第十五話
港街プエルト・エスぺランサを覆っていた厳しい冬の支配はようやく終わりを告げようとしていた。
鉛色の空には、時折柔らかな陽光が差し込み、凍てついていた街路の雪はしずくとなってゆっくりと溶け始めていた。
家々の軒先からは冷たい雪解け水がぽつりぽつりと音を立てて流れ落ち、長い冬の終わりを告げるかのようだった。
港に吹き荒れる潮風も以前のような刃のような鋭さを失い、どこか穏やかな兆しを帯びていた。
漁師たちは厚いコートの襟元をわずかに緩め遠くの海を眺める。凍っていた漁船の甲板にも薄日が差し込み、乾いた潮の匂いがかすかに漂う。
市場には、冬の間姿を消していた春の魚や山菜を売る露店が少しずつ増え始め、人々は久しぶりに小さな活気を取り戻し始めていた。
凍てついた大地から顔を出す小さな緑の芽が、来るべき季節の喜びを告げているかのようだった。
街全体に漂う重苦しい沈黙はまだ完全に消えたわけではないが、その厚い氷の膜に、確かにひびが入り始めているのを感じられた。
人々の顔にもわずかながら希望の光が宿り始めていた。
それは、長く深い眠りから覚めようとする生命の息吹のようだった。
そんな変わりゆく季節の中、クララ・ソリアーノは伯爵家としての栄華を完全に過去のものとしていた。
広大な領地も長年仕えてきた使用人も手放し、今は港街の端にひっそりと建つ小さな家で変化した生活に慣れない両親と三人、細々と暮らしている。
かつての華やかな日々とは比べ物にならない質素な生活。
豪華なドレスの代わりに質素な綿のワンピースを身につけ、召使いに囲まれていた生活から全てを自分でこなす日々へと一変した。朝、冷たい水で顔を洗い、硬いパンを噛みしめる。手を動かさなければその日の糧も得られない。
冷たい水を汲み、洗濯板で固い衣類を擦り、埃がたまった床を掃く。
慣れない作業の数々に両親は日ごとに疲労の色を濃くしたが、クララはそんな中でも以前のような傲慢さや諦めの色はなく、瞳にはどこか清々しい光が宿っていた。
それは、《陽だまり亭》の温かさとアリアという友人の存在が、彼女を支え続けていたからだった。
クララは、アリアとの出会いを思い起こしていた。
それは数年前、長い冬がようやく終わりを告げ、雪解け水が小川となって歌い、柔らかな陽光が大地を慈しむように降り注ぎ始めた頃だった。
まだ冷たい風の中に、かすかに土の匂いと新芽の香りが混じり合い、街全体がゆっくりと目覚めるような希望に満ちた季節。
ソリアーノ伯爵家の財政が傾き始め屋敷から少しずつ使用人が辞めていき始めた、そんな変化の兆しが訪れる時期のことだった。
これまで全てを召使い任せにしてきたクララは、最低限の生活用品すら満足に買えない現状に直面して一人で買い物に行ってみようと決意した。
できるだけ質素な、それでも周りから見ればまだ貴族の令嬢だと分かる上質な生地でできた豪華な服を身につけ、足早に市場へと向かった。
市場は、貴族の屋敷とは全く異なる混沌とした活気に満ちていた。
魚や肉、野菜や香辛料の入り混じった匂い、売り手のけたたましい声、人々のざわめき。
全てが彼女には新鮮で、同時に圧倒的だった。
貴族として育った彼女にとってこの喧騒はまるで異世界のように感じられた。
それでも意を決し、何とか食材でも買って帰ろうかとぎこちない足取りで見て回る。とある露店の前で、色鮮やかな果物に目を奪われたクララは、店の客引きの威勢の良い声に引かれるままその品物を手に取った。
じっくりと眺めてみたが、値段の相場も、品質の良し悪しも、全く検討がつかない。
それでも何かしら買わなければと焦り、これはきっと良いものだろうと自分に言い聞かせ代金を支払おうと財布を取り出した。
その時だった。
横からすっと伸びてきた細い手が、彼女の手をぴたりと止めたのだ。
クララは行きなり出てきた無礼な行為に眉をひそめ、声のする方を向いた。
そこに立っていたのは、質素なエプロンをつけた自分と同年代くらいの、深みのある茶色いまっすぐな瞳をした少女だった。
「お嬢さん、ちょっと待って。その値段で買ったら、倍近くもぼったくられるわよ。この果物は、この時期ならもう少し安く買えるはずだから」
少女の声は優しく、しかし確信に満ちていた。
クララは驚きと同時に世間知らずを露呈した恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じた。
少女はそのまま露店の主人と何やら交渉を始め、結局、半額ほどの値段で同じ果物を購入してくれたのだ。
「ほら、これ」
少女は微笑んで、そう言って果物を差し出した。
「――あなた、なぜ見ず知らずの私に、こんな親切を」
クララは戸惑いながら尋ねた。
少女は肩をすくめ、にこやかに答えた。
「困ってる人を見たら、放っておけない性分なの。それに、貴族のお嬢さんならこの街の物価は分からないかなって、間違ってたらごめんなさい。私はアリア。陽だまり亭って名前の宿屋兼酒場を兄と一緒に経営しているの。もし困ったことがあったら、いつでもうちにいらっしゃい。温かいスープと、ちょっとしたアドバイスくらいなら、いつでもできるから」
それがアリアとの最初の出会いだった。
今までの貴族社会の生活では、見ず知らずの者に施しを受けることなどありえない恥辱だった。
だが、アリアの屈託のない笑顔と温かい言葉はクララの凝り固まった心をゆっくりと溶かしていった。
彼女はアリアの申し出を断りきれず、半ば誘われるようにして《陽だまり亭》へと足を運んだ。
そこで出会ったゼックやハンス、マチルダ、ドラグの温かさに触れ、クララは初めて貴族の肩書や財産がなくても人として生きる価値があることを知ったのだ。
その出会いが彼女の人生を大きく変える転機となった。
ソリアーノ伯爵家の財政が傾きゆく中で、クララは貴族としての義務と、自身の内から湧き上がる好奇心の狭間で揺れていた。
いつか来るかもしれない没落の未来を漠然と予感していた彼女は、両親に悟られぬよう屋敷を抜け出しては《陽だまり亭》へと向かうようになった。
アリアがいつでも歓迎してくれるその場所で、クララはまだ伯爵令嬢でありながら手伝いという名目で庶民の暮らしに触れる貴重な時間を得たのだ。
皿洗いやテーブル拭き、客の注文を取ることも、これまでの彼女には縁のない仕事だった。
最初はぎこちなく何度も失敗を繰り返した。
初めて皿を割ってしまった日、謝罪するクララにアリアはただ優しく「大丈夫よ、怪我はないかしら」と声をかけてくれた。
クララは真剣に仕事に取り組んだ。
ゼックは彼女の不器用な手つきを笑いながらも、時折的確な助言を与え、ハンスは疲れた彼女に温かいスープを差し入れた。
クララはハンスから簡単な家庭料理の作り方を教わることもあったし、マチルダからはパンの作り方や焼き方を教わっていた。
しかしどれも彼らのようには上手くいかず、特にパンは焦がしたり膨らまなかったりと、まだまだ練習が必要だったがそれでも、彼女は失敗を恐れず熱心に彼らの技術を学ぼうと努めた。
マチルダは、そんな彼女の愚痴を優しく聞いてくれた。
酒場では、たまに酔った客に絡まれることもあったが、寡黙なドラグが気づくとすぐにその大きな体で客とクララの間に立ち、無言で圧をかけて助けてくれた。
彼の目はいつも冷たいがその行動には確かな優しさが感じられた。
また、宿屋の方の仕事も手伝わせてもらいベットメイキングや客室の掃除、シーツの洗濯など、慣れない作業に汗を流した。
一つ一つの作業は単純だが、どれも手を抜くことは許されない。
貴族としての生活では考えられなかった労働だが、客からの「ありがとう」という言葉や自分の手で何かを成し遂げる喜びがクララの心を満たしていった。
陽だまり亭の人々は彼女を「クララ様」とは呼ばず、「クララ」と親しみを込めて呼んだ。その何気ない響きが彼女の心を穏やかに解き放っていくのを感じた。
クララは貴族としての暮らしが続く中で時間を作り、庶民の暮らしを体験し、酒場や宿屋の仕事を通してこれまでの常識とは異なる新たな価値観を学び、人間として大きく成長していった。
この時期の経験が、後の彼女の人生を支える基盤となるとはまだ誰も知る由もなかった。
その後のクララの生活は以前にも増して厳しさを増した。
伯爵家の没落は決定的なものとなり、わずかに残った財産を食い潰しながら、港街の端の小さな家で両親と三人細々と暮らさざるを得なくなったのだ。
貴族としての長い暮らしから一変した庶民の生活は、両親にとって想像以上に過酷で慣れない家事や日々の雑務に心身ともに疲労の色を濃くしていた。
朝から晩まで手を動かし日々の糧を得るために奮闘する暮らしは、かつて何不自由ない生活を送っていた彼女たちにとって、自分たちで家事をこなし日々の糧を得る生活は想像以上に過酷だった。
アリアは、そんなクララたちを案じ、《陽だまり亭》での手伝いを申し出てくれた。そこでなら、日銭を稼ぎながら温かい食事もとれる。
しかし、クララは自分自身の足で立ち、貴族としての過去とは全く異なる世界で生きていくことを選んだ。
彼女は、親しくなった青果屋の店主に頼み込み売り子として働き始めたのだ。
慣れない庶民の仕事は、戸惑うことばかりだった。
朝早くから市場に行き、新鮮な野菜や果物を並べ、客と直接言葉を交わし、値切りの交渉に応じる。
泥や土にまみれることも、声を張り上げることも、これまでのクララには想像もできないことだったがしかし、客から「ありがとう、新鮮でおいしかったよ」と感謝の言葉をかけられるたび、彼女の心には温かい充実感が広がった。
それは、貴族として漠然と「与えられる」ばかりだった生活では決して得られなかった、自分で何かを作り出し、誰かの役に立っているという確かな喜びだった。
両親と共に慣れない家事に奮闘する日々は大変だったが、彼女の瞳には以前のような傲慢さや諦めの色はなく、どこか清々しい光が宿っていた。
そうして日中青果屋で働き、少しの休憩時間や仕事終わりには、クララは《陽だまり亭》を訪れるのが常となった。
そこは彼女にとって第二の故郷のような場所であり、アリアは、彼女が気兼ねなく過ごせるよういつも温かく迎え入れてくれた。
店に足を踏み入れると、コーヒー豆を挽く香ばしい匂いと暖炉の薪がはぜる音が心地よく混じり合い、一日の疲れがじんわりと溶けていくのを感じる。
ある日の午後、クララはいつものように青果屋での仕事を終え陽だまり亭を訪れた。
度重なる営業妨害や少し前にあった立ち退き騒動で、辞めて行った通いの従業員が居たためゼックがカウンターで忙しく立ち働く傍ら、クララは手伝っていた頃のよしみで彼の代わりにコーヒー豆を挽かせてもらうことにした。
カランカランと心地よい音を立てながら以前よりはだいぶ慣れた手つきで豆を挽くクララの姿に、ゼックが冗談交じりに話しかけた。
「おう、クララ様もずいぶん様になってきたじゃねぇか。最初はどうなることかと思ったけどなァ。なんでもかんでも召使い任せだったから、こりゃ、パン一つ焼くのも一苦労だろうって、ハンスと心配してたんだぜ」
ゼックはそう言いながらも、その口調には以前のような皮肉は感じられずむしろ親しみが込められていた。
クララは苦笑しながら、挽き終わった豆を器に移した。
「ふふ、ゼックさん。そう言って、いつも助けてくださっているでしょう。ええ、毎日が発見と苦労の連続ですが、自分の手で何かを作り出す喜びは格別ですわ。」
彼女の言葉には偽りのない充実感が滲んでいた。
ゼックは目を細めて頷くと温かいコーヒーを淹れてくれた。
クララはその湯気を吸い込み、ゆっくりと一口飲む。
その温かさが一日の疲れを癒し、心に染み渡る。
「それに、アリアがいつも傍にいてくれるから、心強いわ」
そう言って、彼女はフロアで忙しく働くアリアの方に視線を向けた。アリアが振り返って微笑みかけると、クララも自然と笑みを返した。
生活が大きく変わったことで、かつての貴族の令嬢時代には考えられなかったアリアとの「お泊まり会」もできるようになっていた。
時には家事を済ませた後、クララは簡単な着替えを持って《陽だまり亭》を訪れ、アリアの部屋で夜を明かすこともあった。二人きりの夜、暖炉の熾火が静かに燃える中、少女たちは秘密を分かち合う。
ある夜のこと。温かいハーブティーを飲みながら、アリアは先日店を救ってくれたヴェールの話を切り出した。
彼女の心の中ではヴェールへの特別な感情が渦巻いていたが、親友であるクララの気持ちを慮りあくまで世間話のように装うことにした。
「ヴェール様がね、本当にすごくかっこよかったの。まるで嵐のように現れて、侯爵の手下たちをあっという間に……」
アリアは努めて客観的な口調で語ったがその瞳の奥には抑えきれない熱い輝きが宿り、言葉の端々からは興奮と高揚が滲み出ていた。
クララはそんなアリアの様子に気づかず、そっと自分の胸に手を当てた。
自分の心臓が、アリアの言葉に呼応するように微かに高鳴るのを感じていた。
「本当にね。私も、あの方には助けていただいたあの時に、ヴェール様はとても強くて、困っている人を助けてくれる、本当に素敵な方だと思ったわ。そして、何よりも……とても魅力的な方だったわ」
クララの声は、アリアのそれとは対照的に隠すことのない熱を帯びていた。
彼女の瞳ははっきりと憧れの光を宿し、ヴェールへの純粋な想いをそのままに語っていた。
クララはアリアの言葉に頷きながら、自分の心に湧き上がる感情を抑えきれずにそう口にした。
彼女の瞳は遠くを見つめるように潤み、頬はほんのりと赤く染まっていた。
「もし、あのような方がわたくしの婚約者だったら、どれほど幸せだったでしょうね……」
クララの言葉には、微かな羨望と、過去への後悔、そしてヴェールへの純粋な憧れが入り混じっていた。
アリアは、クララの言葉に複雑な表情を浮かべた。自分が、親友と同じ人物に特別な想いを抱いていることを感じていたアリアの心は揺れ動いた。
しかし、彼女は気丈に微笑み返した。
心の中で、この苦しい恋心をクララに悟られるわけにはいかないと固く誓った。
《陽だまり亭》が度重なる営業妨害や立ち退き騒動で苦しい日々を送っていた間、アリアたちがヴェールに助けられたと聞くたび、クララの心には深い安堵と感謝が広がった。
以前、クララ自身が理不尽な状況に遭遇し、「黒い稲妻」に救われた経験があったことはアリアとの会話の中で既に語られていた。
その時の鮮烈な印象と陽だまり亭を守るヴェールの姿が重なり、クララは彼に強い信頼と、憧れを抱くようになっていた。
彼は、この街に必要な、強く、優しく、そして何よりも心惹かれる存在だと。
だから、クララは、ヴェールが街を救ってくれると信じ、その活動に期待を寄せるようになった。
春の訪れと共に、《陽だまり亭》には小さな希望の兆しが見え始めていた。
凍てついていた道路の雪は溶け少しずつ客足が戻り始めていたのだ。
暖炉の熾火は相変わらず店を温めるが、それ以上に人々の笑顔や談笑の声が店内に温かい活気をもたらしていた。
店内の空気は冬の重苦しさから解放され、かすかな春の息吹を感じさせるようになっていた。
「最近、少しずつだけど、お客さんの顔が明るくなってきたわね」
アリアはカウンターの埃を拭きながら嬉しそうに呟いた。
その声には、確かな喜びが宿っていた。
「そうだなァ。冬の間は皆凍えちまってて、笑顔なんて滅多に見られなかったから。やっぱ、春はいいぜ。凍りついた心が、少しずつ解けていくのを感じるよ」
ハンスも厨房から顔を出し陽気な声で応えた。
彼の顔にも安堵の表情が浮かんでいた。
そんな中、アルトは春の訪れと共に野山へと駆け出すことが増えていた。
ある日、彼は店に摘んできたばかりの小さなスミレやタンポポを飾った。
テーブルの片隅に置かれた小さな花瓶に活けられた野草は、店の雰囲気を明るくし、客たちの目を楽しませた。
「アルト、きれいな花だねぇ」
客の一人が声をかけると、アルトははにかみながらも嬉しそうに頷いた。
彼の無邪気な行動は、店に集う人々にささやかながらも確かな喜びを与えていた。
子供たちの笑い声が再び陽だまり亭に響き始めている。
警邏隊のパトロールも、真冬の厳しさからか、あるいは一部の隊員たちの意識の変化からか、以前よりも僅かに緩やかになっているように見えた。
特に、スラム街の奥や人目の少ない場所での監視の目が、わずかに緩んだように感じられた。
それは、ヴェールにとって、そしてレオンハルトや《陽だまり亭》の仲間たちにとって、次の行動を起こすための小さな「隙」となり得るものだった。
街の地下ではまだ侯爵の圧政が深く根を張っているが、地上の雪が溶け新たな芽吹きが始まるように、人々の心にも、静かな変化の兆しが訪れていた。
街角で囁かれるヴェールの噂は以前にも増して熱を帯び、人々の間に漠然とした期待が広がり始めていた。
春の訪れと共に港街には新たな動きが始まる予感が満ちていた。
遠い都から一人の女性がこの港街へと向かっているという噂が、ごく一部の商人の間で囁かれ始めていた。
港を見下ろす高台に立つ屋敷に馬車が到着したという報がもたらされる。
その馬車から降り立ったのは、一人の女性だった。
その名はイネス。
深みのある瞳には、揺るぎない意志が宿っている。
貴族の血を引きながらも言葉遣いは飾り気がなく、時に鋭利な刃物のようだ。
「あの男には、必ず報いを受けさせる。貴族の甘言など、私には通じない……絶対に許すものか」
彼女がこの街にもたらすものが希望なのか、それとも新たな混乱なのか、誰も知る由はなかった。
しかし確かなのは、港街の運命の歯車が春の嵐の如く再び動き出そうとしていることだけだった。
彼女の唇が、冷たい風に微かに震えながら確固たる決意を刻む。
お時間頂きました、有難う御座います。
更新が遅くなり申し訳ございません。
必ず完結させますので、お付き合いして頂けたら嬉しいです。
この度は、読んで頂いて有難う御座いました。