまり亭》の賑わいの中、アリアはカウンターを拭きながら客の様子を眺めていた。

 そこへ、クララが少しだけ声を潜めて話しかけてきた。

「アリア、聞いた。侯爵様のお屋敷に、新しい方がいらしたのだそうよ。なんでも、侯爵様の……愛人の娘さんだとか。イネス・ブランネス様、と。」

 アリアはカウンターを拭く手を止めてクララを振り向いた。

「え、そうなの。噂は少し耳にしたけれど、まさか本当だったとは思わなかったわ」

 アリアは驚きと同時にまた何か厄介事が起きなければいいがと内心でため息をついた。

 クララは、遠い目をしてどこか冷めた声で続けた。

「不思議なものですわね。わたくし、以前はカイエン様の婚約者でしたのに今となっては何の感慨も湧きませんわ。それよりも、こうして侯爵家の血筋の者が増えることにただ好奇心ばかり募りますの。この街にはヴェール様がいらっしゃるんですもの、あの方の強さと優しさに、わたくしとても心を惹かれるのですわ。だから、この街にはきっと希望が失われないと信じていますもの」

 アリアは、この日もクララがヴェールへの気持ちを隠すことが無い感情を感じた。


 侯爵邸に足を踏み入れた招かれざる訪問者イネスは、その妖艶な微笑みの裏に確固たる意志と深い憎悪を隠していた。

 彼女の出現は、デル・ルナ侯爵家、そして港街の運命の歯車を新たな方向へと動かし始めた。

 春の訪れと共に港街には不穏な空気が満ち街全体を覆っていた。

また、最新話の投稿に日にちが空きました、申し訳ございません。

必ず完結するように書き続けますのでよろしくお願いいたします。

お時間いただきまして有難う御座います。

読んで頂いて嬉しいです、有難う御座いました。

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