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第一章 転校生と感染源6

「それなら、逆になにか、鈍村さんにとって生きがいとか、楽しく生きられるような気持ちが強く持てれば、治るかもしれないってこと……?」

「かもな。でもだめだよ。自分が人に災厄を振りまくだけの人間だって、感染が起きるたびに思い知らされる。その記憶がフラッシュバックにどんどん追加されていく。楽しくなんて生きられるわけがない。不登校にも何度もなりかけた。でも、私はそれ以外は心も体も健康なんでね。そんなやつが引きこもっていても、いつまでも未成年でも学生でもいられない。なんとかして、社会の中で生きていくやり方を見つけないと、私は、いつか……」


 鈍村さんが足を止めた。瞬きもなく地面を見つめてから、ちょうど右手の路地の向こうに見える、大通りに目をやる。そこにはたくさんの人が行き交っていた。


「……私は自分が怖いんだ。自分の不安定さが怖い。このままいつか、自暴自棄になって、この感染症で、……もしかしたら、無差別に、人を、全然、なにも悪くない人たちを」

「鈍村さん」


 鈍村さんの低い声が震えて、ひどく脆そうな響きになる。


「学校で、感染者が一人や二人ならどうにかなる。事情を知っている周りの人たちが押さえれば自殺させないで済むだろう。でも道路で密集してる人たちや、駅のホーム、混み合った店内、そんなところでいきなり何十人もの人にどんどん感染させてしまったら、その全員が、次々に手首を」

「しないよ。鈍村さん、大丈夫。鈍村さんは、そんなことしない」


そう言い切った私のほうを、鈍村さんは震えながら見た。


「怖いんだよ。そんなことは全然したくない。でも、私にはできてしまう。それが、ずっと怖いんだ」


 本当は肩を抱いてあげたかった。手くらい握ってあげたかった。でも彼女にはそれができない。

 もどかしい気持ちで、マフラーの奥の顔を覗き込んだ。

 

「……鈍村さんが、どうして周りがあんなふうでも学校に来るのか、ちょっと分かった気がする。私だったら、ずっと休んじゃうかもしれないな……」

「社会の中にいたいんだ。一人でいるのが好きそうだってよく言われるけど、人が本当に一人でなんて生きていけない」


 その鈍鉄村さんの言葉を聞いて、頭の芯が少し揺れた気がした。

 私がずっと抱えていた、言葉にしてこなかった思いを、言い当てられたように思えた。


「真名月さん、よく学生を終えて働き出すことを、社会人になるっていうけど。学校って、充分社会じゃないか……?」


「それは、分かる」

「だよな。この未成年に甘い社会にいるうちに、私は私の生き方を見つけないといけないんだ。……悪い、取り乱して」


 私は微笑んで、首を横に振った。

 鈍村さんは、赤くなった目で前を見て言う。


「あ。この先、ちょっと曲がったら神保町の古本屋がたくさんある通りだ」

「えっ。近っ。東京って、町と町の間が近い……」


 でも。

 表通りに出る前に、話したいことは話しておかなくては。


「鈍村さん。さっき、手袋外してた時、素手が見えちゃった」

「ああ。自殺念慮でものが考えられなくなると、よく外してしまうんだ。そうか、見たか」


 何本もの、縦と横に走った傷跡。

 濃い肌の色に盛り上がったものもあれば、赤黒く筋になったものも。

 鈍村さんの、生きづらさのかたち。人が触れればうつしてしまうほどの、抱えきれないくらいの苦悩の表出。


「以前に比べれば、深く切らないよう耐えられるようになってきたんだけどな。罪悪感が強ければ強いほど、刃を深く入れてしまう。私は、……痛ければ痛いほど、なんというか――」


 はっとして鈍村さんの顔を見た。

 彼女の目から、涙がぽとぽとと落ちていく。


「――許されるんじゃないかって……私は、許されたくて手首を切ってる……」

「……その気持ちは、ちょっとは理解できるかも」


「そうか? ……近しい人で、似たようなことが?」

「うん。……妹とか、ほかにも」


 鈍村さんが驚いたように私を見た。

 その見開いた目から、新しい涙がこぼれる。


「……そうか……」


 鈍村さんが目を伏せる。足元がふらついたように見えた。

 私はスカートのポケットから、ハンカチを出して差し出した。

 いいよやめとけ、と遠慮されたので、ぐいっと踏み込んで、勝手にまぶたに柔らかい布を押し当てる。


「真名月さん!? だめだ、危ない」


 こすらないように。腫れないように。これ以上傷つけてしまわないように、当てるだけ。

 そう心がけながらほんの一瞬布の先が触れただけで、鈍村さんは私の手からハンカチを取り上げ、「分かった、借りるよ」と言って自分で目に当てた。


「なんともないか? 悪寒みたいなものが走っていないなら、感染していないと思うが。ああ、焦った」

「うん、大丈夫」


 鈍村さんが、私のスカイブルーのハンカチに視線を落とす。雫を吸ったところが濃く変色していた。


「……汚くないか? 人の涙って」

「そんなふうには全然思わない。人のって、鈍村さんのでしょ」


「悪い。洗って返す」

「いいのに」


 涙はすぐに止まったようだった。

 人前で泣いたのは久しぶりだ、と鈍村さんが深呼吸して空を見上げる。

 なら一人ではどのくらい泣いてるんだろう、と思うと胸が苦しくなった。

 そのせいか、とても変なことを、私は口走ってしまった。


「私が、感染したリストカットで死んだら、鈍村さんって割と落ち込む?」


 なんでそんなことを。

 私はあわてて、取り消そうとしたのだけど。


「えっ!? 真名月さんがか!?」鈍村さんは、あごに手を当てて考え始めた。「そうだな、考えたくもないけど……相当落ち込むだろうな。万が一のことでもあれば、私はなんだかもう、無理だと思う」

「う、うわーごめんなさい、変なこと聞いて」


「いいんだ。どうも、私が思うに、思いがけず、少しばかり……」

「うん? 少しばかり、なに?」


 思うに思いがけずだって、変なの。頭の片隅でそんなことを考える。

 鈍村さんは照れたように頭を撫でた。硬質そうな髪が、着物の袖みたいに揺れた。


「少しばかり、仲良くなってしまったんじゃないか、私たちは」

「……なっちゃった、気がするねえ」


 二人して吹き出す。

 路地裏から出ると、神保町の、古本屋がずらりと並ぶ通りに出た。

 まだ日は高く、マフラー姿の鈍村さんは、相変わらず暑そうだった。


「ところで、真名月さんは古本に興味があるのか?」

「え、私? いや、特には」


「なら、こんなところに来てもすることはないか。真名月さんの駅、学校の近くだろ。引き返そう。この辺りにも駅はあるけど、別の路線だし」


 うん、とうなずいた、その時。


「あれ。真名月さんに、……鈍村さん?」


 いきなり名前を呼ばれて振り向くと、そこには一人の男子が立っていた。

 知っている。クラスメイトだ。話したこともある。というか、向こうから話しかけてくれたのだ。でも、名前がすぐに出てこない。

 鈍村さんをちらりと見ると、彼女は彼女で、なすすべもなく固まっている。一学期から同じクラスのはずなのに。


蓮乃(はすの)だよ、蓮乃荘司(そうじ)。ていうか、真名月さんはともかく、鈍村さんにまで覚えてもらってないのか……」


 蓮乃くんが苦笑する。

私は取り繕うようにまくしたてた。


「ご、ごめんっ。あの、私転校してきてからクラスで浮いちゃってるのに、今日も話しかけてくれたよね。親切だなって思ったし、名前も、あの、言われたら思い出したよ!」


 両手を握りこぶしにする私に、蓮乃くんが、そりゃ言われたらねと笑う。

 蓮乃くんの身長は百七十センチ台半ばくらい、猫のようにぱっちりした目はいかにも愛嬌があって、クラスの中でも友達が多いようでよく人に囲まれている。


「それにしても、へえ、真名月さんと鈍村さんってやっぱり仲良いんだ? 一緒に帰ってんの? それとも買い物? 本?」

「ううん、ちょっとおしゃべりしながら歩いてただけ。……やっぱりって?」


 小さく首をかしげる私に、鈍村さんが、半眼で言った。


「クラスのはぐれ者二人、適当に結びついてんだろってことだろう」

「い、いやいやはぐれ者だなんて言ってねえよ!? まあ、真名月さんて昼休みになると姿消しちゃうし、謎があるなとは思ってたけど。で、二人微妙に仲良さげかなって話が出るくらいのことがあったからさ」


 う。

 やっぱり、お昼の放浪癖は噂になりかけてるんだ。


「鈍村さんは、おれらなかなか打ち解けられなくて……ほら、例のあれがあるじゃん?」


 例のあれというのは、リストカット感染のことだろう。

 鈍村さんが当然察して、「そうだ。分かってる。迷惑かけて、悪いと思ってる」とうつむく。


「いや、迷惑なんて思ってないよ。おれは鈍村さんになにもされたことないもん。だから、友達できたんならよかったなって思って」


 そう言われて、マフラーに隠れた鈍村さんの口から、


「友達……?」


 と声が漏れるのが聞こえた。


「え? 違うの?」


 私と鈍村さんを、蓮乃くんが見比べる。


「蓮乃くんから見て、私と鈍村さんは、仲がいいように見える?」

「そりゃ見えるよ。今の二人見て、中悪そうだなって思うやついないと思うけど。そうしてると、鈍村さんが暑そうな服装だなって思うだけで、ほんと一般的なさわやか女子高生の友達って感じ」


「だって」


 傍らに立つ鈍村さんを見る。

 またしても、鈍村さんは固まってしまっていた。


「じゃ、おれは古本屋見て帰るから。またね、二人とも」

「うん、また。蓮乃くん、本好きなんだ?」


「ああ、本っていうか、芥川龍之介が好きなんだ」


 そう言って、蓮乃くんは軽く手を振って歩いて行った。


「……初めて話したけど、蓮田っていいやつだな」

「蓮乃くんね?」と私は突っ込む。


「心なしか、芥川までいい人に見えてくる」

「どういう心の動き? じゃ、行こうか。鈍村さんも私と同じ駅かな」


「いや、私はこの先、もっと歩いて五分くらいのところに家がある」

「え!? そうなの?」


 とうことは、歩いて登校ができるってこと?

 家から電車を乗り継いでくる私には、うらやましい話だったけれど。


「電車、特に混んでいる電車に私が乗ると、大変だからな。徒歩で通えるっていうのが、私の高校選びの最優先事項だったんだ」


 そう言われて、うらやましいなんて思った自分が恥ずかしくなった。


「駅まで一人で戻れそうか?」

「うん、ほぼ一本道だもんね。それじゃ鈍村さん、また明日」


「ああ、また明日」


 私たちは手を振り合って別れた。

 一般的な、普通の、友達同士のように。

 それでいいはずだ。


 鈍村さんの「感染」は、確かに大変だ。

 でもそれを知らない人からは、ちょっと厚着の普通の女の子にしか見えないだろう。

 私なんて、なおさら特徴のない、ただの高校生だ。

 一般的な、さわやかな女子高生。蓮乃くんに言われた言葉を胸中で反芻する。


 全然変わったところのない。さわやかな、女子高生。


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