Ⅱ. アンダンテ・コン・ヴァリアツィオーニ(Andante con variazioni)
心臓が跳ねた。もちろん、顔には出さないけれど。
「初めて聞く名前だね」
「ランガム・ホテルの245号室。昨夜三時までお前が一緒にいた男だ」
そこまで知っているなら、わざわざ聞く必要もないだろうに。
本人を捕まえて答え合わせをするというのは彼の常だけれども、趣味が悪いとしか言いようがない。
僕は軽く舌打ちをした。
「それがどうしたって言うんだい? 君だって、お義兄さんのクラブに始終出入りしているじゃないか。ファミリーのホームだからそれは当然だとしても、夜の姫達と全く関係がないなんて言わせないからな。彼女らの方が君を放っておかないだろうし」
煙に巻こうとしてみたが、シャーロックは乗らなかった。
意図的な沈黙の後で、何事もなかったかのように言う。
「ヘンリー・スチュアートは、お前の魂を何処まで満たす存在だ?」
僕は溜め息をついた。
答えなんてない。あのトパーズのピアスだって、何処ぞの娘の鞄に捨てた。青い青いその石は、水溜まりに映る星のようにキラキラ輝いていたけれど。
「らしくもない質問をするじゃないか。むしろ、君にはどう映るか聞いてもいいかい?」
「そうだな……」
シャーロックは初めて笑みを見せ、でも決して笑っていない瞳で僕を見据えた。
「今日のお前は、鈍い」
「鈍い?」
「馴染みのウェイトレスが敵にお前を売らないなどと、どうして断定出来る?」
煙を吐き出したシャーロックの背後を、まだカフェの終業時間でもないのに、エプロンを取って身支度を調えた彼女が通り過ぎて行った。僕はさっき飲み終えたばかりのコーヒーカップに目を落とす。
「安心しろ。砂糖を多めに入れさせただけだ」
「――どおりで。さっきよりも甘いと思ったよ」
僕の呟きにシャーロックは笑い、手元のカップを軽く回した。
その手の動きは、まるで僕の人生全体をひっくり返す予行練習のように見えて、若干の不快さを感じる。
「俺はな、ロビン。先の件がもしMI6の仕業なら、お前を撃ち殺していたかも知れん。そのための銃もここにある」
「へえ。そう躊躇わずに、今ここで殺ってくれても構わないけどね」
僕はなるべく苛立ちを抑えて言った。
「だけど、こんな往来で? 誰にも見咎められることなく? 銃でズドンと? おいおいシャーロック。愚の骨頂だとしか言いようがないね。何処かの魔法使いみたいに透明マントでも被って殺るつもりだったのかな? 君も僕も、こうしてここに座っているだけで相当目立つんだぜ」
「周りを見てみろ、ロビン。本当にそう思うか?」
雨の音が、やけに大きく聞こえた。
首を巡らせて確かめるまでもなく、黒髪でロングコートを羽織った人間や、僕のように白っぽい髪の人間達がそこら中にいた。彼らは皆、コーヒーやパンを片手に談笑していた。
僕とシャーロックはとっくに目立つ存在ではなくなっていた。
「現実を把握したか?」
「ああ……。君の言う通りだと認めざるを得ないね」
自分の馬鹿さ加減に愛想が尽きて、僕はつい笑い出してしまった。
そりゃ、僕のコートの内ポケには、大抵の毒を無効化する解毒剤が入っていたし、不意を突かれたとしても全く問題ないほど接近戦には自信があった。
でも、誰よりも早く嵐の訪れを見抜くのがウミツバメというものだ。それが、風の乱れを読めぬほどに衰えてしまったなら……存在価値などあるのだろうか?
「まあ今日の所は、お前に感謝こそすれテムズに沈める理由はない。だから――」
シャーロックは二人分のコーヒー代をテーブルの上に置き、椅子を軋ませながら立ち上がった。
「暇しよう。また次の機会まで」
激しさを増す雨の中を、相変わらずの鋭さで。慈悲の欠片もない声で。
「やだよ」
どうして約束するのだろう?
その“次”は永遠に来ないかも知れないのに。
しかし、シャーロックはある種の確信を持った潔さで背を向けた。彼の姿が遠ざかるほどに、僕の耳には世界のノイズが戻って来る。
◆
それからちょうど二週間がたった。
僕は時計もカレンダーも見ず、日がな一日キャンバスに向かい絵を描いていた。題材は何でも――と言いたいが、僕が描くものは、時限性のものが多い。弾き手のいない楽器や、しおれかけた花や、若い男女と彼らの髑髏。別に、「大作を描いてやろう」などとは思っていない。ただ黙って何かを「写し取る」ことだけが、僕の呼吸の延長線上にある。
そういえば、シャーロックに初めて会った時も、僕は絵を描いていたっけ。
いつのことかは今更どうでも。その舞台となったレストランも、二年前に店主が死んでロンドンから消えてしまったことだし。いや、開業中の頃でさえ何処かくたびれた雰囲気の店で、特に流行っている様子もなかったから、いつ閉業してもおかしくはなかったろうけど。
でもオレンジ色のランプがぼうっと灯る、黄昏時めいた哀愁が漂う空間に魅せられて、僕は幾度となく通い詰め、同じ席を陣取っていた。道行く人々の傘の群れとミルク色の霧がガラス一枚隔てた向こうに煙っている、小さなテーブル。
僕はフライとチーズとパンの粗末な夕食が出来上がるのを待つ間、ガラスに映った僕自身をぼんやり眺め、鉛筆の先を動かしていた。自画像を描くつもりだった。
そして、彼は現れた。
扉を軋ませて、排気混じりの街の夜風を引き連れて。
「……ワインを。デカンタで」
その声が耳に入った瞬間、何故か手が止まったのを覚えている。
聞こえるか聞こえないくらいの音でかかっていたクラッシックのレコード。
僕と店主の他には誰もいない店で、シャーロックは僕の席の斜め向かいに腰を下ろした。
そして、不意に言った。
「死体を描いているのか?」
僕は目を上げた。
彼は僕のスケッチブックを見ていなかった。視線は真っ直ぐ、僕に向いていた。
「……どうしてそう思う?」
「形に『生』がない。輪郭が、息をしていない」
僕は笑いそうになった。
僕の絵について、それまでは誰からも「上手い」か「暗い」としか言われなかったのに、彼の言葉はずっと正確に的を射ていたからだ。
「へえ、驚いたね。何で分かったのかな。君も死んでいるとか?」
そう尋ねた時には、彼が何処の誰であるかを僕は知っていた。
彼はこのロンドンの暗黒街で並ぶ者のない有名人。仮にそうでなかったとしても、見過ごすべきでない危険そのものだと一目で分からなかったとしたら、僕はこの世界にいない。と言うより、いられない。
もっと言うと、店を一歩出れば間もなく、生死のあわいで衝突し合う関係だということまで予測できていた。MI6はその時ちょうど、彼の所属するファミリーを怒らせるようなかなりきわどい件を扱っていたからだ。
彼は眉一つ動かさずに「俺は生き過ぎてる」と答え、続けた。
「お前は違うらしいな」
彼の眼差しはあまりにも透明だった。一切の澱が取り除かれてただ静かに澄み渡る、ルビー色のワインのように。
僕は返事が出来ず、曖昧な笑みでごまかして、「自画像」もとい「死体」を描き続けた。
先日のカフェでの様相は、この最初の出会いの焼き増しに過ぎない。
◆
焼き過ぎたトースト、黄身が割れた出来損ないの目玉焼き。
絵筆を置き、遅い昼食を作り始めた時、胸ポケットでスマホが震えた。
僕は小さく舌打ちをする。バカンスの夢を見終わらぬ内に「目を覚ませ」と言われたようで気分が悪かった。
折しもこの二日間、それまで毎日のようにヘンリーが送って来ていたクソ意味もないメールが途絶えてホッとしたばかりだったから。
「おはよう、今日は良い天気だね。珍しく空の雲が少ないよ」
「やあ。僕は今、カミュを読んでいるよ。とても深い本だよ。そういえば、君が好きな本ってある? 僕も読んでみたい」
「今、窓の外に駒鳥がいる」
僕が返信したのはたった五回だけど、実に空虚な会話だった。
彼は僕に何を求めているのだろうか。
初めてヘンリーと出会った夜から、僕はその疑問を持ち続けている。
彼は僕のことを「苦しそうだ」と言った。不思議なほど無邪気に。僕と同じ世界にいながら、同じ景色を見ていなかった。
その年のクリスマス、彼が僕のために用意したのは旅のチケットだった。ターキーの皿の横に置かれた封筒には「I would do anything to make you smile.」とあった。
目的地はどこかの島。雪の降らない国。そこに「二人で」と書かれていた。
でも、行かなかった。僕はチケットを封筒ごと暖炉に放り込んで燃やした。そしてそのまま、仕事に出かけた。ある一人のジャーナリストを自殺に追い込むために。
それでもヘンリーは怒らなかった。僕が一つ嘘をつく度、彼はそれを信じるフリをした。
もしかして僕を救おうと思っているのか?
そうだとしたらお笑いだ。ヘンリーは詐欺師で僕は諜報員。救い救われるなんてちょっと考えられないくらいには、十二分に汚れ切っているというのに。
だけど、僕も彼に何を求めていたのだろう?
彼のように開き直れたら、とは思っていたかも知れないが……
連絡が突然途絶えた理由は分からなかったが、きっと風邪でも引いたからだろう。気にするつもりはない。
さて、我が諜報機関によるメールの件名には【緊急】とあった。
出来ることなら電源を切ってしまいたかったし無視したかったが、そうも言ってられない。
◆◇◆◆◆◇◆
[OPERATION] Bridge tower
Fall down
◆◇◆◆◆◇◆
「OPERATION:Bridgetower」とは、オウルデイカーに最期の演説を披露させるためジジイ共が用意した作戦――イベントのことだ。
だけど、なに、Fall down……失敗?
僕は椅子に座り直して詳細を読み始めた。そこにあったことを簡潔にまとめると、こうなる。
イベントは時間通りに始まったが、一番の盛り上がり――オウルデイカーが凶弾に倒れるという姿を見せようとしたところで、邪魔が入った。
犯人役の男が、音は出るが弾は出ないオモチャの銃を構えた瞬間、観客の中から数人の男が飛びかかって、彼を押さえつけてしまったのだ。
オウルデイカーにもその様子は見えていたが、酷いパニックに陥り、作戦を中止出来なかったらしい。“飛び出すな! 車は急に止まれない”というやつだ。
結果、犯人役が引き金も引いていないのに、銃声一つしていないのに、腕や肩や腹や胸に計四カ所も仕掛けていた血糊袋を爆発させてしまった。観客らの前で、オウルデイカーは勝手に血を噴いて倒れるという痴態を演じてしまったのだ。
マスメディアが「オウルデイカー殉死」の場面を映すため、会場に集められていたことも裏目に出た。彼らはイベントを全国規模で生放送していたから、どこもかしこも大騒ぎになっているらしい。
だが、本件はそれで終わらない。MI6は新たな作戦を思いついたらしい。
◆◇◆◆◆◇◆
[OPERATION] Thunder
Go
◆◇◆◆◆◇◆
何が「Go」だよ。僕に尻拭いさせようとしやがって。
僕が舌打ちしている間にも、ファイルが送られて来る。
まずは、金髪で身長百八十センチ、三、四十代の白人男性たちの画像と名前と住所が連ねられたリストだ。それがどっさり。
次に一枚だけ、人間のシルエットに四つのポイントがマークされている図が来た。
指示の詳細を読むまでもなく、MI6の腐れ加減が分かった僕は、溜め息をついて立ち上がった。バスルームの天井から銃や弾やらを取り出すために。
期限は今日の二十三時までという。今は十七時だから、急がなければいけない。
◆
何の変哲もない住宅街の一角。
一足早く季節を変えたような素晴らしい庭の真ん中で、今の今まで花輪作りにご執心だった、小さな女の子が顔を上げる。
「ねえ、ねえ、パパ……あの木のうえに、ネコさんがいるよ」
父親は芝生に膝をつき、彼女の指差す方を見た。
「ほんとうだね、リリー。彼はあそこで僕らの街を見下ろしているんだ」
どこで覚えたのか、女の子は「いっぴきおおかみ!」と舌足らずに叫んだ。父親は彼女の頭を愛おしそうに撫でた。
「そうだね、彼は毎日一人で戦っているのかも知れないね。ちょっと寂しそうにも見える」
「かわいそう! おうちで飼っちゃだめ?」
「はは、それはママに聞かなきゃ……でも、あのネコ君はそれを望まないと思うよ」
通行人のふりをして彼ら親子の様子を伺っていた僕は、コートのポケット越しに銃を構えている自分の愚かさと情けなさに、声を上げて笑った。
当然、女の子と父親はギョッとしたようにこちらを見る。保護者の勘だろう、父親はすぐに携帯を取り出して「通報するぞ」という素振りを見せた。まあ、問題はない。僕は去ると決めていた。
僕は手を降って大人しく通り過ぎ、近くにあった公園に折れた。
だけど、錆びたベンチに腰を下ろしたら、本当に笑いが止まらなくなってしまった。
ペントンビル街のマクファーレンは、婚約したてだった。
ハーレ街のジョージには、老いた母がいた。
ボンド街のハーカーは、父の仕事を継いでいた。
そして、ここカムデン街のコーネリアスは、我が子を愛している。
それを、MI6はぶち壊せと言う。
何故か? 『英国の未来のために』だ。
オウルデイカーの殉死イベントが派手に失敗してからというもの、さすがの国民も政府を疑い始めているらしい。ネットには「アレは茶番か?」「違うだろ」「いやいや絶対自作自演だ」というような書き込みで溢れている。
マスメディアは必死に「オウルデイカーの死を悲しもう」と呼びかけているが、あまり効果がない。そこで、生み出されたのがこの作戦だ。
【オウルデイカーを国葬にして、何処かの大きなホールに国民を集め、その厳粛な雰囲気に嫌でも巻き込む】
嘘はつくならデカい方が、嘘と気付かれにくい。かのヒトラーだってそう言っていた。
だがこの葬儀イベントを開催するには、一つ問題がある。
十八時現在、肝心の「オウルデイカーの遺体」がないことだ。
例の演説イベントが失敗した後、オウルデイカーは予てからの計画通り、偽物の救急車で空港へ向かい、自家用ジェットに乗り込んだ。そしたら、それが爆発したらしい。地面から数フィートも離れない内に。
――実を言うと、誰がいつ撮影したのか、この「ジェット炎上」動画もネットに流出している。オウルデイカーが血糊のついた服で乗り込むところから、バラバラで焦げ焦げの爆破死体に成り果てるまで。
この動画は新たな論争の的になり、演説会の件にガソリンをかけてダイナマイトを投げ込むようなことになった。
政府のジジイ達は頭を抱えただろう。
だが、もう後戻りすることは出来ない。とにもかくにも葬儀を開催しなくては。
そして――僕に白羽の矢が立ったのだ。
その任務内容を簡潔にまとめるなら、コレだ。
【オウルデイカーと背格好がよく似た人間を、四カ所の弾傷がある死体にして持って来い】
何処ぞの俳優を雇うより、死体を使う方が無難で、安上がりだ。芝居が破綻する恐れがないし、口止めをする必要もない。
そして、既に霊安所にある遺体を加工するよりは、今、別人を殺す方が良い。生々しさが違うからだ。鮮血の散ったそれは、カメラにさぞかし映えるだろう。
ぽちゃん、と目の前の濁った池で何かが跳ねた。
空はもう暗く翳り、木々の向こうに見えるビル街は、切り絵のように見えた。
僕はおかしくもないのに笑い続け、でも、血を吐いたのをきっかけに止めた。それからずっと黙っていた。やがて雨が降り出した。
MI6が用意したリストには、まだ三十人以上の候補者がいる。でも、とっくに破綻している嘘に起こさなくても良い悲劇で加担するような任務を、もう遂行してやるつもりはなかった。犯罪者らの中からと言うならともかく、無垢の民を殺せとは、この国も相当腐っている。
僕はもう充分だと思った。もう充分、もう潮時――
そうだ、今から適当に変装して、パリにでも行ってしまおうか。凱旋門の下をくぐり、巨匠達の絵を眺め、それから小さな屋根裏部屋で、さっさと首に縄をかけよう。
その時、僕の胸ポケットの中で、スマホが鳴った。
僕はしばらくどうしようかと迷った。パリに行くならスマホは、池のカエルにあげても良い。
ただ、最初の着信から一分と立たない内に次の着信があったので、見るだけは見てみようと取り出した。
【今夜九時 CLUB:DIOGENES 都合が良ければ来い】
【悪くても来い】
送信者は「unknown(名無し)」とあったが、それが誰だか、容易に見当がつく。シャーロックだ。
目を通している間にも、もう一件飛んで来る。
【いつぞやの返礼をしよう】
どういう意味だ? さあ、言葉通りの意味だろう。
彼は僕と違って、嘘を付かない。ただ真実を隠すだけ。
ベンチから立ち上がると、腹の辺りに溜まっていた雨が音を立てて落ちて行った。それで足は更に濡れた。何故だか急に寒さを感じた。
【今から行っても良いかい?】
スマホの画面に流れる雨を拭いつつ、僕はついそう書いた。書いた後で消そうとしたが、指が滑って飛んで行った。返事はすぐに来た。
【来い】