第五十四話 突破口
二度目のIELTSの結果が出た、その翌週。
リーディング7.0、ライティング6.5……。前回からピクリとも動かなかったスコアが、頭の中でぐるぐると回り続けている。
目の前の専門科目の分厚い教科書に集中しようとしても、気づけば「どうすれば、あの壁を越えられるんだ……」なんて考えてしまっている始末だ。
それでも、なんとか気持ちを切り替えないと。大学院以前に、まずは目の前のGPAが大事なんだから。
「駿、なんかあった?」
予習範囲のページをぼんやり眺めていたら、不意に隣の席の颯太が心配そうに顔を覗き込んできた。
「ん? いや、別に……」
「嘘つけって。なんか上の空だぞ。悩み事か?」
鋭いツッコミに、ため息まじりに白状する。
「……まあ、ちょっと。またIELTS受けたんだけどさ……」
「また? 駿、交換留学の枠、もう決まってるのに?」
そうだった。イギリスの大学院進学を本気で考えてるなんて、まだほとんど誰にも話してない。一番言わなきゃいけない母さんにすら、まだだ。学費のこととか、現実的な問題をクリアにして、ちゃんと母さんからOKをもらってからじゃないと、周りには軽々しく言えないと決めている。
「いや、まあ、力試しに……な?」
我ながら苦しい言い訳だと分かっているが、今はこう言うしかない。
「へえ。それで、どうだった? めちゃくちゃ頑張ってたもんな。大分良いスコア取れたんじゃないのか?」
颯太がニヤリとしながら期待するような目で見てくる。
「まあ、オーバーオールで7.0取れたんだけどさ」
俺がボソッとそう言うと、一瞬の間を置いて、颯太が素っ頓狂な声を上げた。
「は!? IELTS7.0!?」
そのデカい声が、授業開始前でまだ少しざわついていた教室によく響いた。当然、近くにいたクラスメイトたちが一斉にこっちを振り向く。
「え、駿、IELTS7.0取れたの!?」
「マジで!? すごいじゃん! 交換留学行く前からそんなスコア!」
「どうやって勉強したの!? 教えてよ!」
あっという間に、数人のクラスメイトに囲まれていた。特に、このAクラスには今年の秋に行われる交換留学の学内選考を受けるつもりのやつが多い。だから、IELTSの高スコアやその勉強法には、めちゃくちゃ興味があるんだろう。
みんなの質問攻めに、俺は少し困ったように頭を掻いた。
「いや、確かに7.0取れたのは嬉しかったんだけどさ……」
俺は集まってきたみんなを見回して、正直な気持ちを続けた。
「リーディングとライティングのスコアが前回から全然伸びてなくて……正直、今、結構落ち込んでるんだよ……」
俺がそう言うと、質問攻めだったみんなが一瞬、きょとんとした顔で固まった。
沈黙を破ったのは、やはり颯太だった。
「いや、真面目すぎ!!」
「はぁ!? 7.0も取って落ち込むとか、どんだけレベル高いんだよ!」
他のやつらも口々に呆れたように言う。そりゃそうだ。普通に考えれば、文句なしの結果なんだから。
「俺にもいろいろあんだよ……」
俺はわざとらしく肩を落として、ため息混じりに答えるしかなかった。この複雑な心境は、本当の目標を話さない限り、誰にも理解してもらえそうにない。
その時だった。人垣の向こうから、控えめな声が聞こえた。
「ねえ、駿。リーディングの対策なら、良い人を紹介してあげようか?」
声のした方を見ると、少し離れた席に座っていたクラスメイトの花蓮が、俺に話しかけてきていた。
「あ、花蓮……良い人?」
「うん。去年、オーストラリアに一年間交換留学に行ってた先輩がいるんだけどね、その人、TOEFLのリーディングがほぼ満点だったって聞いたことあるから。その人なら、何かコツとか知ってるかもしれないなって思って」
「まじ!?」
思わず身を乗り出していた。TOEFLとIELTSはテスト形式こそ違うが、求められるアカデミックな読解力には共通点も多いはずだ。ほぼ満点の先輩なんて、まさに喉から手が出るほどアドバイスが欲しい存在だ。
「駿には、学内選考の面接のこととか色々と教えてもらったじゃない? だから、そのお礼! その先輩、今は四年生で就活が大変かもしれないけど……とりあえず連絡して、駿のこと話しておくよ」
花蓮は少しはにかみながら、でも力強くそう言ってくれた。
「まじか!! 花蓮!! めちゃくちゃ助かるよ、本当にありがとう!」
さっきまでのどんよりした重い気分が、ふっと軽くなるのを感じた。リーディングの分厚い壁に、小さな突破口が見えたような気がした。落ち込んでばかりもいられない。やれることは、まだあるはずだ。俺は花蓮に力強く頷き返した。