第五十話 フランス語
春休みに入ってから、二週間が過ぎた――。
俺の毎日は、我ながら真面目すぎるかもしれないが、ある種のルーティンで回っていた。
まず、朝。
目が覚めると、寝ぼけながらトレーニングウェアに着替える。そしてイヤホンを装着し、近所を30分ほど散歩するのが日課だ。
英語のニュースポッドキャストを聴き流したり、ぶつぶつと英語で呟きながら歩くこともある。
軽く汗を流して家に戻り、シャワーを浴びてすっきりしてからが、本格的な勉強時間の開始だ。机に向かい、IELTSのリーディングかライティング、どちらかのセクションに集中して取り組む。これが午前中のメニュー。
午後からは、週に数回入っている塾講師のバイトへ向かう。生徒たちの顔を見ると少しホッとする反面、自分が教える立場として、中途半端な英語力ではいられないというプレッシャーも感じる。
そして夜。
一日の終わりにベッドに入る前には、必ず英単語の暗記タイムを設けている。地道だが、語彙力なくして何も始まらない。
それ以外の、例えば部屋で少し休憩したり、食事をしたりする一人の時間でさえ、無意識のうちにスマホで洋楽を流していたり、パソコンの隅で海外ドラマを再生しっぱなしにしていたりすることが多い。
少しでも多く英語のシャワーを浴びていたいからだ。
ロンドンでの生活、そして桜井先生に言われたことを思うと、一日たりとも無駄にはできないという焦りが常にある。
とはいえ、少しだけ、英語漬けの日々に息苦しさを感じ始めていた。
「……よし、今日くらいは、ちょっと違うことしよう」
机の上に山積みになったIELTSの教材から意識的に視線を外し、ぽつりと呟く。
幸い、今日はバイトもない日だ。一日中、神経を尖らせて英語と向き合うよりも、少し頭を切り替えた方が、かえって効率がいいかもしれない。気分転換が必要だ。
そこでふと思い出したのが、本棚の隅で静かに出番を待っている、第二外国語の教科書たちの存在だった。
「そうだ、フランス語やろう」
なんとなくオシャレな響きと、いつかフランス、特にパリに行ってみたいという単純な憧れで選択した科目。
英語ほどの切迫感はないけれど、だからこそ、今の気分転換にはちょうどいいかもしれない。
俺は椅子から立ち上がり、大学で使っているフランス語の教科書と、そういえば買ったきりほとんど開いていなかった薄い問題集を本棚から引っ張り出した。
「せっかく勉強してるんだし、何か形にしたいよな……。そうだ、仏検。実用フランス語技能検定試験、か」
スマホで軽く検索してみる。留学前に腕試し、なんて言えたら少しは格好がつくかもしれない。
「まあ、腕試しっていうレベルじゃないだろうけど……現状把握にはなるか。とりあえず一番下の5級から見てみようかな」
軽い気持ちで公式サイトにアクセスし、5級から3級のサンプル問題を順に開いてみる。
「Tu as des amis à Paris?(パリに友達がいるの?) うん、これはさすがに余裕だな」
下の級で扱われているような基本的な内容は、大学の一年生で履修したフランス語の授業で、だいたい触れたことがある感じだ。
もちろん、完璧に身についているかは別として、全くの初見ではない。3級あたりから、急に知らないことが増えて難しくなる印象だけど、それでも基礎の部分は大学でやったことと地続きになっている気がする。
そう思うと同時に、このフランス語という言語が、自分が必死に取り組んでいる英語といかに違うか、という点も改めて強く意識させられた。
まず、やっぱり名詞の性。
『le stylo』(ペン・男性名詞)に『la chaise』(椅子・女性名詞)。
「なんでペンが男性で、椅子が女性なんだ……。英語なら冠詞の 'a' や 'the' で済むのに、いちいち性別を覚えなきゃいけない。これは地味に面倒くさいな」
言語が違えばルールも違う。当たり前のことだが、新鮮な感覚だった。
それから、動詞の活用。フランス語の動詞が、主語や時制などよってころころと形を変える複雑さは、英語とは比べ物にならない。
例えば、よく使うらしい 'aller'(行く)。現在形だけで、je vais(私は行く), tu vas(君は行く), il va(彼は行く), nous allons(私たちは行く), vous allez(あなたは/あなた達は行く), ils vont(彼らは行く)……主語によって全部形が違う。
「英語だと、三単現の -s を気をつけるくらいだよな、基本は……。フランス語、動詞活用だけで挫折しそうだ」
思わず、深い溜息が漏れた。英語がいかに(少なくとも動詞活用においては)シンプルなルールで成り立っているかを痛感する。
単語の綴りと発音のズレも、英語とはまた違う種類の複雑さがあるように感じられた。
「3級は……さすがに、ちゃんと勉強しないと無理だな。仏検受けるなら、当面の目標はここか」
でも、と俺は思う。
この、英語とは全く違うルール体系に四苦八苦するのは、それはそれでパズルを解いているような面白さがある。
IELTSのように「できなければ留学先で困る」というプレッシャーがない分、純粋に新しい知識を吸収する楽しさを味わえる気がした。
「よし、決めた。春休みの間、毎日の英語学習の合間に、この仏検3級合格を目標にフランス語も進めてみよう」
俺は机に向かい直し、新しいノートを開くと、まずはあの複雑な動詞の活用から整理し始めることにした。
ペンを握る手に、英語の勉強をしている時とは少し違う種類の、軽やかな意欲が湧いてくるのを感じていた。