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第五十八話 人生

 隼田さんからのメッセージに返信し、再来週の週末に会う約束を取り付けてから、その日が来るのが待ち遠しくて仕方がなかった。


 そしてついに、約束の当日がやってきた。


 指定されたのは、都心にある少しお洒落なカフェ。約束の時間より少し前に着いて席で待っていると、入り口から一人の男性が入ってきた。


 歳の頃は俺よりいくつか上、二十代半ばくらいだろうか。迷わずこちらに向かってくる。あれが隼田さんだろう。


「柳くん、だよね? はじめまして、隼田です」


「あ、はい! 柳です! はじめまして、今日はありがとうございます!」


 慌てて立ち上がって挨拶する。隼田さんは、なんというか、見るからに高そうなジャケットを着ていて、髪もきっちりセットされている。


 全体的に隙のない感じで、それが少し、プライドが高そうな印象を与えた。正直に言うと、あまり良い第一印象ではなかったかもしれない。少し壁を感じるというか……。


 席に着き、注文を済ませると、隼田さんの方から話し始めた。


「改めまして、隼田です。去年からマンチェスターの大学院に通ってます」


「お忙しい中、時間取っていただいてすみません」


「いやいや、俺も学部時代のこととか思い出して、懐かしくなってるだけだから。気にしないで」


 隼田さんは軽く笑ってそう言ったが、その笑顔もどこか計算されたような気がしてしまう。


「俺さ、実は大学入るまで、全然勉強なんてしてこなかったんだよね」


 え、そうなの?と意外に思っていると、隼田さんは続けた。


「まあ、特にやりたいこともなくてさ。で、親に勧められるがまま、学部の時にロンドン大学に一年間、交換留学に行ったんだ」


「そうだったんですか……」


「そこでさ、たまたま知り合った日本人の正規の学生がいて。そいつがめちゃくちゃ優秀で、刺激受けちゃってさ。話してるうちに、俺もこのままじゃダメだ、もっとちゃんと勉強したいって思うようになって。それで、イギリスの大学院に進学するって決めたんだよね」


 なるほど、交換留学が大きな転機になったのか。でも、やっぱり疑問に思うことがある。


「あの……一つ聞いてもいいですか?」


「うん、何でも」


「イギリスの大学院って、学部からそのまま進学する日本人って、かなり少ないと思うんですけど……その、周りにそういう人がいない中で、不安とかってなかったんですか?」


 俺がそう尋ねると、隼田さんは一瞬きょとんとした顔をして、それから少し面白そうに口角を上げた。そして、予想もしない言葉を口にした。


「柳くんの人生に、誰も興味なんて無いんだよ」


「…………え?」


 突然の言葉に、俺は完全に思考が停止した。ぽかん、と口を開けたまま、隼田さんの顔を見つめる。誰も、興味ない……? どういう意味だ? 俺、何か失礼なこと言ったか……?


 俺の混乱ぶりを見て取ったのか、隼田さんは少しだけ表情を和らげて、言葉を続けた。


「いや、悪い意味じゃないんだ。そうじゃなくて、周りがどう思うかなんて、気にするだけ無駄だってこと。君がイギリスの大学院に行こうが行くまいが、成功しようが失敗しようが、周りの人間は、君が思ってるほど君のことなんて気にしてないし、興味もない。みんな自分の人生で精一杯なんだよ」


「……」


「だから、他人の目とか、世間体とか、そういうのを気にして自分のやりたいことを諦めるなんて、馬鹿げてるだろ? 自分の人生をどう生きるかは、最終的には自分で決めるしかないんだよ。周りがどう思うか、じゃなくて、自分がどうしたいか。それが一番大事なんだ」


 隼田さんは、淡々とした口調でそう言った。さっきまでの少し壁を感じるような雰囲気とは違う、妙にストレートで、核心を突くような言葉だった。


 誰も興味ない。だから、自分で決めろ。


 その言葉が、ずしりと重く、でもどこか liberating(解放的)な響きをもって、俺の胸の中に落ちてきた。


 今まで、心のどこかで周りの目や評価を気にしていた自分に気づかされた気がした。母さんにどう思われるか、友達にどう見られるか、そんなことばかり考えて、一番大事な「自分がどうしたいか」という気持ちに蓋をしていたのかもしれない。


 衝撃的な言葉の後、隼田さんはマンチェスターでの実際の大学院生活について、もう少し具体的に話してくれた。


 授業の進め方、課題の量、現地の学生との交流、苦労したこと、そして、それを乗り越えた経験。


 プライドが高そうに見えた第一印象とは裏腹に、話は率直で、飾らない言葉で語ってくれた。


 俺が気にしていたライティングについても、「最初はみんな苦労するよ。でも、とにかく書くしかない。フィードバックをもらって、書き直して、その繰り返しだ」と、現実的なアドバイスをくれた。


 あっという間に時間は過ぎ、気づけば日が傾き始めていた。


「っと、悪い、もうこんな時間か。そろそろ行かないと」


 隼田さんが腕時計を見て言った。


「いえ、こちらこそ、今日は本当にありがとうございました! めちゃくちゃ参考になりました!」


 俺は慌てて伝票を手に取ろうとしたが、隼田さんは「いいよ、ここは俺が」とスマートにそれを制した。


 カフェを出て、駅までの道を少しだけ一緒に歩く。


「まあ、いろいろ大変なこともあると思うけどさ」


 別れ際、隼田さんは俺に向き直って言った。


「結局、やるかやらないかは柳くん次第だから。周りに流されず、自分で決めて、覚悟決めてやれば、道は開けると思うよ。頑張って」


「……はい! ありがとうございます!」


 俺は深く頭を下げた。


「じゃあ、また何かあったら連絡して」


 そう言って軽く手を挙げ、隼田さんは人混みの中に消えていった。


 一人になった帰り道、俺はさっきまでの会話を頭の中で何度も反芻していた。


「柳くんの人生に、誰も興味なんて無いんだよ」


 あの言葉が、ずっと耳に残っている。


 冷たいようでいて、でも、ものすごく力強いエールのような気もした。そうだ、俺の人生だ。誰に遠慮する必要がある?


 周りの目なんて気にしてどうする。俺がやりたいから、やる。それでいいんだ。


 隼田さんの第一印象は、正直、あまり良くなかった。でも、話し終えた今、その印象は大きく変わっていた。


 彼は、自分の足で立ち、自分の意志で道を切り拓いてきた人の強さを持っている。そして、その経験からくる言葉には、確かな重みがあった。


 大きな刺激と、そして明確な覚悟。それらを胸に抱き、俺は夕暮れの街を、いつもより少しだけ確かな足取りで歩いていた。

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