第四十八話 覚悟
鳴り響いたチャイムが、大学一年生としての最後の授業の終わりを告げた。
教室には解放感と、近づく春休みへの期待感が入り混じったざわめきが広がる。俺も教科書やノートをカバンにしまいながら、この一年間の目まぐるしい日々をぼんやりと思い返していた。目標を見つけ、がむしゃらに走り抜けた一年だった。
(……そうだ、先生に報告に行こう)
ふと思い立ち、俺は大学の研究棟へと足を向けた。入学当初の面談以来、ほとんど顔を合わせる機会もなかった担任の桜井先生に、近況と、そしてまだ伝えていなかった交換留学決定の報告をするためだ。
もしかしたら、留学に向けて何かアドバイスをもらえるかもしれない、という期待もあった。
先生の研究室の前まで来ると、ドアには「桜井」というシンプルなプレートが掛かっている。深呼吸を一つして、コンコン、とドアをノックした。
「はーい、どうぞー」
中から、以前聞いた時と同じ、少し間の抜けたような、それでいて穏やかな声が聞こえる。俺は「失礼します」と声をかけ、ドアを開けた。
部屋の中では、桜井先生がパソコンの画面に向かっていたが、俺の姿を見ると、「おや」という顔をして、すぐに笑顔になった。
「柳くんじゃないか。久しぶりだね」
幸い、今日はあの衝撃的なピンクのウサギ帽子は被っていなかった。普通の、少し人の良さそうな中年男性、といった風貌だ。
「お久しぶりです。一年、お世話になりました」
「いやいや、こちらこそ。まあ、立ち話もなんだから、どうぞ座って」
促されるまま、俺は先生のデスクの向かいにある椅子に腰掛けた。
「それで、もうすぐ春休みだけど、柳くんにとってこの一年間はどうだったかな?」
先生が穏やかな口調で尋ねてくる。俺は少し居住まいを正し、この一年間の最大の成果を報告することにした。
「はい。えっと、入学してからずっと英語の勉強を頑張ってきまして……TOEFLとかIELTSとか受けて、その結果、今年の秋からロンドン大学に交換留学に行けることになりました」
「おおっ!」
先生は驚いたように目を見開き、そしてすぐに破顔した。
「ロンドン大学! しかも、二年生の秋から行けるなんて滅多にないことですよ。よく頑張ったね、本当におめでとう!」
手放しで祝福してくれる先生の言葉に、俺も素直に嬉しくなり、「ありがとうございます」と頭を下げた。しかし、すぐに現実的な不安も口をついて出る。
「でも……俺、まだ一度も海外に行ったことがなくて。英語力も、もちろんこれからも伸ばしますけど、正直、ちゃんとやっていけるのか、不安も大きいです」
俺の言葉に、先生はゆっくりと頷いた。
「なるほどね……。まあ、初めての海外、初めての留学なら、不安に思うのは当然ですね。ちなみに、柳くんはこの大学での一年間の授業は、どうでしたか? 特に英語の授業とか」
「どうって……そうですね、俺、一応、大学院受験も考えているので、GPAもかなり気にしてて……。だから、どの授業も真剣には受けてたつもりです。特にAクラスの英語の授業は少人数制で、クラスメイトとも仲が良いので、積極的に発言したり、議論に参加したりして、結構楽しんでましたよ」
自分の努力を少しだけ誇るような気持ちで、俺はそう答えた。すると先生は、「それは素晴らしい」と目を細めた。
「うちの大学の授業、特に国際学部は主体的な参加態度も成績に影響するからね。その姿勢は非常に大事だ。評価も良かったんじゃないかな?」
「はい、おかげさまで、今のところは……」
「それは良かった」と先生は頷き、そしてふっと表情を引き締めた。「でもね、柳くん。初めて留学に行くなら、一つ、覚悟しておいた方がいいことがありますよ」
「覚悟、ですか?」
「そう。留学先の授業でね、自分がまったく議論に参加できない、意見を一つも言えずに終わってしまう、という可能性ですよ」
先生の言葉は、予想外に厳しいものだった。俺は驚いて、少し反論するように言いかける。
「えっ……? でも、俺、ランゲージ・エクスチェンジでイギリス人の子と毎週ディスカッションの練習もしてますし、事前にしっかり準備すれば、ある程度は……」
しかし、先生は静かに首を振った。
「うん、その努力は素晴らしいし、決して無駄にはならない。そこは自信を持っていい。けれどね、実際に現地の大学の授業、特にセミナー形式の授業なんかを受けると、おそらく、君が想像している以上に圧倒されると思うよ」
「圧倒……?」
「そう。現地の学生たちの、自己主張の強さ、議論への積極性に」
「自己主張……ですか?」
「うん。特にイギリスのような国ではね、教育の根幹にクリティカル・シンキングやディベートの文化が根付いている。授業中に自分の意見をはっきりと述べ、疑問があれば臆せず質問し、時には相手を論理的に打ち負かすことも厭わない。それが『できる学生』だと評価される文化があるんだ」
先生は続ける。
「一方で、日本で育った我々はどうしても、場の空気を読んだり、相手への配慮を優先したり、あるいは『完璧な意見を言わなければ』と考えすぎて発言を躊躇したりしがちだ。それは日本社会における美徳でもあるけれど、海外の活発な議論の場では、単に『意見がない人』『授業に貢献しない消極的な人』と見なされてしまう可能性があるんだよ」
先生の指摘は、まるで冷水を浴びせられたかのようだった。
「柳くんが、この大学の、比較的同質性の高い日本人学生中心のクラスで、積極的に発言できていたとしても……それがそのまま、多様なバックグラウンドを持つ学生たちが集う、しかもネイティブのスピードで展開される海外の大学の議論の場で通用するとは、残念ながら限らないんだ」
先生の言葉は、静かだが重く響いた。
俺は言葉を失った。英語力だけではない、もっと根本的な文化や姿勢の違い。そこまで考えていなかった。
落ち込んでいる俺を見て、先生はふっと息をつき、少しだけ口元を緩めた。
「まあ、自己主張って言っても、色々あるけどね。例えば……」
先生は自分の頭を軽く叩くような仕草をした。
「例えばだよ、僕が時々、研究室や面談で、あのヘンテコなウサギのぬいぐるみハットを被ったりするのも、あれもある種の自己主張なんだよ」
「えっ……あれが、ですか?」
思わず聞き返す。あの奇抜な帽子にそんな意図があったとは。
「そう。わざとちょっと変わった、目立つ格好をして、『なんだこの先生、面白いやつかも』って、学生に少しでも興味を持ってもらうための、まあ、僕なりのパフォーマンスみたいなものさ。最初に構えさせないためのね」
先生は少し照れたように笑う。
「もちろん、柳くんに留学先であんな帽子を被れって言ってるわけじゃないけどね」
そう言ってから、先生は悪戯っぽく小声で付け加えた。
「……まあ、正直、日本でやったら、ただの変人にしか見えない可能性も高いけど……」
その思わぬ本音と自虐に、俺は張り詰めていた緊張が少し解け、思わず苦笑いしてしまった。
しかし、先生の言いたいことの真意は理解できた気がする。自己主張の方法は様々だが、海外では「自分という人間」を、良くも悪くも、積極的に表現していく姿勢が求められる、ということなのだろう。
壁を作らず、自分から心を開いていくような。
先生は再び表情を引き締め、話を続ける。
「まあ、こればっかりは、実際に行ってみないと分からない部分も大きい。だから、過度に心配しすぎる必要はないかもしれない。でもね、『そういう厳しい現実があるかもしれない』ということは、覚悟として頭の片隅に置いておくといいですよ。ショックも少なくなるだろうし、対策も考えられるかもしれない」
そして、先生は最後に、強い目で俺を見据えて言った。
「そして何より、その厳しい土俵に上がるための最低条件である英語力。これだけは、留学開始までの間、絶対に、絶対にレベルを落とさないこと。むしろ、もっともっと上げ続けること。いいですね?」
その言葉は、厳しい現実を突きつけながらも、同時に俺への期待が込められているようにも感じられた。ショックは大きかった。けれど、落ち込んでいる暇はない。新たな、そしておそらくこれまでで最も手強いであろう壁が見えたのだ。
俺は顔を上げ、先生の目を真っ直ぐに見返した。
「はい……もちろんです……!」
声は、自分でも気づかないうちに、少しだけ震えていたかもしれない。
もうすぐ始まる春休み。それは、単なる休息期間ではない。次なる戦いへの、重要な準備期間になる。俺は心の中で、静かに、そして強く誓った。




