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第四十三話 緊張

 秋学期も半ばに差し掛かった頃――。


 俺は交換留学の手続きに必要な書類について確認するため、今日も大学の国際部オフィスに足を運んでいた。


 ロンドン大学への提出書類やビザ申請に関する案内など、目を通すべき資料は山積みだ。


 カウンターで職員にいくつか質問した後、近くのテーブルで、受け取った書類に目を通した。


「やあ、柳さん、元気にしてる?」


 顔を上げると、そこには見覚えのある中年の男性職員が立っていた。


 以前、留学座談会を案内してくれた人だ。柔和な笑顔を浮かべている。


「あ、こんにちは。はい、元気ですけど……どうかしましたか?」


 突然話しかけられたことに少し驚きながら、俺は答えた。


「ちょっとお願いがあって。今度、また交換留学に興味がある学生向けに座談会を開こうと思ってるんだけど」


「はあ……」


「それで、柳さんにもスピーカーとして参加してもらえないかな、と思って」


「えっ!? 俺、ですか?」


 思わず、素っ頓狂な声が出た。耳を疑う。


「まだ留学に行ってすらいない俺が、ですか?」


「柳さんみたいに大学一年生で難関の英語圏の交換留学に合格するっていうのは、本当に滅多にないから」


 職員は熱心な口調で続ける。


「だから、どうやって勉強して、どうやって準備を進めてきたのか、その経験を話してもらうだけでも、これから留学を目指す学生たちにとって、すごく参考になるし、大きな刺激になると思うんだよね」


「いや、でも、俺なんかが話せることなんて……」


 人前で話すのは元々得意じゃない。


 ましてや、留学経験もない自分が、何を偉そうに語れるというのか。戸惑いと気後れで、言葉が詰まる。


 そんな俺の様子を見て、職員は安心させるように付け加えた。


「ああ、もちろん、柳さん一人に全部話してもらうわけじゃないから、心配しないで。ニューヨークに留学してた三浦くんにも、また来てもらって、実際の留学生活について話してもらう予定だから」


 三浦先輩も一緒、という言葉に、少しだけ安堵感が広がった。


「柳くんにはね、特に、留学を決意してから学内選考に合格するまでの『準備期間』の話を、正直に話してもらえたら嬉しいんだ。きっと、皆が一番聞きたい部分だと思うから」


 自分の経験が、誰かの役に立つかもしれない。そう思うと、断るのも気が引けた。それに、職員の熱意に押された部分もある。


「……わかりました。俺でよければ、やらせていただきます」


 少し迷った末に、俺はそう答えた。


「本当!? いやあ、ありがとう、助かるよ! じゃあ、詳しい日時とか場所は、また後で大学のメールアドレスに送るから、よろしく頼むね」


「はい、分かりました」


 職員は満面の笑みで礼を言うと、他の業務へと戻っていった。


 俺は一人、テーブルに残され、先ほどの書類に目を落とす。 


(……座談会で、話すのか。俺が)


 まだ実感が湧かないまま、どこかフワフワした気持ちで、俺は国際部を後にした。



 ◇◇◇



 そして、数週間後。


 座談会の開催当日を迎えた。指定された教室へ向かう途中、廊下で偶然、一緒にスピーカーを務める三浦先輩と顔を合わせた。


「あ、三浦先輩、こんにちは。今日はよろしくお願いします」


「やあ、柳くん。こちらこそよろしく頼むよ。緊張してる?」


 三浦先輩は、以前と変わらない落ち着いた笑顔で尋ねてきた。


「は、はい……めちゃくちゃ緊張してます」


 正直に答えると、先輩は「はは、大丈夫だよ。俺も最初はそうだったから」と軽く肩を叩いてくれた。そのさりげない励ましに、少しだけ心が和らぐ。


 二人で指定された教室のドアを開けると、予想以上の学生が集まっているのが目に入った。50人ほどが入れる大きさの、普段はゼミなどで使われるような部屋だ。


 席の半分以上、30名ほどの学生たちが、既に静かに座って開始を待っていた。


 前回の座談会とは少し違う、より集中した、真剣な空気が漂っている。皆、ノートやペンを手に、期待のこもった眼差しで前方を向いていた。


「柳さんと三浦さんはここに座ってください」


 国際部の職員――司会進行役でもある――に促され、俺と三浦先輩は教室の前方に用意された椅子に向かう。


 席に着く前から、三浦先輩は既に会場にいた学生数人と気さくに言葉を交わしていた。


 「ニューヨークって、実際どうでした?」「留学中の面白い失敗談とか聞きたいです!」なんて質問に、「はは、結構やらかしたからね。その辺の話もするよ!」と笑って応えている。


 そのリラックスした、フレンドリーな様子は、さすが経験者といったところか。資料を広げるでもなく、完全に自然体だ。


 一方の俺は、自分の席に着くと、集まった学生たちの真剣な視線を一身に感じ、心臓が早鐘を打つのを感じていた。


 手のひらにじっとりと汗が滲み、指先が少し冷たい。隣で学生と談笑している三浦先輩の余裕ぶりが、かえって俺の緊張を増幅させていく。


(やばい……話すこと、ちゃんとまとめられてたっけ……頭が真っ白になりそう……)


 なんで安請け合いしちまったんだ、と今更ながら後悔の念が押し寄せてくる。


 やがて、職員が開始時刻になったことを告げ、場の空気を引き締める。簡単な挨拶と趣旨説明の後、スピーカーの紹介が始まった。


「それではまず、一年間、ニューヨークへ交換留学を経験された、国際学部4年の三浦さんにお話を伺います。三浦さん、よろしくお願いします」


 会場から期待のこもった拍手が起こる。三浦先輩は「はい、どうも」と軽く応え、にこやかに学生たちに向き直った。その堂々とした姿を見ながら、俺は次に自分の番が来ることを考え、ゴクリと唾を飲み込んだ。

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