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第九話

 三日目の正午が刻一刻と迫る。

 侯爵の役人たちが再び現れるという宣告はアリアだけでなく、共に暮らす家族、そして《陽だまり亭》を訪れる客たちの間にも冷たい風のようにかすかな、しかし確かな緊張感を広げていた。

 その重苦しい空気は胃の腑に鉛を流し込まれたかのように誰もが重く感じていた。


 隊長が去ったその日の夜、アリアは兄のゼック、料理人のハンス、女給のマチルダ、寡黙なドラグとともに、幼いアルトにこの重い現実を背負わせたくはないと密かに集まっていた。

 彼らは一晩中話し合った。

 店の奥薄暗いランプの光の下、疲労困憊の顔で膝を突き合わせあらゆる可能性を探った。

 しかし、暗闇の中でいくら言葉を尽くしても侯爵という巨大な権力に対抗する具体的な打開策は見つからず、ただ無情にも時間だけが過ぎていった。

 眠れない夜が三晩続きアリアの目元にはくっきりと隈ができていた。

 その間、彼女の心臓はまるで不安を打ち消すように常に早鐘を打っていた。


 沈黙を破り、ゼックの声が絞り出された。

 彼の声には、隠しきれない焦燥と絶望に似た苛立ちが滲んでいた。

 

「三日……、本当にどうするんだ、アリア」

 

 彼は酒場の店主として、この場所と、ここで働く人々を守る責任を重く感じていた。

 アリアは俯いたまま自分の冷え切った手のひらをじっと見つめていた。

 その手は、まるで生気を失ったかのようだった。


「私が行けば、みんなは助かる。この酒場も、今まで通りの生活も……」

 

 アリアが途切れ途切れにそう言うと、マチルダが静かに首を振った。

 その表情には、家族を犠牲にしないという強い意志が宿っていた。

 

「そんなこと、させないよ。アリア一人を犠牲になんて。今までだって、みんなで力を合わせて乗り越えてきたじゃない」


 ハンスが深くため息をついた。

 彼は料理人として常に冷静で現実的な視点を持っていたが、その言葉には、状況への諦めとわずかな、しかし無謀な一縷の希望が混じっていた。

 

「しかし、相手は侯爵だ。正面から逆らうなんて、あまりにも無謀だよ。何かしら、賢い方法を考えないと……。ヴェールは……頼れないのか」


 ハンスの口から、無意識にその名が漏れた。

 その言葉に、部屋の空気が一瞬にして張り詰める。

 ゼックが眉をひそめた、彼の声には警戒と不信感がにじんでいた。

 

「彼を頼るのか。確かに以前の事件では助けられたが、常に期待できるわけではない。それに、彼のやり方は……危険すぎる。彼に頼ることが、さらに大きな騒動を招く可能性だってあるんだぞ」


 ドラグは黙って、アリアの背中をさすった。

 彼の大きな手から伝わる温かさが、アリアの心を少しだけ解きほぐす。

 アリアは顔を上げた。

 その瞳には、一筋の光が宿っていた。それは、自分を奮い立たせるための、決意に満ちた光だった。震えそうになる自分を必死で奮い立たせるかのように、静かに場に響いた。

「大丈夫、きっと何とかなるわ。みんな心配しないで。私、一人でだって、きっと……」


 その言葉に、誰もが沈黙した。

 アリアの決意に満ちた眼差しは、彼らの胸に重く響いた。

 しかしその夜、彼らは具体的な打開策を見つけられないまま、ただ時間だけが過ぎていった。

 眠れない夜が三晩続き、アリアの目元にはくっきりと隈ができていた。


 翌日から三日間、アリアたちは、アルトや酒場の客、宿に泊まっている客に不安を与えないよう、普段と変わらない日常を演じ続けた。

 その笑顔の裏では絶望と恐怖が常に渦巻いていたが、彼らはプロフェッショナルとしてそれぞれの役割を全うした。


「アリア姉ちゃん、今日の仕込み手伝うよ。ハンス兄ちゃんのシチュー、僕も早く作れるようになりたいな」

 アルトのしっかりとした声が、酒場に響く。アリアは笑顔で振り返る。

「ありがとう、アルト。でも、今日は私がやるから、もう少し遊んでていいよ。後で、みんなで味見しようね」


 アルトは、その笑顔に満面の笑みで応じた。

 

「うん。アリア姉ちゃんのがんばり、僕も応援してる」

 

 アルトの明るい声に、アリアの胸は締め付けられるような痛みを覚える。

 この無垢な笑顔を守るためなら、何でもできる。

 この笑顔が、何よりも彼女を突き動かす原動力だった。

 そう、心の中で誓った。


 酒場では、ゼックが冗談を飛ばし、ハンスが手際よく料理を作り、マチルダが朗らかに客と談笑する。

 ドラグは寡黙に、しかし確実に仕事を進める。彼らは皆、心の奥底に不安を抱えながらも、その仮面の下でプロフェッショナルとして振る舞っていた。

 客たちもまた、重い空気を察しながらもあえて普段通りの会話を交わし、グラスを傾けていた。「本当にこの店は大丈夫なのか」「また何かあるんじゃないか」そんな不安が、彼らの視線や、不自然な沈黙に滲んでいた。

 それでも彼らは互いに顔を見合わせ、この場所の平穏を必死で守ろうとしているのだ。


「マスター、いつもの頼むよ」

 

 常連客の声に、ゼックが笑顔で応じる。

「へい、毎度。今日は特別な材料が手に入ったんでね、いつもより美味いぞ」


 客たちはいつものように酒を酌み交わし、談笑している。

 しかし、その顔にはどこか張り詰めたような表情が浮かんでいた。

 日中の騒動を知らないはずはない。

 不安を互いに隠し、この平穏な日常を必死で守ろうとしているのだ。

 アリアは、そんな客たちの顔を一人ひとり見つめた。彼らの笑顔が彼女の心に温かい灯をともすと同時に、この平穏な日常がどれほど儚いものかという現実が、胸に迫った。

 宿に泊まっている客たちは、旅の疲れを癒し、明日への希望を語り合っていた。

 彼らの話を聞きながら、アリアは自分たちの未来が不確かなものだと感じながらも、彼らのために何としてもこの場所を守り抜かなければならないと強く思った。


 そして、三日目の正午。

 港街の喧騒がまるで嵐の前の静けさのように、一瞬にして消え去ったかのように感じられた。

 遠くから、規則正しい足音が近づいてくる。

 侯爵の私財を投じて雇い入れた財政顧問の男ベインが、侯爵に忠実な警邏隊と私兵を引き連れて再び《陽だまり亭》の前に現れたのだ。

 彼の顔には、前回と変わらぬ悪意に満ちた冷たい笑みが浮かんでいた。


「約束の時間だ。立ち退くつもりがないのならば、そこの女を連れて行く」

 

 ベインの言葉に、酒場の前に集まっていた港街の人々がざわめき始める。

 彼らは、事の次第を理解しアリアたちに同情の眼差しを向けていた。

 しかし、侯爵の権力の前では誰もが沈黙するしかなかった。

 アリアは、侯爵が再び店や家族に手を出そうとしていると悟った。

 これ以上誰にも迷惑をかけたくなかった。


 兄たちの必死な制止を振り切り、震える足で一歩前へ踏み出した。

 その脳裏には、アルトの無邪気な笑顔、《陽だまり亭》の賑やかな声、そして家族と過ごした温かい日々が走馬灯のように駆け巡る。この笑顔を守るためなら自分の身など、どうなっても構わない。

 最後の力を振り絞るかのように、ぎこちない笑顔を浮かべ小さな声で呟いた。


「行ってきます……」

 

 その言葉が、凍てついた空気を震わせた。彼女の背後から、ゼックが伸ばした手が、虚しく空を掴んだ。


 アリアは、ベインたちに促されるまま酒場の前を離れ、広々とした通りへと歩み始めた。

 数歩進むごとに、愛しい《陽だまり亭》が遠ざかり周囲を囲む群衆の視線がより一層、彼女の肩に重くのしかかる。

 彼女の心は、凍てつくような孤独と差し迫る運命の重みに押しつぶされそうだった。


 ゼックは、妹の背中を見つめ声にならない叫びをあげた。

 その叫びは己の無力さに対する痛烈な怒りであり、妹を差し出さざるを得ない絶望の淵からの悲痛な呻きだった。

 彼の喉からは、断ち切れそうなほどの苦痛が漏れ出した。

 その目には、絶望と、そして自分への怒りの炎が燃え盛っていた。


「アリアァァァ」

 

 ハンスは、ゼックの叫びを聞き溢れる涙を隠すように、ぐっと唇を噛み締めた。

 その手からは包丁を握る料理人の力が、今、失われていた。彼の肩は小刻みに震え、顔は苦痛に歪んでいた。


 マチルダは、その場で泣き崩れ肩を震わせていた。

 彼女の嗚咽が、店の中に響き渡る。その細い指はアリアのローブの裾を掴もうと、必死に虚空を掻いていた。


 ドラグは、店の入り口で怒りに震える拳を壁に叩きつけたい衝動を必死で抑え、その巨体を小刻みに揺らしていた。

 彼の筋肉が、今にも破裂しそうなほどに緊張している。

 その顔は、鉄仮面のように硬く、だがその奥には激しい憤怒が渦巻いていた。


 酒場の奥では、レオンハルトが目の前の光景に飛び出そうとするアルトの小さな体を、静かに、しかし確かな力で抱きしめ、必死に動きを封じていた。

 アルトの小さな体は、アリアを追って震えていた。

 彼の目からは、大粒の涙がとめどなく溢れレオンハルトの肩を濡らしていた。


 アリアは、背後で繰り広げられる大切な人々の悲痛な反応を肌で感じた。

 堪えきれなかった涙が、大粒の雫となって彼女の頬を伝い落ちた。

 一歩、また一歩と、ベインたちと共に歩き出す。その悲しい横顔にはもう笑顔はなかった。

 彼女の心は、凍てつくような孤独と差し迫る運命の重みに押しつぶされそうだった。


 その時だ。昼の明るい空気を切り裂く、一瞬の閃光のような、あるいは黒い稲妻のような動きが見えたかと思うと、侯爵の手下たちが次々と地面に倒れ伏した。

 何が起こったのか、誰もが理解できない。

 首筋に的確な一撃を受けた者、足払いを食らって体制を崩した者、彼らは何が起きたか分からぬまま困惑に満ちた顔で転がった。

 ベインが驚愕に目を見開きその自信満々の顔に初めて恐怖が刻まれたその瞬間、昼の光の中にあっても、闇から一筋の光が差し込むように、一人の影が颯爽と現れた。


 深紺のローブが昼の風になびき肩のV字型金属製留め金が一瞬きらめく。

 顔はツバの広いハットとシンプルな布製のアイマスクに覆われ、その表情は一切読み取れない。

 彼は「黒い稲妻」の異名にふさわしく、長身で引き締まったアスリート体型から繰り出される動きは常人の理解を超えていた。

 まるで幻影のように素早く、そして圧倒的な力で、侯爵の手下たちを無力化していく。

 不必要な暴力は一切振るわない。

 ただ、卓越した剣術と身体能力を活かし、素早い突きと払い、そして常軌を逸した俊敏な動きで彼らの意識が追いつかないうちに無力化し、地面に転がすだけだ。

 その華麗さと効率性は、まるで舞踏を見ているかのようだった。

 あっという間に、侯爵の手下たちは全員が拘束され、動けなくなっていた。

 彼の動き一つ一つから悪は悪と明確に割り切る揺るぎない信念と弱い者への深い情が、静かに、しかし確かに感じ取れた。


 ヴェールは、揺るぎない信念を宿した瞳で事前に掴んでいた書類を、無言で港の人々の前に広げて見せた。

 それは、侯爵の意を汲んだベインが、《陽だまり亭》を含む外れ地区の土地を不当に安価で買い叩き、抵抗する住民を強制的に立ち退かせるために用いた「不当な立ち退き命令書」の原本。そして《陽だまり亭》の所有権を偽って侯爵の懐に入れようと企んだ「偽造された権利書」の数々だった。

 さらに、これらの土地収用によって得られる莫大な利益が、どのように侯爵の私腹を肥やすための「都市計画」へと流れるかを示唆する財政顧問ベイン自身の覚書も含まれていた。

 これらの書類は、侯爵が直接関与していないかのように偽装されていたが、ベインが中心となって悪徳な政策を推し進めていた動かぬ証拠だった。

 書類の隅には、具体的な日付や金額、そして取引の裏ルートを示す記号がびっしりと書き込まれており、その詳細さは誰もが不正の事実を認めざるを得ないほどだった。


 港の人々の一人が、信じられないというように呟いた。

 

「こ、これは……まさか」


 別の者が、その衝撃的な事実に、怒りに震える声で叫んだ。

 

「ベインと、彼の手下たちの不正の証拠だ。長年の悪事が……」


 集まっていた港の人々から、最初は戸惑いと静かなざわめきが起こった。

 彼らは書類の内容を読み解こうと身を乗り出し理解するにつれて、顔色が変わり、怒りの感情が渦巻き始めた。

 やがてそれは、長年の苦しみと抑圧から解き放たれた、確かな希望を感じさせる歓声へと変わっていった。

 人々は互いに顔を見合わせ、信じられない、しかし確かな希望の光が差し込んだことに喜びと安堵の表情を浮かべた。

 抱き合う者、空を見上げ涙を流す者、互いに手を取り合い、喜びの涙を分かち合う者たちもいた。

 彼らの心には、長年の圧政と恐怖から解き放たれたかのような解放感が満ちていた。

 ヴェールの出現は、昼の光の中にあっても闇に閉ざされた彼らの心に一筋の光を灯したのだった。


 アリアは、目の前で繰り広げられた劇的な光景にただ言葉を失っていた。

 危機から救われた安堵とヴェールの圧倒的な存在感に、彼女の心は震えていた。

 感謝の言葉を伝えようと、ゆっくりと彼に向かって手を伸ばす。

 彼女の指先が彼の深紺のローブの、しなやかな革のような質感に触れる。

 その瞬間、彼女の心臓が激しく鼓動した――。


 ヴェールは衝動的にアリアを強く抱きしめた。

 普段はクールな仮面を被っている彼が、その冷静さを失った一瞬の抱擁だった。

 彼の体温、力強さ、そして微かに伝わる焦燥や安堵、そして深い感情がアリアの心に直接響いた。

 彼の胸の奥から響く心臓の鼓動は、まるでアリア自身の心臓の鼓動のように感じられた。

 最初は驚きに固まったアリアだったが、すぐにその抱擁に身を委ねた。

 彼の胸に顔を埋めると、微かにインクの匂いと夜風に晒された革のような独特の香りが混じり合った彼の体温が感じられる香りがした。

 この抱擁が、ヴェールが単なる「闇の義賊」ではない弱者への深い情と人間的な弱さ、そして孤独を抱える存在であることをアリアに強く感じさせた。

 彼女のヴェールへの尊敬は、この瞬間から明確な惹かれへと変わった。

 彼が、彼女にとってかけがえのない特別な存在であることをアリアは確かに悟ったのだ。


「ベイン、そして貴様らに従った警邏隊と私兵は、ここで拘束する」

 

 ヴェールの冷徹な声が響き渡るとベインは恐怖に顔を歪ませた。

 ベインに忠実に従っていた警邏隊や私兵の兵士たちは、抵抗虚しくヴェールの圧倒的な力によって次々と地面に組み伏せられていく。ベインは自身に迫る義賊の影に怯えながら警邏隊の隊長に助けを求めるような視線を送ったが、隊長もすでにヴェールの支配下に置かれていた。


 その様子を、以前ヴェールの行動に心を動かされ正義の心が残っていた一部の警邏隊員たちが、固唾を呑んで見守っていた。

 彼らは侯爵の命令と己の良心の間で葛藤していたが、ベインの不正と悪事が公にされた今、ついにその沈黙を破った。

 彼らは、ベインに忠実な警邏隊員たちを制圧し港の人々の前に進み出た。


 一人の警邏隊員が固い決意の表情で、しかしどこか縋るように港の人々を見渡して言った。

 彼の声は、港の人々の心に届くように、しかしどこか震えていた。

 

「港の皆さん、ご安心を。不正を働く者は、我々警邏隊が許しません」

 

 その言葉に、港の人々の間からはすぐに歓声が上がることはなかった。

 むしろ、ざわめきが大きくなり、「本当に信じていいのか」「また騙されるんじゃないか」という疑念の声が、あちこちから聞こえてくる。

 長年警邏隊の締め付けに苦しめられてきた港の人々の不信感は根強く、一度港の人々に牙を剥いた警邏隊への不信は簡単には払拭されなかった。

 侯爵に忠実な警邏隊員の中には、正義の警邏隊員の行動に驚き恐怖で震える者もいた。

 彼らの間で、明確な亀裂が生じた瞬間だった。


 正義を訴えた警邏隊員は、港の人々の不信の声に歯噛みするほど悔しさを滲ませた。

 彼の顔には、この状況でさえ信用されないことへの無念と、それでも信じてもらいたいという強い願いが入り混じっていた。

 その時、長年港街の人々と共に歩みその信頼を得てきたギルドの長老たちが、港の人々のざわめきの中に一歩踏み出した。

 彼らは港の人々に呼びかけた。


「皆の者、聞け。我々ギルドは、この警邏隊員たちの言葉を信じる。そして、ここにいるベインとその手下どもが、確かに公正な法の下で裁かれるよう、我々ギルドの者たちが彼らの連行に同行し、最後まで見届けることを約束しよう。これで、皆は安心して騒ぐことができるはずだ」

 

 ギルドの長老の力強い言葉に、港の人々の間から徐々に安堵の息が漏れ始める。

 長年彼らを支え公正さを貫いてきたギルドの言葉は、警邏隊の言葉よりも重かった。

 港の人々はギルドの者たちの信頼性を知っており、彼らが共にいることでようやくこの状況が本当に好転することを感じ取ったのだ。

 それは、長い冬の後にようやく春の兆しが見えたかのような確かな希望の光だった。


 そしてその瞬間、酒場の前に集まっていた港の人々は、歓喜の声をあげた。

 その喜びは、心の底から湧き上がる噴水のように次々と溢れ出した。

 長年の圧政と恐怖から解き放たれたかのような、心からの喜びが街中に響き渡る。

 彼らは抱き合い空を見上げ、互いの顔を見合わせて頷き合った。

 その歓声は街の隅々まで響き渡り、新たな時代の到来を告げるかのようだった。

 子供たちは歓声を上げながら駆け回り、母親たちは涙を流しながらその姿を見守った。

 不安と絶望に満ちていた街が、一瞬にして明るい光に包まれたかのようだった。


 ヴェールは港の人々の歓声と、彼らがベインたちの連行を見送る姿を静かに見つめていた。

 その表情は、ツバの広いハットの影とシンプルなアイマスクに隠され誰にも読み取れない。

 彼は使命を果たしたと確信すると、まるで最初からそこにいなかったかのように音もなく昼の光の中へと消え去った。

 彼の去り際、マントのV字型留め金が再びわずかにきらめき、希望の象徴として港の人々の目に焼き付いた。


 ヴェールの姿が完全に消え去ると、ゼックは我を忘れたようにアリアのもとへ駆け寄った。

 

「アリア」

 

 彼は震える手でアリアの肩を掴みその小さな体を強く、強く抱きしめた。

 ゼックの腕の中でアリアは安堵の涙を溢れさせた。

 兄の腕の温もりと、その震えが、今までの恐怖と緊張を一気に洗い流していくようだった。

 ゼックの顔には、安堵と、妹を守りきれたという喜びそして誇りが入り混じった複雑な表情が浮かんでいた。


 その足元にアルトが駆け寄り、アリアの足に力強く抱き着いた。

 彼の小さな顔は涙でぐしょぐしょだったが、その瞳は解放の喜びで輝いていた。

 

「アリア姉ちゃん。怖かったよ……怖かった……」

 

 アルトの嗚咽が、アリアの胸に温かく響いた。

 アリアは、かがみ込んでアルトの頭を優しく撫でその小さな背中を抱きしめた。


 酒場の入り口では喜びで涙が止まらないマチルダとハンスが、互いの肩を抱き合っていた。

 マチルダは「まさか、こんな日が来るなんて」と声を詰まらせ、ハンスは「俺たちも、諦めずに本当に良かった」と呟きながら、目を拭っていた。

 レオンハルトはそんな二人を優しく見守りながら、そっとマチルダの背中を撫でて宥めていた。

 彼の表情には、冷静な安堵とこの劇的な展開を観察する商人の顔が同居していた。

 ドラグもまた静かにその光景を見つめ、安堵の息を漏らしていた。

 彼の口元には微かな笑みが浮かんでいた。


 やがて、アリアとゼック、そしてゼックにしっかりと抱き上げられたアルトは、マチルダとハンス、レオンハルトとドラグの傍へと歩み寄った。

 彼らは互いの顔を見合わせ言葉にならない喜びと、再びみんなで一緒にいられることへの感謝を分かち合った。


「もう大丈夫、みんなで一緒にいられるわ」

 

 アリアの言葉に全員が頷き喜びの笑顔が弾けた。

 その笑顔は、港街の未来に希望の灯火を灯すかのようだった。

 温かい光が、彼らの顔を照らしていた。


 ヴェールによって救われたアリアは、彼への特別な感情を抱き始めその存在に深く心を奪われることとなった。

 侯爵が、彼の冷酷な支配の象徴である警邏隊の一部が港の人々側に寝返ったことを知り激怒している頃、レオンハルトはヴェールが残した成果を分析し、侯爵のさらなる報復に備え静かに調査を続けていくのだった。

読んで頂き、有難う御座います。

少しでも皆さんに、何かを伝える事が出来れば嬉しいです。


お時間いただき、有難う御座いました。

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