第五十二話 次の目標
二年生に進級してからも、国際部のオフィスに足を運んでいる。
交換留学に行くことが決定したら、留学の準備として、ビザ申請、留学先への書類提出(IELTSのスコアレポート等)、現地での住居探し、保険の申し込み、航空券の予約……やるべきこと、確認すべきことが多くある。
今日も、いくつかの疑問点を確認しようとオフィスに入ると、カウンター近くのテーブル席に見慣れた顔を見つけた。
「こんにちは、珠里さん」
声をかけると、ノートパソコンに向かっていた彼女――小林珠里さんが、ふわりと顔を上げた。
「あ、駿くん! 久しぶり。元気だった?」
柔らかい笑顔が返ってくる。
「はい、お陰様で! 珠里さんも、やっぱり留学の手続きですか?」
「手続きももちろん進めてるけど……」珠里さんは少し楽しそうに目を細め、声を潜めて付け加えた。「実はね、今はここでバイト中なの」
「え、バイト中?」
聞き返した俺に、カウンターの中からひょっこり顔を出した職員の江川さんが応じた。江川さんはいつも親身に相談に乗ってくれる、頼れる存在だ。
「そうなんだよ、小林さん、この春からうちのオフィスで学生バイトとして手伝ってもらってるんだ。柳くんも、よかったらどうかな? 留学経験者や準備中の学生がいてくれると、他の学生へのアドバイスもしやすいし、助かるんだけど」
「バイト、ですか? 具体的にはどんなことをするんですか?」
「うん、基本的には留学生の受け入れサポートとか、これから留学する学生向けの資料整理とか、簡単な事務作業の手伝いがメインだね。時給もまあまあ良いし、授業の空き時間とか、柳くんの都合の良い時間だけでシフト組めるから、結構働きやすいとは思うんだけど、どう?」
江川さんからの思いがけない提案。留学資金はいくらあっても困らないし、国際部の内側を知れるのは魅力かもしれない。
けれど……今の俺には、バイトに時間を割くよりも優先したいことがある。
「なるほど……とてもありがたいお話ですし、魅力的です。でも、すみません、今は英語の勉強とか、他にも集中したいことが色々とありまして……。なので、今回は遠慮しておきます。せっかくお誘いいただいたのに、すみません」
きっぱりと、しかし丁寧に断ると、江川さんは「そっか、残念」と人の良さそうな笑顔で少し肩をすくめた。「まあ、柳くんが今やるべきことに集中するのは良いことだね。もし今後、気が変わったり、時間的に余裕ができたりしたら、いつでも声かけてよ」
隣で珠里さんも、「うんうん、自分の準備が最優先だよね」と優しく頷いてくれている。
「はい! ありがとうございます。その時はよろしくお願いします!」
バイトの話はそこそこに、俺は本題である留学の手続きについて江川さんに質問をした。
疑問点がクリアになり、江川さんと珠里さんに改めて礼を言って、国際部のオフィスを後にする。
外に出ると、空は 高く澄み渡り、春の柔らかい日差しが心地よい。やらなければならないことは、まだ山のようにある。けれど、今日のように一つ一つ確認し、着実に前に進んでいる感覚も確かにある。
俺は歩きながらスマートフォンを取り出し、慣れた手つきでIELTSの公式サイトを開いた。次回の試験日程を確認し、表示された一番近い日程の中から都合の良い日を選び、迷わず申し込みボタンをタップする。
(前回のスコアは6.5だった。次の目標は、7.0だ)
スマートフォンの画面を見つめながら、心の中で強く自分に言い聞かせた。交換留学には行ける。けれど、俺が目指しているのはその先――イギリスへの大学院留学だ。
先日の国際関係論の授業で感じた確かな手応えと、それでもまだ拭えない「本場の議論についていけるのか?」という不安。ネイティブスピーカーと対等に渡り合い、自分の意見をしっかりと主張するためには、もっと、圧倒的な英語力が必要だ。今の自分に満足している暇はない。
(必ず、取ってみせる)
強い決意を新たに、俺は申し込み完了の画面を確かめると、スマートフォンの画面を閉じて、しっかりと前を向いた。




