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偏差値45からオックスフォード大学に進学した話  作者: 希羽
第二章 ロンドン留学編

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第六十話 初日の味

 ようやく、大学の学生寮の前にたどり着いた。


 石造りの、思ったよりも立派で歴史を感じさせる建物だ。重いスーツケースをごろごろと引きずりながら、自動ドアを抜けて中に入る。


 レセプション(受付)には人の良さそうなおばちゃんが座っていて、事前に送られてきていた入寮許可証とパスポートを見せると、「ようこそ!」と笑顔で迎えてくれた。


 簡単な説明を受けた後、部屋のカードキーと、大学の案内が書かれたパンフレット一式を手渡される。


「あなたのフラットは4階のCよ。エレベーターはそこの角を曲がったところ」

「ありがとうございます」


 英語でお礼を言い、俺は再びスーツケースと格闘しながらエレベーターホールへ向かった。


 指定された階で降り、目の前のドアにカードキーをかざすと、ピッという電子音と共にロックが解除された。


 ドアを開けると、まず共有スペースが目に入った。奥に小さなキッチンがあり、手前にテーブルと椅子がいくつか置かれている。そこから左右に、個室へ続くドアがいくつか並んでいた。


 俺の部屋番号は……一番奥か。


 自分の部屋のドアを開ける。広さは、まあ、日本のビジネスホテルの一室くらいだろうか。ベッドと、壁際に作り付けられたシンプルな机、それから小さなクローゼットがあるだけ。


 窓の外は隣のフラットの壁が見えるだけだけど、そんなことはどうでもいい。


「ここが……俺の部屋か」


 狭いけれど、間違いなく俺だけの空間だ。ロンドンでの生活の拠点。スーツケースを部屋の隅に置き、バックパックを机の上に放り投げると、どっと疲れが押し寄せてきた。


 同時に、これから始まる新生活への期待感で、胸が小さく高鳴るのを感じる。ここをベースに、俺は目標に向かって進んでいくんだ。


 共有スペースのキッチンやバスルームも軽くチェックする。まあ、必要最低限の設備は揃っているようだ。これからここで、顔も知らない他の国の学生たちと共同生活を送るのか。それもまた、楽しみであり、少し不安でもある。


 とにかく、長旅の疲れはピークに達していた。パンフレットを確認すると、大学の入学オリエンテーションは明後日だ。


「よし、今日はもう何も考えずに寝よう」


 時差ボケを解消するためにも、下手に動き回るより早く寝てしまうのが一番だ。俺はシャワーを浴びる気力もなく、着替えだけ済ませると、そのままベッドに倒れ込んだ。慣れない枕の感触も気にならないほど、意識はすぐに深い眠りへと落ちていった。



 ◇◇◇



 翌朝。


 窓から差し込む、まだ柔らかい光で目が覚めた。時計を見ると、思ったより早い時間だ。これも時差ボケの影響だろうか。体はまだ少し重いが、昨日しっかり眠ったおかげで頭はスッキリしている。


 さて、今日はどうするか。昨日確認した通り、大学のオリエンテーションは明日だ。


「よし、今日は生活に必要なモノを買いに行くとしよう」


 食料、調理道具、日用品、家電……揃えなければならないものは意外と多い。昨日レセプションでもらった周辺マップとスマホの地図アプリを頼りに、まずは近くのスーパーマーケットを探すことにした。


 俺は顔を洗い、昨日と同じ服に着替えると、財布とスマホ、エコバッグを小さなリュックに詰め込み、部屋を出た。まだ静かな寮の廊下を抜け、昨日とは違う期待感を胸に、俺はロンドンの街へと足を踏み出した。


 歩き始めてすぐに、空がどんよりと曇り始め、ぽつり、ぽつりと冷たいものが頬に当たり始めた。霧雨のような、細かい雨だ。


 本格的な降りではないが、このまま歩き続けるなら傘が欲しいくらいだ。俺は「あー、折り畳み傘、スーツケースの中だな……」と少し後悔したが、周りを見渡して、自分の感覚が少し違うことに気づいた。


 ほとんど誰も、傘をさしていないのだ。フード付きのジャケットを着ている人はフードを被るが、多くの人は雨などまるで存在しないかのように、濡れるのも構わず平然と歩いている。


「なんでみんな傘ささないんだ……?」


 思わず心の声が漏れる。これがロンドンの日常なのか……? 日本なら、このくらいの雨でも傘をさす人が大半だろう。


 さらに驚いたのは、横断歩道を渡るときだ。信号が赤なのに、左右を確認して車が来ていないと見るや、人々は躊躇なく道を渡っていく。


「信号、赤なのに……危なくないのか……!?」


 もちろん青信号で渡る人もいるが、赤でも平気で渡る人がほとんどだ。


 律儀に信号が変わるのを待っているのは、俺みたいにキョロキョロしている、いかにも「よそ者」っぽい人たちくらいだ。郷に入っては郷に従え、というけれど、車が結構なスピードで走っているのを見ると、これはちょっと真似するのが怖い。


 道の端や、古い建物の軒下には、地面に直接座り込んでいる人や、使い古された寝袋にくるまっている人の姿も、思ったよりも頻繁に目についた。ホームレスの人たちだろうか。


「こんなに普通にいるのか……なんか……見ていいのか悪いのか……」


 東京にももちろんいる。でも、こんな風に白昼堂々、人通りのある場所に当たり前のように存在している光景は、やはり少し衝撃的で、どう反応していいか分からず、目をそらしてしまいそうになる自分に気づく。


 季節は九月。空気はひんやりとしている。


 俺はジャケットを羽織ってちょうど良いくらいなのに、半袖のTシャツ一枚で腕まくりして歩いている屈強そうな男性や、ノースリーブのワンピースにサンダルといった、見ているこっちが凍えそうな格好の女性も結構いる。


「半袖、寒くないのか……? こっちはジャケット着てても肌寒いのに……」


 かと思えば、大きなバックパックを背負い、ガイドブックを片手にキョロキョロしている観光客らしき一団も多い。この街は、本当にあらゆる種類の人々が混在しているんだな、と改めて実感する。


 そんなカルチャーショックの連続に戸惑いながらも、なんとか目的のスーパーマーケットにたどり着いた。


 チェーン店らしく、店内は広く明るいが、やはり日本のスーパーとは陳列も商品も違う。


 とりあえず、シャンプー、ボディソープ、歯ブラシといった洗面用具や、パンと牛乳、シリアル、そして手っ取り早く食べられそうなサンドイッチを一つ、カゴに入れた。


 支払いを済ませ、エコバッグに商品を詰め込んで店を出た後、近くの公園のベンチに腰掛けて、さっき買ったサンドイッチを取り出す。


 確か、「チーズ&オニオン」と書いてあったはずだ。見た目はごく普通。まあ、日本のコンビニのサンドイッチみたいな、あの異常なまでのクオリティは期待していない。腹の足しになれば十分だ、くらいに思っていた。


 しかし、一口かじってみて、俺は予想を遥かに超える衝撃に目を見開いた。


「な、なんだこれ……!? 味、する!?」


 思わず声に出してしまい、慌てて周りを見渡す。パンは驚くほどパサパサで、口の中の水分を全部持っていかれる感じだ。中のチーズに至っては、風味も塩気もほとんど感じられない。もはや食感だけの存在。玉ねぎは……どこにいるんだ?


「なんでこんなに不味いんだ!?!?」


 日本のコンビニやスーパーで売っているサンドイッチの、あの計算され尽くしたしっとり感と具材のバランス、繊細な味付けは、ここではファンタジーなのかもしれない。これが本場イギリス、大手スーパーのスタンダードなのか……?


 あまりの味の無さ、期待とのギャップに、逆にちょっと笑いがこみ上げてきた。


「はは……。カルチャーショックって、こういうベクトルもあるのか……!」


 食文化の違い、というよりは、食に対する根本的な価値観の違いなのかもしれない。これはこれで……面白い。


「……スーパーのサンドイッチは二度と買わないことにしよう」


 食べかけの物体(もはやサンドイッチと呼びたくない)をパッケージに戻しながら、俺はなんだか妙に愉快な気分になっていた。


 不味いのは確かだが、日本とのあまりの違いに、異文化体験としては最高のネタかもしれない。ある意味、忘れられないロンドン初日の味だ。


 俺はそれをリュックの奥にしまい込み(捨てるのも、この経験を忘れるようで勿体無い気がした)、少しだけ世界が広がったような、そんな不思議な気分で再びロンドンの街を歩き始めた。

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