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眠れぬ魔女とグリマルキン

作者: 夜色めいじ

 猫には九つの命があるという。

 複数の命を持つ彼らにとって、一つの命に縋る人は、いったいどのように見えているのだろう。

 猫は人を哀れむのだろうか。それとも――。


          ※


 昼間は多くの人で賑わうこの大都市であろうと、夜が訪れれば多くの人が眠りにつき、都市もたちまちその様相を変える。

 列を成すようにして立ち並ぶ高層のビル群は目が眩むような光を宿し、金属の黒く冷たい外壁面は重圧感を醸し出していた。

 見渡す限りに聳え立つ夜の摩天楼。そんな都市の一角にて、左右を威圧的なビルに挟まれた暗い通りを、一人の若い魔女が歩いていた。

 夜の闇に溶け込むかのような黒ローブと特徴的な三角帽子を身に纏う彼女。その隙間からは白磁色の肌が覗いていて、腰の辺りまで伸びた黒髪は実に艶やかだ。微かなあどけなさを残しながらも洗練されたその美しい容姿を前にすれば、通りですれ違う誰もが彼女のことを振り返らずにはいられないだろう。

 しかし、このような夜更けに出歩く者などほとんどおらず、まれにそのような酔狂者とすれ違えど、彼らは総じてどこか遠い目をしたまま、魔女のことなど見向きもしない。ローブの色が夜に紛れているからなのか、それともすれ違う相手のことなど興味がないだけなのか……いずれにせよ、魔女には知り得ないことだ。だが、彼女が一つだけ確信していること――それは、こんな真夜中に一人、都市の暗がりをうろつく者の胸中が、穏やかなものであるはずがないということだ。


 文明の発展と共に、魔女や魔法の存在が架空のものとされるようになった昨今。居場所を失った魔女達はひっそりと都市の影に隠れ住みながら、日々魔法の研究や、都市で生じた魔法がらみの問題に対処する生活を送っていた。いつしか彼女達は互いの繋がりを深め、ついには魔女同士の相互扶助を名目とした魔女社会が形成されていった。


 ――魔女たるもの、日々研鑽し、魔女社会のために働くこと。


 それが、この都市に生きる魔女として当然のあり方であった。


 魔女は俯いたまま、夜の都市を歩き続ける。暗い通りを、等間隔に設置された街灯だけが明るく照らしていた。その薄明るい輝きは、夜道を歩く彼女にとって欠かせない道しるべでありながらも、同時にひどく煩わしくもあった。

 街灯の下で立ち止まり、頭上から降り注ぐ光の柱に鬱屈と頭を上げる。明かりに照らされた彼女の表情は暗く、どこか深い疲労感のようなものが滲んでいた。


 都市に暮らす魔女の日々は忙しい。こと魔女見習いである彼女においては、魔法研究の手伝いを始め、魔法素材の収集から暴走した魔法具の処理、果ては書類上の業務に至るまで、大量の雑務に追われる毎日を送っていた。仕事は連日、早朝から夜遅くまで続き、日を跨ぐことすら少なくない。

 本来であれば、仕事が終わればすぐさま家に帰って、休息を取るべきなのだろう。魔女見習いの朝は早く、ならばなおさらこのような時間帯に都市をほっつき歩くべきではない。

 日々の業務に忙殺された体はもう限界で、今すぐにも倒れてしまいそうで……しかし、彼女の目は覚めていた。


 ……いつからこうなってしまったのか、もう覚えてはいない。体はへとへとに疲れているというのに、いざ床に就こうとすると何故か目が冴えてしまう。部屋のベッドに横になり、明日のために眠らなければと思うほど、一向に寝つけない。そんな毎日を繰り返しているうちに、気がつけば彼女は眠れなくなっていた。

 ――だから、魔女は一人夜の街を歩いていた。そこに対した理由はない。ただなんとなく、どこか遠いところへ行って、誰もいない場所へと消えてしまいたいと思った。

 夜の闇と一つになりたかったのだ。


 魔女は冷めた目で、もはや自分の他に誰もいない通りを照らし続けている街灯を見やる。


「意味もなく光を放ち続けるくらいなら、いっそ消えてしまえばいいのに」


 人気(ひとけ)のない通りを無意味に照らす街灯に、無意味な愚痴をこぼす。疎ましげに見つめた通りの先は果てが見えず、どこまで続くともしれない。……もう何もかもがたくさんだった。

 魔女は光の当たらない通りの半ばで立ち尽くす。ふと、近くからガサゴソという微かな物音が聞こえてきて、力なく通りの脇へと目を向ける。彼女の左側に聳えるビルの下に、不自然なダンボール箱が投棄されていた。

 胡乱な目でそちらを見つめる魔女であったが、何を思ったか箱の側へゆっくりと歩き出す。そして箱の前で屈むと、中をそっと覗きこんだ。


「……猫?」


 そこには一匹の黒猫がいた。

 箱の中で寒さに震えながら丸くなっているその猫は、自身を覗く魔女に気付いて、不思議そうに顔をあげる。くりくりとしたつぶらな瞳が、魔女を捉えた。

 全身真っ黒の体は所々汚れているものの、その姿態はしなやかで上品さを感じさせる。抱えれば腕にも収まりそうな小さな生き物を、魔女は屈んだまま優しく撫でた。

 見知らぬ魔女に触れられて、しかし猫は嫌がるどころかされるがままになって気持ちよさそうに目を細めている。随分と人慣れしているにも関わらず、こんなところに置かれている状況から鑑みるに、きっと誰かに捨てられてしまったのだろう。


「こんなところにひとりぼっちだなんて、かわいそうに……」


 望む望まぬに関わらず、このどうしようもない世界に一人投げ捨てられた哀れな落とし子。先も見えず、明日への保証もない、その場しのぎの過酷な世界で生きることを強いられた猫を、魔女は気の毒に思った。


 猫には九つの命があるという。命というものが生まれて死ぬまでの一生を示すものであるならば、猫はこの辛い一生を九回も生きなければならないのだろうか。だとするなら、なんて悲しいことなのだろう。

 これからこの捨て猫に待っているであろう過酷な未来を想像して、魔女は不憫でいたたまれない気持ちになる。しかし、今の自分に何ができるというのか……。


「……そうだ」


 魔女はおもむろにローブの内側に手を入れると、懐から棒状の栄養食を取り出す。パッケージに『一食分の栄養』などと書かれたそれは、仕事終わりに食べようと用意しておいたものの、そのまま食べずじまいになっていたものだ。


「私がしてあげられるのは、これくらいだから」


 栄養食を包装紙から取り出して、中身を箱の中に置いてやる。見慣れない食べ物を最初は警戒していた猫であったが、それが食べられるものだとわかった途端に夢中で齧りついた。幸せそうに栄養食を頬張る猫の姿に、魔女は小さく微笑んで立ち上がる。


「せめて優しい人に拾われて、元気に生きて……」


 そう去り際に口にして、しかし自分の言えたことではないなと自嘲的な笑みを浮かべた。

 魔女は再び夜の都市を歩き出す。

 どこへ向かうともしれないその背を、二つの目がじっと見つめていた――。


          ※


 いったいどれだけ歩いたのだろう。

 ひたすらに続く通りに嫌気が差して、見知らぬ脇道に足を踏み入れていた魔女は、気付けば入り組んだ路地裏の中を彷徨っていた。

 都市の中心地から大きく離れたこの区画には、今はもう使われていない建築物が連なっていて、人の気配はおろか街灯の明かりすら存在しない。重い静寂が支配する路地裏を、建物の合間から差し込む月明かりだけが、辺りを冷たく包み込んでいた。

 怖気のするような暗い路地を、魔女は無心で歩き進む。そうして、ある程度広まった通りに出ると彼女は立ち止まり、前方に聳え立つ古びた塔を見上げた。


 周囲の建物よりも一際高い、四角い塔。かつてこの都市が小さな町であった頃に都市のシンボルとして利用されていたが、今は見る影もない。急速な技術革新による都市の発展と共に多くの人が現在の都市の中心部へと流れ、近辺の建築物共々放置された結果、塔は完全な廃墟と化してしまっていた。

 人々に忘れ去られ、都会の隅で寂しく佇む塔の中へ、魔女は俯いたまま入っていく。かつての盛況の跡が残る寂れたエントランスには目もくれず、中央の螺旋階段に足を掛けた。

 ローブの裾を引きずりながら、もはや感覚も残っていない足を動かして階段を上る。箒を呼び出して空を飛べば、わざわざ歩くことなくすぐに塔の上へ着くことができるのだろうが、どうしてかそのような気にはなれなかった。一歩、また一歩と階段を踏みしめる。そのたびに階段は音を立てて軋んだ。

 ひたすらに塔の上を目指して上り、ついに最後の一段に足をかけたとき、屋外のヒンヤリとした風が魔女の頬を撫でた。塔の屋上は正四角形の開け放たれた空間になっていて、ふと顔を上げれば、星がなくのっぺりとした暗い夜空が広がっていた。

 およそ30メートルの階段を登り切った彼女であったが、しかしそのことに何の感慨も抱くことなく、そのまま屋上の隅にある展望デッキへと歩き出す。

 塔は古い前時代の建物ではあるものの、以前は町のシンボルであっただけはあり、周辺の建物を見下ろせるほどの高さがあった。既に日を跨いでいるであろう時間帯。遠くに見える高層ビル群は、今も煌々とした光を放っていた。

 魔女は壊れた安全柵を越えて展望デッキの縁に立つと、おもむろに塔の下を見下ろしてみる。おぞましく、グロテスクな暗闇が広がっていた。触れるものすべてを飲み込んでしまうかのようなそれは、まるで底なしの沼のよう。けれど、不思議と恐れは感じなかった。

 魔女は魅入られるようにして、眼下に満ちた闇を覗き込む。ふと、一歩を踏み出せば煩わしいすべてから解放されて、楽になれるような気がした。

 ――夜の闇と一つになれる……そんな予感がした。


『な~お』


 突然の気の抜けた鳴き声に、魔女はゆっくりと首を傾けて振り返る。二つの輝く目が、暗闇の中に浮かんでいた。


「……なんだ、ついて来ちゃったのか」


 魔女の背後にいたのは先ほどの黒猫だった。どうやら、ずっと後をつけてきていたらしい。


「もうさっきの栄養食はないんだけどなぁ……」


 魔女は困ったように頬を掻く。だが、猫は食事の催促をしに来たわけではないようだ。

 マイペースに展望デッキへと歩いてきた猫は、魔女の隣にちょこんと座り込むと、そのままじっと塔の外を見つめだす。意図の読めないその行動に困惑する魔女であったが、しばらくして小さくため息をつくと、展望デッキから足を外に放り出すようにして座った。


 ――別に何かをしようとしていたわけではない。それでも今は、少しだけ安堵していた。


 寂れた塔の屋上で、寝静まった夜の風景を眺める魔女と黒猫。

 時間が、静かに、ゆっくりと進んでいく。先ほどまで、あんなにも重かった体も、鬱屈と胸を締め付けていた冷たさも、今はどうだっていい。

 遠くには、街灯が並んだ通りやまばゆい高層ビル群が見える。都市の中心部から少し離れているだけなのに、なんだかあの煩わしい場所から逃れられたような気がした。実際は、ここも都市の一部に他ならないというのに。


「……私って、どうして生きているのかな?」


 答えを求めたわけではない。それはただの呟きにすぎない。


 ――幼少の頃、両親を失って途方に暮れていた。都市に一人、孤独に取り残された。そんな彼女に手を差し伸べたのが、都市に暮らす魔女達であった。生まれつき魔力を持っていたことから、魔法の素質を見込まれてスカウトをされたのだ。まだ幼く、人間社会を生きる術を持たない彼女にとって、その話は願ってもないことであった。だから彼女は、魔女として生きることを決めたのだった。


「私、魔女として相応しい自分になれているのかな?」


 魔女たる者、日々研鑽し、魔女社会のために働くこと。それが、この都市で生きる魔女としての当然のあり方で。


「もちろん、都市の裏側に追いやられた私達が生きていくためには必要なことだって分かってる。実際、魔女社会のおかげで私は生きていられるわけだし、一人だった私を受け入れてくれた唯一の居場所だから。……だから、こうして毎日必死に働いて、魔女に相応しい自分になれるようにたくさん勉強して。でも、そんな日々を繰り返した先に、いったい何があるのかな?」


 憂鬱な毎日。周りの期待と失望に怯える、いつ終わるともしれない息苦しい生活。もう、疲れてしまった。


「私、頑張ったよ。頑張った……つもりだった。でも、それじゃ全然足りなくて。魔女として未熟で、相応しくなくて、みんなが当たり前にこなせることも満足に出来ない私は、この世界で生きるに値しないのかなって。そんなことを考えてたら、どうしようもなく不安になっちゃって……いつからか眠れなくなっちゃったんだ」


 震えた声。絞り出された魔女の言葉に、隣に座った黒猫だけが耳を傾けていた。


「……なんて、意味わかんないか。何言ってるんだろう、私」


 ふと、猫に話しかけているこの状況がおかしくなり、魔女は苦笑する。言葉が分からないのをいいことに、随分とつまらない独り言を吐いてしまった。


「でも、こうして吐き出せただけでも、少し楽になれた気がする。こんな私の独り言に付き合ってくれて、ありがとうね」


 そう言って彼女は立ち上がり、猫の頭を撫でる。


「……それにしても、こうして君と夜の都市を眺めてると、私の悩みなんてちっぽけで、どうでもいいことのように思えるよ」


 遠くに見えるビル群を横目に見やりながら、ぽつりと呟く。けれど、いつまでもこうしているわけにはいかない。たとえ眠れないとしても、少しは家で横になって体を休めなければ、明日にも響いてしまう。


 ――でも、やっぱり少しだけ惹かれてしまう。夜の闇と一つになれたのならば、この苦しみから解放されるのだろうか。


「気楽に生きられる猫が羨ましい」


 魔女は最後にそう零し、塔を下りようと階段の方へと歩き出して――しかし未だに黒猫が展望デッキで佇んでいることに気付いて振り返る。


「どうしたの? 下りないの? そこにいると危ないよ」


 魔女の問いかけに、猫は応えない。こちらを伺ったまま、ぴくりとも動かない黒猫に、魔女はハッする。


「もしかして、心配してくれるの? それなら大丈夫、もう平気だから……」


 そう言って、魔女は最大限の笑みを作って見せる。だが猫はじっと彼女を見つめるばかりだ。まるで心の奥底までを覗き込むような視線。深淵を思わせる瞳からは、底知れない達観や悟りのようなものを感じられて……。


 ふと魔女は思う。

 ……もしも、九つの命を持つ猫が生きることに絶望したのなら、複数の命を持って生まれたことを呪うのだろうか。一つの命しか持たない人間を羨むのだろうか――。


「キャッ!」


 突如として、塔の屋上に強風が吹き付ける。凄まじい勢いの風に、魔女は咄嗟に帽子を押さえ、飛ばされないようにその場で膝をつく。床に手をつき、風の収まりを感じて顔を上げたそのとき――先ほどまで屋上の縁にいた黒猫の体は、塔の外へと投げ出されていた。

 魔女は驚愕に目を見開く。ゆっくりと流れる一瞬、きょとんとした猫と目が合った。まるでふざけているかのように、小さな体は夜の闇へと落ちていく。


 ――魔女の動きは速かった。


 屋上の床を蹴って駆け出し、安全策を越えて塔の外へと身を乗り出す。魔法で呼び出した箒に跨り、落下していく猫を追って急降下しながら、ぐっと手を伸ばす。地上に満ちた夜の闇が、眼前へ急速に迫り来る。猫の小さな肢体が闇に触れるその寸前――魔女は猫の体を抱え込むと、地表すれすれで箒を急浮上させた。


「あ、焦ったぁ……」


 間一髪で猫を助けることに成功して、魔女はほっと息をつく。乱れた呼吸を整え、額の冷や汗を袖で拭った。


「あそこにいると危ないって言ったでしょ! 危うく死んじゃうところだったのよ?」


 抱いている猫に顔を近づけ、しかりつける魔女。だが、塔から落っこちた当事者はケロリとした様子で、暢気に欠伸をしていた。……本当に、肝の据わった子だ。

 これからどう説教してやろうかと考えていた魔女であったが、そんな気も一瞬にして冷めてしまった。彼女は滞空させた箒の上に猫を乗せてやり、再度安堵の息をつく。


「もう……ほんと、バカなことしないで……」


 半ば愚痴るようにそう零したとき、不意に猫は首だけを動かして魔女の方を振り向いた。


「な、何よ?」


 何か言いたげな目で魔女を見上げる猫。意趣返しのようなその視線に、魔女は先ほどまでの自分を思い出す。


「……そうね、バカなのは私だったのかも。ありがとう、黒猫さん」


 たった一つの命をないがしろにする自分に気付かせてくれた猫に、そう呟いたのだった。




 魔女と黒猫は、共に真夜中の空を駆ける。

 眠りについた大都市は、深い静けさに満ちていた。


「……あんがい、綺麗なものね」


 ゆるりと箒を操りながら、都市に張り巡らされた街灯が生み出す、眩い光の道を見下ろす。

 地上からはあれだけ煩わしかった街灯の明かりや、威圧的にそびえ立つビル群さえ、上空から見下ろせば広い都市の一部に過ぎなくて。そんな光景を前にすれば、都市のルールに囚われて生きる必要はないのだと……決められたあり方に縛られる必要はないのだと、そう感じた。


「いっそ、このまま二人で気ままに旅をするってのも、悪くないかもね」


 ……今までは考えもしなかったが、そんな生き方があってもいいのだろう。どうしても耐えられなくなれば、都市を出ることだって出来る。そう思うと、不思議と気が楽になった。


「……でもさ、ここは私にとっての唯一の故郷で、居場所をくれたところでもあるの。魔女社会は厳しいことも多いけど、それ以上に、魔女同士で協力して、この都市で一緒に生きていこうっていう気持ちの繋がりも強くて。だから、私ももうちょっと頑張ってみようかなって思うんだ」


 そんな考えを口にして、魔女は黒猫に向けて微笑んでみせる。

 あれほど逃げ出したかった環境を、このように俯瞰的に見られるようになったのも、猫が心に余裕をくれたからなのかもしれない。魔女としてのあるべき姿に囚われ、追い詰められていた心を優しく和らげてくれた。


「ねぇ、君はこれからどうしたい?」


 魔女の問いかけに、箒の先でちょこんと座っていた猫が首をかしげる。


「君さえよければ、私と使い魔の契約を結んでみる気はない?」


 魔女の突然の提案に、猫は目を丸くして彼女を見上げる。


 使い魔の契約――それは魔女と生き物、双方の同意によって行われる、魔力を介してあらゆる事柄を共有する強い結び。魔女は契約した生き物に対価を払うかわり、使い魔となった生き物は主人である魔女の命に付き従う責務を負うことになる。


「もちろん無理にとは言わないよ。それに契約って言っても、何かをさせたりだとか、そんなつもりはないから。私が望むのは、ただ側にいてくれることだけ。それだけで、三食おやつに昼寝付き。どう? 悪くないでしょう?」


 そう言って、魔女は猫の体を抱き上げる。


「それに……君を一人にしてると、危なっかしくてほっとけないもの」


 イタズラっぽく笑いながら話す彼女に、しかし猫は『お前が言うな』と言わんばかりにふてぶてしく欠伸をして返す。その態度でしばらく魔女をヤキモキさせた後、『仕方ないな』と言わんばかりに、甘えたような鳴き声をあげた。


「よし、契約成立ね! 今日から君は私の使い魔よ!」


 魔女は使い魔となった猫の体を掲げる。


「さてと、使い魔になったからには、君には名前が必要ね。うんと素敵な名前をつけてあげないと」


 頬に手を当て、首を捻り、しばらくうんうんと悩んだ後。


「……決めた! 今日から君の名前はグリマルキン! これからよろしくね!」


 自信満々に名前を叫び、魔女は嬉しそうに笑う。猫の使い魔としてはありがちな名ではあったが、しかしグリマルキンはまんざらでもなさそうに『にゃ~』と鳴いたのだった。


          ※


「――着いた。今日からここが君のお家よ」


 箒に乗って直接マンションの外廊下へと戻った魔女は、自室の玄関を開くと、抱いていたグリマルキンを下ろしてやる。初めて訪れた魔女の部屋に、しかし使い魔は我が物顔で部屋の奥へと歩いて行くと、早速うろうろと室内の探索を始めた。

 そうして部屋を一通り確認し終えると、ベッドの横に置いてあったクッションの上に乗って丸くなってしまった。どうやら気に入ったらしい。


「それ、私のなんだけど……まぁ、いっか」


 ふわふわのクッションの上で気持ちよさそうにしている使い魔の姿に、魔女はほっこりとした笑みを浮かべる。


「いつもは静かで寂しい部屋なのに、なぜだかあったかい……」


 魔女は見慣れた自室を見渡しながら、不思議な感覚にそっと呟く。毎日横になるだけのシングルベッドに、最低限の服や魔法具のみが詰まったタンス。いつもの家具にいつもの壁紙。何一つ変わってはいないはずなのに、今はどうしてか心細さを感じない。その理由はきっと、一人ではないからなのだろう。


「……そろそろ休まないと、また日が昇っちゃうな」


 魔女は部屋でくつろいでいる使い魔に微笑むと、急ぎ足で風呂場へと向かう。手短にシャワーを済ませ、魔法で濡れた髪を乾かして戻ってきたとき、既に彼女の使い魔はクッションの上で呑気に眠りこけていた。

 初めての場所で緊張することなく、安心して過ごしてくれるのは喜ばしいことなのだが、うちに来て早々こうも堂々と熟睡されるのは複雑な心境だった。ぐっすりと眠る使い魔を内心羨ましく思いながら、魔女もまた自分のベッドで横になると、魔法で部屋の明かりを落とした。


「今日は疲れたなぁ……」


 とても長い夜だった。けれど、決して悪いことばかりではなかった。いつものようにベッドに寝転がったまま、悶々と天井を眺めるだけの夜とは大違いだ。

 今日はいつにも増して体はクタクタで、疲れてしまっている。久しぶりにしっかりと眠ることが出来るかもしれない。そんな淡い期待を胸に、魔女はそっと瞼を閉じる。


「……やっぱり眠れない」


 魔女は冴えてしまった目を開く。今日こそはと思ったのだが、やはりどれほど疲れていようと不眠は解消されなかった。


「どうして……どうして眠れないの……」


 魔女は泣きそうになりながら、腕で目元を覆う。明日のためにも、少しでも寝ておきたい。休んでおきたい。そんな焦りが、更に彼女の眠りを妨げる。何も考えないようにしようとすればするほど、頭はどんどん冴えていって、明日への不安が大きくなっていく。日が昇った先に待つであろう憂鬱な光景が、彼女の脳裏を覆った。


「……明日が来なければ、こんな思いもしなくてすむのかな?」


 ふと、そんな考えがどうしようもなく頭によぎってしまう。


『にゃ~ん』

「え?」


 魔女は驚いて、バッと体を起こす。クッションの上で眠っていたはずの使い魔が、いつの間にか側にいた。

 主人の横に体を寄せていた使い魔は、甘えたように鳴きながら、彼女の体に頭をこすりつけてくる。様子がおかしいことに気付いて、心配してくれたのかもしれない。身を寄せて、つぶらな瞳で見つめてくる健気で愛らしい仕草に、先ほどまで焦りや不安でいっぱいだった魔女の心が溶かされていく。


「……そうね。君のためにも、頑張るって決めたんだもの。明日を拒んじゃいけないよね。じゃないと、もう君と一緒に空を飛ぶことも出来ないんだから……」


 使い魔の契約は、魔女と使い魔間においてあらゆる事柄を共有する。それは命も例外ではない。契約を交わした以上、主人である魔女が死ねば、使い魔であるグリマルキンもまた死に至る。よって、グリマルキンの命は、魔女にかかっているといっていい。

 互いに生きることを強制するような強い縛り――それが、今の魔女にとってはむしろありがたかった。そして、こんな自分と契約を交わしてくれたこの子のためなら、どんなに辛い毎日でも頑張っていけると、そう思えた。


「ありがとう、さっそく助けられちゃったみたいね」


 気付けば、胸中を支配していた不安も和らいでいた。魔女は側にいてくれる使い魔へのお礼に、満足するまで体を撫でてあげた後、再びベッドに横になる。すると、グリマルキンはお気に入りのクッションに戻るのではなく、再び魔女の側へと近づいてくると、彼女のお腹の上で丸くなった。


「……重いんですけど」


 魔女の抗議の声に、しかしグリマルキンは聞こえていないのか、聞こえていないふりをしているのか、『ふわぁ』と欠伸をするだけだ。


「もう、仕方ないなぁ」


 どうやら意地でも居座る気らしい使い魔に、魔女は微苦笑を浮かべる。お腹から伝わる感触は柔らかで、とても暖かい。気持ちよさそうに眠る黒猫を見ていると心が安らいだ。

 愛おしい使い魔が側にいてくれる。それだけで、先への不安も恐れも忘れられた。


「……ふわぁ」


 猫から移ったのか、小さくあくびをする魔女。強ばっていた体から力が抜けていく。ゆるやかな睡魔に包まれながら、そっと目を閉じる。

 そして彼女は、夢の中へと落ちていった。




『――人というのは、実におかしなものだ』


 深い寝息をたてて眠る魔女の顔を覗き込みながら、彼女の使い魔は思う。


『一つの命しか持たないくせに、他人や社会のためにと、心も体も縛り付けるようにして生き急ぐ。未来のためにと今をないがしろにするくせに、先への不安に押しつぶされそうになる。何を成すにも、その行いに意味を求めずにはいられない。なぜ、なんのために生きているのかと、つまらないことに思い悩む。生き方など好きに選べばいいというのに』


 猫は、理解しがたいといった様子で首をひねる。


『……けれど、それが人間という生き物らしい。今日の寝床とご飯のことだけを考えていればいい自分とは違うのだろう』


 ――本当に愚かで、面倒で、面白い。


 猫は、飢えに苦しんでいた自分を助けてくれた主人を見つめる。たとえその優しさが自己投影による同情であったとしても、自分を救ってくれた恩人であることに変わりない。道端で震えていた自分に手を差し伸べてくれた彼女は優しくて、けれど危うい。だからこそ、そんな彼女の側にいてあげたいと思った。彼女の生きる意味になってあげようと思った。


『辛いときには、側でごろごろしてあげよう。眠れない夜には添い寝してあげよう。それでも駄目なら、また一緒に夜の都市を飛ぼう……』


 夜泣きする我が子をあやすかのように、黒猫は主人に語りかける。


『辛いときは立ち止まってもいい。生きてさえいれば、明日はやってくる。だから、焦らなくてもいいよ。どんなときでも、ずっと側にいてあげる。なぜなら……』


 自分は、あなたの使い魔なのだから。


          ※


「んん、なにぃ?」


 口元に触れる生暖かい感触に、魔女は気怠げに声を漏らす。重い瞼を開けてみれば、彼女の使い魔が体の上に乗って、主人の口をぺろぺろと舐めていた。


「……おはよう、グリマルキン。もう朝なの?」


 魔女は目元をこすりながら、むくりと上半身を起こす。既に日は昇っているようで、窓から差し込む日光が部屋の中を明るく染め上げていた。

 どうやら、いつの間にか眠っていたらしい。はっきりとしない意識の中、魔女はゆっくりと部屋の中を見回す。そして、壁に掛けられた時計に目を向けて――意識が覚醒すると同時に青ざめた。


「ね、ね、寝過ごしたぁぁぁ!」


 甲高い絶叫が部屋中に響き渡る。慌ててベッドから飛び起きた魔女に、主人の隣で寛いでいたグリマルキンも驚いて飛び上がった。


「どどど、どうしよう……」


 完全に寝坊してしまい、頭を抱えて蹲る。

 そんなとき、彼女は自身の意識に干渉してくる魔力に気付いて、彼女は表情を強ばらせた。どうやら何者かが、魔力を通じて遠隔での会話を可能とする「メッセージ」の魔法を試みているらしい。小型の通信機器が普及している現代において、このような手段を用いる相手など、魔女には予想が付いていた。

 額から滝のように冷や汗が流れてくるが、かといって無視をするわけにもいかない。魔女は覚悟を決めると、相手からの魔法接続を受け入れた。


「あ、やっと繋がった! あんた、今何時だと思ってるの? もう仕事は始まってるわよ!」


 繋がるや否や、怒気を含んだ叱責が飛んでくる。相手は予想通り、先輩の魔女だった。どう考えても穏やかではない様子の先輩に魔女は怯えながら、しかし非は完全に自分にあるため、すぐに謝った。


「す、すみません!」

「もう昼前よ。メッセージの魔法は繋がらないし、いったいどうしたのよ」

「えっと、その……寝坊しちゃって……」

「……あんたが寝坊って珍しいわね」


 魔法越しでも伝わってくる驚いたような反応に、魔女はすみませんと謝ることしか出来なかった。朝から意気消沈となった彼女に、先輩魔女はため息をつく。


「……まぁ、いいわ。あんたの頑張りにはいつも助けられてることだし、今回は大目に見てあげる。遅刻の件は私がなんとかしておいてあげるから、早く準備を済ませてらっしゃい」

「っ! あ、ありがとうございます!」

「お礼はいいから。ほら、早くする!」

「は、はい!」


 メッセージの魔法接続が切れる。同時に、魔女の体から力が抜けた。

 今からこってりと絞られると思っていただけに、魔女はほっと胸を撫で下ろす。いつもなら鬼神の如き恐ろしいお叱りを受けるところだが、今日はやけに優しい。何か裏があるのではと疑ってしまうが、他人にも自分にも厳しい先輩のことだ。些細な気分で態度を変えるような人ではない。普段からキツい物言いの人だが、それも魔女社会や仕事に対する熱意の裏返しなのだと、今だからそう思えた。


「と、いけないいけない。このまま呑気にしていたら、先輩に魔法で黒焦げにされちゃう」


 寝坊の件を見逃してくれたとはいえ、その厚意に甘んじてのんびりしてようものなら、今度こそ先輩の怒りを買ってしまう。そうなれば、魔法を打ち込まれるだけじゃ済まないかもしれない。あの先輩なら、それ以上のことはやりかねない。


 魔女は急いで立ち上がると、魔法でクローゼットから引き寄せたローブに着替える。こんな些細なことに限りある魔力を使うのはどうかと思うが、そのようなことを言っていられる余裕などなかった。忙しなく準備を進め、急いで家から飛びだそうとしたそのとき、背後から聞こえた『にゃ~』という鳴き声に引き止められる。

 慌てて振り返れば、グリマルキンが玄関にちょこんと座って、何かを求めるような視線を主人に向けていた。


「あ、そうだった。ご飯がまだだったね」


 魔女は使い魔に食事を与えることを失念していたことに気付くと、一度部屋に戻って、引き出しの中に常備していた栄養食のバーを取り出す。


「ごめんね、今はこれしかないんだ。次はちゃんとしたご飯を買ってきてあげるから、帰ってくるまでいい子で待っててね」


 そう言っていつぞやの栄養食を食べさせてあげながら、グリマルキンの頭を撫でた。そして、使い魔が食事を終えたことを確認した魔女は、再び玄関に向かい、しかしまたもや後ろから自分を呼ぶ声がして「今度はなに?」と振り返る。

 グリマルキンが何かを咥えて、部屋の奥から歩いてくる。その様子を怪訝な顔で見ていた魔女だったが、ハッとして自分の頭に手を当てた。


「あ、帽子!」


 魔女のトレードマークである三角帽子を忘れていたことに、今更ながらに気が付いた。


「持ってきてくれたの? ありがとう!」


 健気にも忘れ物を届けに来てくれた使い魔を、魔女はギュッと抱きしめる。柔らかな毛並みに触れながら、彼女は自分の使い魔に向けてそっと呟いた。


「そうだね。焦って更に失敗を重ねたりしちゃったら、元も子もないもの」


 不安や焦燥でいっぱいになり、大切な何かを見失いかけている自分に、この子は心の安らぎを与えてくれる。魔女はお礼代わりに使い魔の額にキスをして、そっと立ち上がった。


 この生活を続けた先のことは分からない。だけど、生きてさえいればどうだってなる。それに今は、大切な使い魔が側にいてくれる。気まぐれなこの子のためにも頑張っていこうと、そう思えるのだ。


 魔女は玄関の扉を開くと、留守を任せた使い魔に向けて手を振る。


「じゃあ、行ってくるね!」


 魔女は呪文を詠唱する。魔法で光を屈折させ、たちまち姿を消した彼女は、そのまま箒に乗って空へと飛び上がった。

 主人が出発し、魔法で玄関の鍵が閉まるのを確認したグリマルキンは、のんびりと部屋に戻ってベッドの上に飛び上がる。そして、窓の外をそっと見上げた。



 大都市の昼間は、多くの人々で賑わっている。眩しい日差しが照りつけるなか、晴れ渡った都市の上空では、魔法で姿を隠した魔女が大急ぎで箒を操っていた。

 寝坊による遅れを取り戻そうと必死に空を駆ける彼女はしかし、そこに鬱屈とした表情はなく、その瞳にはかつてはなかった活力に満ちているようであった。それはきっと、彼女を生に突き動かすほどの大切な支えが出来たからなのかもしれない。


「……そうだ、先輩に出発したことを伝えないと」


 魔女はメッセージの魔法を使って、先輩魔女と連絡を取る。


「先輩、今出発しました」

「わかったわ。なら、急いでこっちに来て! と、言いたいところなんだけど……」

「……もしかして、今日は外勤ですか?」

「えぇ、至急の用件よ」


 いつも以上に真剣な先輩の声に、魔女はじっと続きを待つ。


「昨日、魔法動物研究所から動物が逃げ出したらしいのよ。もしも逃げ出した動物が一般人と接触してしまえば、魔女社会どころか都市全体にどのような影響をもたらすか分からない。だから今、私たちが総出で逃げた動物を探しているの」

「それは……随分と骨が折れそうですね。ちなみに、逃げ出した動物というのは?」

「猫よ」

「猫ですか……」


 猫というワードに、魔女は自身の使い魔のことを思い出して首を捻る。いや、そんなまさかね……。


「あんたも知ってると思うけど、猫っていうのは命を経るたびに魔法的な力に目覚めると伝えられているの。そして今回逃げ出したのは八度目の猫。いったいどんな能力を得ていてもおかしくない。研究によれば、九つ目ともなれば人語すら操れるんだとか……」

「人語……喋れるんですか?」

「研究中だから可能性の域を出ないらしいけどね。……ともかく、あんたも捜索に加わってちょうだい。くれぐれも注意して臨むこと。いいわね?」

「分かりました!」


 先輩の指示に魔女は頷くと、捜索を命じられた地区に向けて方向転換する。


 魔女は再び都市の空を駆けていく。その姿を、グリマルキンは部屋の窓からじっと見つめていた。主人の背中を見送り、その姿が見えなくなると、ようやく使い魔はベッドから下りて、お気に入りのクッションで丸くなる。これといって魔女を助けるわけでもなく、呑気に欠伸をしながら。

 自分が何者であるかなど、さして興味はない。使い魔にとっては、どうだっていいことだった。すべてはただあるがままに存在しているだけ。だから、哀れむことも、羨望することもない。今はただ、主人が買ってきてくれる夕食のことが楽しみで仕方がなかった。

 なぜならその者は魔女の使い魔にして、ただの猫にすぎないのだから。

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