第四十六話 約束
その日の夜。カフェで小林珠里さんと別れた後も、俺の頭の中は昼間の出来事でいっぱいだった。
隼田先輩の彼女が、まさか珠里さんだったなんて。そして、あんなに快く協力してくれるなんて。興奮と感謝の気持ちが交互に押し寄せてくる。
それでも、やるべきことは変わらない。
帰宅した俺は、気持ちを切り替え、いつものように机に向かった。目の前には、IELTSの問題集と、大学の国際関係論の分厚い専門書が積まれている。
(今は、目の前のことに集中だ)
そう自分に言い聞かせ、参考書を開く。
集中し始めると、昼間の喧騒が嘘のように静かな時間が流れた。ペンを走らせる音だけが、部屋に響く。
どれくらい時間が経っただろうか。不意に、机の上に伏せて置いていたスマホが「ピコン」と短い通知音を立て、画面が淡く光った。
普段なら、勉強中は通知を無視するか、後でまとめて確認することが多い。だが、なぜかその音に妙な胸騒ぎを覚え、俺はペンを置き、スマホを手に取った。
ロック画面に表示されたメッセージアプリの通知。そこに表示されていた差出人の名前に、俺は思わず息をのんだ。
「Hiroki Hayata」
間違いない。あの、隼田先輩からだ。
(うそだろ……!? もう連絡来たのか!?)
昼間に珠里さんと話してから、まだ数時間しか経っていない。珠里さんがすぐに連絡してくれたのだろうが、それにしても反応が早すぎる。心臓がドクンと大きく跳ねた。
震える指で通知をタップし、メッセージを開く。
『はじめまして、隼田弘樹です。小林珠里さんからお話は伺いました。柳駿さんですね』
丁寧な自己紹介から始まるメッセージ。やはり珠里さんが繋いでくれたようだ。
『大学院進学の件で、少しお話ししたいとのことですが、僕でよければぜひ。ただ、あいにく現在はこちら(イギリス)も学期中で少し立て込んでおりまして』
(だよな……忙しいよな、やっぱり……)
『近々日本に一時帰国する予定なのですが、申し訳ありません、短い滞在でして年末年始は既に予定が詰まってしまっている状況です。せっかくご連絡いただいたのに大変恐縮なのですが……』
(ダメか……)
メッセージを読み進めながら、さっきまでの高揚感が急速にしぼんでいくのを感じた。年始に会えるかも、と期待していただけに、落胆は小さくない。やっぱり、そんなに甘くはないか……。仕方ない、と諦めかけた時、メッセージはまだ続いていた。
『もし柳さんのご都合さえよろしければ、次の夏の帰国時、おそらく7月頃になるかと思いますが、その時にお会いするのはどうでしょうか? 少し先になってしまいますが』
(夏……7月か)
すぐに会えるわけではなかった。けれど、完全に断られたわけじゃない。半年以上も先にはなるが、それでも会って話す機会を先輩の方から提案してくれている。その事実に、しぼみかけた期待が再びゆっくりと熱を帯び始めた。
(半年後……でも、会えるんだ!)
忙しい中で、わざわざ先の予定を気遣ってくれる先輩の誠実さに、感謝の気持ちが湧いてくる。それに、考えようによっては、これはチャンスかもしれない。
今の俺が会うよりも、半年間みっちり準備して、もっと成長した姿で会った方が、より深く、有意義な話ができるはずだ。
俺は気持ちを切り替え、すぐに返信画面を開いた。
『隼田先輩、はじめまして。ご連絡いただき、誠にありがとうございます。国際学部一年の柳駿と申します。お忙しい中、ご丁寧にご返信くださり恐縮です。年末年始の件、承知いたしました。とんでもないです、お忙しいのは当然のことと思います。そして、夏の帰国時に時間をいただけるとのこと、本当にありがとうございます! ぜひ、お願いしたいです。7月頃、先輩のご都合の良い時に改めてご連絡いただけますと幸いです。それまで、自分なりに準備を進めておきます』
感謝と、半年後の約束への期待を込めて、丁寧に打ち込み、送信した。
返信を送り終えると、ふぅ、と一つ大きな息をついた。
すぐに会えないのは確かに残念だが、それでも目標ができたことには変わりない。半年後、7月。その日までに、俺はもっと成長する。英語力も、専門知識も、もっと高めてみせる。そう強く決意した。
(大学院のこと、IELTSのこと、留学生活のこと……半年かけて、じっくり聞きたいことを練り上げていこう)
そして、この貴重な機会を作ってくれた張本人へのお礼も忘れてはいけない。俺はすぐに珠里さん宛てのメッセージを開いた。
『珠里さん! こんばんは! 先ほど、隼田先輩から連絡いただきました! 年末年始はお忙しいみたいで直接お会いするのは難しいんですが、なんと夏の帰国後に会っていただけることになりました! 少し先ですが、すごく嬉しいです! 本当に、本当にありがとうございます!!』
感謝のメッセージを送ると、すぐに既読がつき、『そっかー、年始ダメだったかー。残念! でも夏会えるならよかったじゃん! 応援してるよー!』という、いつもの明るい、そして励ましの返信が来て、その優しさにまた心が温かくなった。




