Ⅲ. プレスト(Presto)
その曲を聴いたのは、人生で二度目だった。
とはいえ、最初に聴いたのがいつだったのかは思い出せない。確かなのは、その日もMI6の横暴さに疲れ果てていたということ。僕が何処かで誰かを殺し、その帰り道に通り過ぎた劇場かサロンで、それは演奏されていたのだ。
まるで、切り裂かれた心臓の叫びのように。
爆ぜる怒りと渇望を吐き出すように。
凶暴に、熱を帯び、だが何処か、悲しみに咽ぶように。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが一八〇三年に生んだ、ヴァイオリン・ソナタ第九番。
ヴァイオリンとピアノのための、激情に満ちた旋律。
それが、「クロイツェル・ソナタ」だ。
トルストイはこの曲を題材に例の殺人小説を書いた。
それが何故か、一度聞いてみれば分かる。
今日この時アイリッシュ・マフィアの巣窟で、弾くともなしに弾かれている理由も、たぶん――
◆
雨の公園から地下鉄で向かった僕は、駅でリムジンに拾われた。
シャーロックが差し向けたのだろうと分かったから、僕もあえて避けはしなかった。足の先から頭の先までどうしようもない濡れ鼠だったけども、遠慮なく白い革張りの椅子に座った。運転手も何も言わなかった。
そうして今は、シャンデリア輝くベル・エポック調の厳粛な廊下を、天使やペガサスの装飾が施された幾つもの扉を眺めながら、玉を欺くように美しい白人女性と黒人女性に両腕を引かれて歩いている。
霧の街の桃源郷とまで謳われる、富と地位と才を持った人格者にしか入れない、会員制の高級クラブ。
シャーロック・ホームズがその人生を捧げたアイリッシュ・マフィアの本部。
それが、「CLUB:DIOGENES」だ。
夜の姫達は館内で一番大きく豪奢な扉の前に僕を連れて来ると、黙って、しかし花が俯くにも似た優美な仕草で、それを指差した。
「ありがとう」
僕は微笑み、彼女たちにポンド札を何枚か渡して、ノブに手をかけた。開けるべきではないと本能は告げていたが、開けずにはいられなかった。シャーロックが、この向こうで待っているのだから。
◆
目の前に広がったのは、とても空虚でちぐはぐな部屋だった。
窓はなく、天井は黒い。高級な絨毯の代わりにブルーシートが一面に敷かれている。
その中央に、グランドピアノがあった。
それを弾くのはシャーロックの義兄であり、ファミリーのボスである――マイクロフト・ホームズ。
表向きには、彼は国家の敵だ。麻薬や売春、武器売買、それら「悪いこと」で成り立っているとされるアンダーグラウンドの頂点に君臨する王だから。でも、僕に言わせれば、政府もマフィアも変わらない。
彼は優しい微笑を浮かべながら、その巨体を椅子に沈め、指先だけで軽やかに鍵盤を操っている。ピアノの音は重く、鋭く、迷いがない。
シャーロックは、その真横に立っていた。
彼は黒髪を振り乱し、白いシャツの袖を捲り上げ、ヴァイオリンを構えていた。
指は指板を這い、弓は火花を散らすように弦を削り取る。薄暗い照明の下で腕だけを激しく動かすその姿は、まるで亡霊に憑かれたかのようだった。
彼が音楽を奏でる姿を見るのは初めてだったが、違和感はなかった。
その音は、まるで彼の言葉と同じだった。鋭く、冷徹で、残酷なまでに正確だ。
そして、時折、激情を滲ませる。
それは耳元で銃声が炸裂するよりも、もっと痛ましく、もっと美しい。
ソナタの第二楽章は、柔らかく、甘やかで、そして果てしなく哀しい旋律だった。
まるでシェイクスピア演劇にある、父を殺され婚約者に裏切られ、若い身空で狂ったオフェーリアが、花の名前を口ずさみながら迎える死のような。
しかし、それも一時の幻影に過ぎない。
第三楽章は天を焦がす炎そのものだ。全てを巻き込みながら、加速していく。
攻める音、逃げる音、交錯する音――
ヴァイオリンとピアノの掛け合いは、まるで剣戟のように激しく、それでいて官能的だった。鋼鉄のように冷たい鋭さと、血の迸るような情熱が同時に共存している。
標的を追うような、罠を仕掛け合うような――
響き渡るタランテラ。
毒蜘蛛に刺された者が痛みのあまりに跳ね回る、どこか滑稽で悪魔的な舞踏の熱狂。
僕はシャーロックの指先を見つめた。
弦を抑えるそれは白く強張り、弓は震え、その全身からは、汗ではなく狂気が滴り落ちていた。
やがて、輝かしくソナタは終わる。
まるで決闘の後のような静寂が訪れた。
シャーロックは、僕を見た。
「……シャーロック」
僕は彼の名を呼ぶ以外に、彼を讃える術を知らなかった。
シャーロックはピアノの方を振り返り、少しだけ震えている手で弦を弾く。まるで銃のセーフティを外すように。
「マイクロフト――客人だ」
「お前の客人だろう、シャーリー。照れているのかね? だが確かに、私も礼を言うべきだ」
Mr.マイクロフトは底の見えない笑みをして、僕の方を見た。あざらしのような手で、握手を求めて来る。もちろん僕も、それに応える。
「会うのはこれが始めてじゃなかったかね、駒鳥君」
「ええ。でも、お噂はかねがね」
「それは私の台詞だよ」
Mr.マイクロフトは目尻を下げる。
「いつも弟が世話になっているようだね。礼を言うよ。君がMI6局員でなければ、とうにここへ迎え入れているのだが――いや、世辞は止めて、正直なところを言おう。君が政府側の人間であるからこそ私は価値を認めている。いつぞやの手紙は、大変ありがたかった。例の女性には申し訳ないようだがね」
いつぞやの手紙。例の女性。
それについては、ここに一つ演劇的な話がある。
舞台はロンドン郊外の仮面舞踏会。見た目は豪奢、でも中身は腐った政治家たちの密談パーティー。
主催者は、英国政府の重鎮と崇められる裏で、数々の黒い噂を纏っていた男――チャールズ・ミルヴァートン。
彼は少しやり過ぎて、国の象徴的存在のある女性が書いた政治的に危うい手紙を盗み、強請りたかりの材料にしていた。
だから僕は彼を殺し、手紙を回収する羽目になった。
しかし、そこへやって来たのが、我らがシャーロック・ホームズ。
彼もファミリーのために、女性の「秘密」を欲しがっていたのだ。
僕らは二人で少し話をして、銃撃戦をして、ついでに死体を焼いた。
でもそれだけじゃない。
僕はその時も、こんな腐れた世の中にもう充分と思っていて――別に、構わなかった。シャーロックに殺されても良いと思っていた。
だけど、彼は僕を撃とうとしなかった。
僕を殺せば手紙は全て手に入るのに。
そして手紙を手に入れなければ、彼はMr.マイクロフトの元へ帰れないのに。
だから僕は妥協案として、手紙の一部を「誕生日プレゼント」として彼に託した。
政府とマフィアが同等の権力を持って睨み合えば、陰謀だらけのこの国も――国民を置き去りに暴走することはないと思ったからだ。
「君は先日も、オウルデイカーの茶番劇について、私のシャーリーに有力な情報をくれたようだね」とMr.マイクロフトは言う。
それはそうだ。
でも僕は答えない。頷きもしない。ただ微笑んでいる。
何故なら彼の言葉は、僕のMI6に対する裏切りを羅列しているに過ぎないからだ。――それがどんなに深い想いからのものだったとしても。
「そんなに固くならないでくれ、駒鳥君」とMr.マイクロフトは笑った。
「私とシャーリーは、君を追い詰めるために招いたのではない。礼をするために招いたんだ。そんな嘘の笑顔は引っ込めて、くつろいでくれたまえ。今、プレゼントを持って来させよう」
Mr.マイクロフトは、二度手を叩いた。
背後で、僕が入って来た扉とは違う、もっと粗末で小さな扉が開いた。
目立った怪我はないが、軽く拷問されたのだろう。縛られてぐったりとした金髪の男が、石のように無表情の男が押す車椅子に乗せられて、やって来る。
「紹介しよう」
Mr.マイクロフトは、高らかに宣告した。
「彼の名はヘンリー・スチュアート。政府お手付きの金融家にして、詐欺師。一般市民のみならず、我々の金さえも掠め取っていた身の程知らずの愚か者。そして――今日、君が必要としている死体になる男だ」
めまいを覚え、僕は額を抑えた。
でも、とうにヴァイオリンを銃に持ち替えて、煙草をくゆらせているシャーロックを見ると、こうなることが当然であり――それを僕は知っていたような気がした。
二週間前、あの雨のカフェで会った時、彼の瞳は静かな怒りを滲ませていたのだから。
ヘンリーの車椅子は、僕の真正面に止められた。
「ロ、ロビン……! 助けてくれ……!」
僕の存在に気付いた瞬間、ヘンリーは身を起こした。
僕は何も言わなかった。神の裁きの前に言葉など無意味だ。
ただ床に敷かれたブルーシートの意味をヘンリーがまだ悟れないことが、哀れだと思った。
「聞いてくれ! 僕は、き、君のために、かっ金が必要だって思ったんだ! だけど、もう二度としないからって、本当に、百倍にして返すからって、ねえ!」
いつの間にかシャーロックが隣にいて、煙草を指で弾き、火の粉を散らした。
「左の上腕だったな?」
左上腕。国家への忠誠を刻印された兵士の腕。
シャーロックの声は、いつもの刺すような響きとはまるで違い、穏やかだった。
僕は目を閉じた。
直後、銃声がした。少し遅れて、ヘンリーの咆哮が耳をつんざいた。
「あああああああ!! ど、うし、て、! ロビン! 僕は、ずっと!」
暗闇の中で、汗と涙と尿の匂いが立ち上った。何よりも濃く、血の匂いが。
「おい、右の鎖骨よりに一発だったな」
右の鎖骨。汝の隣人を撃てという倫理の反転。
シャーロックは銃を持っていない方の手で、僕の喉を捕まえた。その指先は冷たかったけれど、その触れ方はあまりに熱を帯びていた。
僕が目を開けたのを見て、シャーロックはヘンリーを撃った。
「がああああ、あ、あいして、いたのに、!」
愛――あれを愛というのだろうか。
盗んだ金でアクセサリーを贈ることが?
「ろ、ロビン!!」
そうだ。
愛だったのだろう。
だから彼は、こうしてここにいる。
運命の回り舞台に乗せられて、真実、僕が必要とするものになるために。
「肝臓部で間違いないな?」
肝臓。怒りの臓器への弾劾。
シャーロックはもうあまり時間をかけなかった。灰色の息を吐きながら、無造作に引き金を引いた。
「いやだああああああ!! しにたくない!! し、しにたくないよおおおおお!! かねならやるからああああ!!」
とうとう愛の話もしなくなって、ヘンリーはただ喚いた。
解けて行く、壊れて行く、ブルーシートに血を撒いて。それはいつか彼が僕にくれた薔薇よりも、もっと赤く、黒かった。
だが、僕にはむしろ、これがヘンリーの本当の姿に見えた。ただ怯え、他人を踏み台にすることも厭わずに、敗北や孤独や死から逃げようとする者。逃げられないことは、最初から分かっていたはずなのに。
「最後は心臓で良いんだろう?」
心臓。物語の終止符。愛と裏切りの回帰点。
シャーロックは何気ない会話の延長のように、笑みさえ混ぜて僕に問う。
でも、彼が “知りたがる” のは、すでに “知っている” からだ。
彼はいつだって、答え合わせを求めるだけ。
僕は多分、怒りを感じるべきだった。
恐怖を覚えるべきだった。
涙を流すべきだった。
ポケットには銃があるのだから、それでシャーロックを撃ち殺すべきだったかも知れない。
でも、実際は――
頷いた。微笑んだ。
僕は、狂っているのだろうか?
「いやだ、いやだ、いやだあああ……!!」
最後の銃声が、空気を裂いて響き渡った。
ヘンリーは口からどっと泡と共に血を噴いて、事切れた。
それだけの人生だった。
◆
パン、パン。
静寂を突き破り、Mr.マイクロフトは手を叩いた。
「さて、問題は片付いた。一応駒鳥君に聞くが、死体の処理はこれで充分だろうね? 我々に粗相はなかったろうね?」
「ええ」粗相などあるはずがない。
僕の真横に立つシャーロックは、ただ震える指で煙草を口に運び、深く、深く、紫煙を吸い込んでいた。
「ではこれをラッピングし、君に贈ろう」
Mr.マイクロフトの言葉通り、部屋の中で先ほどの無表情な男が働き始めていた。ヘンリーの死体が固くならない内に車椅子から下ろして、遺体袋に入れようというのだろう。その後で、部屋一面のブルーシートも撤去するはずだ。
「車の用意が出来るまで、もう一度シャーリーの演奏でも聴いてやってくれ。今は二十時だ。私はこれで失礼するがね、君にはまだ暇があるだろう?」
僕が頷き、Mr.マイクロフトが小象のような巨体を揺すって扉の向こうに消えた時、シャーロックは再びヴァイオリンを取り上げた。
弓が弦に触れた瞬間、部屋の空気が変わった。
僕は背筋が粟立つのを感じた。
クロイツェル・ソナタ、第一楽章。
Adagio sostenuto – Presto.
低く、静かな導入。呼吸を潜める獣のように。
「――ねえ」
滑らかな音に引きずり出されるように、僕は言葉を紡いだ。
「オウルデイカーの演説会を邪魔したのは、君たちなんだろう? その後でジェットを爆破したのも、ネットに動画を上げたのも」
たぶん、これから開催される葬儀でも、騒ぎは起こるだろう。
「殺された奥方の遺族に頼まれたんだね? 何もかもぶち壊しにするようにって」
それをどう受け取るかは国民次第だけど。
「聞いてどうする?」
シャーロックは低く呟いた。
その声は炎が燻るような、微かな熱を孕んでいた。
「クロイツェル・ソナタはお前にとって、何だ」
「――音楽史的な話をしろって? それとも哲学的な話を?」
「何でも良い、答えろ」
「……分からないよ。でも、君の演奏を聴いていると、狂気と激情と破滅のイントロダクションに聞こえる」
僕は、ブルーシートに散った鮮血を見下ろしていた。
頭の隅にはまだ、あのトパーズの輝きがちらついている。
「僕の聞いた話じゃ、ベートーヴェンはこの曲を、ブリッジタワーというヴァイオリニストのために書いたんだ。でも、一人の女性を巡って喧嘩して……結局、フランスの名ヴァイオリニスト、クロイツェルに献呈することになった。だけど、クロイツェル自身はこの曲を『理解出来ない』と評して、一度も演奏しなかったんだ。だから……」
「だから?」
「この曲には、最初から演奏者がいないのかも」
シャーロックは目を細め、ヴァイオリンを弾き続けながら囁いた。
「クロイツェル・ソナタは、お前だ」
A-dur――それは嵐の前兆。
亡霊の呻きのように。
「その名を冠された男が拒絶したように、お前も自分を理解することはない」
彼の指は滑らかに指板を滑る。
「聴衆さえ、お前を畏怖する。お前はそこにいるだけで、さながら地獄の門番のように選択を迫るからだ」
強く、緩やかなビブラート。
「生の道を行くか、死の淵に堕ちるか――。この点で、トルストイの解釈は間違っている。お前が彼らを狂わせるのではない。彼らの狂気をお前は露呈する」
焼き付くように鮮烈に。
「それがお前だ。そして、それで良い」
「何が良いって?」
僕は虚ろに笑った。
クロイツェル・ソナタという楽曲が、誰にも理解されずに放浪し、最後には殺人の見届け人として死体の側に立っている。それの一体何が良い?
「音楽とは、振動だ。その震えに全てを――魂さえ捧げた者だけが、その真価を理解する」
彼は揺らぎのない瞳で、真っ直ぐに僕を見て言った。
「俺が弾き終えるまで、存在し続けろ」
クロイツェルが泣いている。
彼の腕に抱かれて。
僕は言葉もなく立ち尽くしていた。
やっと、分かったのだ。僕はいつだって正気だったということを。
狂っているのは世界の方だった。
国民が正気なら、オウルデイカーは首相になんかならなかった。
オウルデイカーが正気なら、奥方は死んでいない。
ヘンリーが正気なら、自分の罪に気付いたはずだ。
正義や愛というものの正体が、末路が、残酷なまでの真実ということも。
僕の世界で正気なのは、
シャーロック・ホームズただ一人だ。
次の瞬間、音は爆発した。
激しいスピッカート。弦を削り取るように弓が走り、息つく間もなくパッセージが駆け抜ける。
僕は宙を見上げた。
この部屋に窓はないが、外の雨はもう止んでいるような気がした。
彼が弾くのは長い長い曲になるが、僕はこうしてこのまま、聴いていようか。
だけど、僕らしく欲を言えば、いつの日か彼の演奏に花を添えるような、そんなピアニストにも出会いたい。
Mr.マイクロフトの演奏も素晴らしかったが、もっと違う、忘れかけた夢にも似た旋律を奏でてくれる、若き日のベートーヴェンのように熱血で純粋な誰かにも……
何処かで雷鳴が轟き、シャーロックのヴァイオリンに混じった。
三月二十六日――春が生まれるこの時に、冬は静かに去って行く。