第一章 転校生と感染源5
極端に私と鈍村さんとの距離が近づいたわけではなかったけれど、それでも彼女の間の空気は、確かに柔らかくなったと思う。
休み時間に目が合うと、鈍村さんは周りからそうとは見えない程度に、目だけで微笑んでくれる。
私のほかに、彼女がそうしている相手はいないと思う。少し特別感があって、なんだか気持ちが上がる。
それはいいのだけど、鈍村さん以外のクラスメイトとは、いまだにあまり打ち解けられずにいた。
特に男子とは、どうしても一定の距離を保っていないと、平静でいられなくなってしまう。
「真名月さんて、千葉の家からここまで通ってんの? 遠くない?」
お昼休みに一人の男子からそう話しかけられただけで、体がこわばるのを自覚した。
「うん、ええと、大丈夫……」
その男子は体格は普通だし、長過ぎないストレートヘアを少しだけ曲げた髪形や明るい表情もごく平和的だったけれど、それでも私の声はつっかえた。
男子は、申し訳なさそうに体を引かせる。
「あれ、おれ怖い?」
「ううん、怖くは、怖いわけじゃ、ないんだけど」
上滑りする言葉を口から出している間に、首から下、制服の下の体が発汗していくのが分かる。
大丈夫、なにをされたわけでもない。悪意を向けられてもいない。ただ話しかけられただけ。ただ、男性だというだけだ。それだけなのだから、問題ない。
そう言い聞かせても、汗と動悸を制御することはできなかった。
私はそそくさと教室を出て、あてもなく廊下を歩き出す。
この、お昼休みの食後の時間を、私はすっかり持て余していた。
授業の間の休み時間は十分間なので、次の授業の準備をしたりトイレに行っていればすぐに終わる。
でもお昼の場合は、昼食という用事を済ませた後に次の授業まで数十分は空く。
教室にいてもいたたまれないし、用もないのに図書室に行くのも気が進まない。そして晴れている日の外はまだ暑い。
そうなると、結局、校内の廊下をゆっくりぐるぐる歩き回ることになる。
一日二日ならともかく、毎日となると奇異の目で見られそうなので、早いところ適当な居場所を見つけてしまいたかった。
こんなにも居心地の悪い時間を、みんなはどうしてなんでもないというふうに過ごせるんだろう。
なんだか自分が、人間としてあって当たり前の部品が欠落した人間のように思えてくる。
いけないいけない、理由もなく自分から沈んでいく必要はない。
この高校は四階建てだった。
制服は学年によって違いがないので、当たり前のような顔をしていれば、二年や三年の棟を歩いていても見とがめられることはない。
特別教室が並んでいる棟では、たまに授業の準備をしている先生とすれ違ったりして、こんな時間にこんなところでなにをしているんだろうと怪訝な顔をされることはある。
教室では、鈍村さん以外の友達――のはずだ――はまだできていない。
というより、教室で孤立している鈍村さんと仲良くしていることや、鈍村さんには近づかないほうがいいというみんなからの忠告を無視する形になっているせいで、私もうっすらとクラス内で敬遠されがちになっている。
それを察してくれているのか、快活な男子がさっきみたいに話しかけてきてくれることがある。
気持ちは嬉しい。いい人たちだと思う。でも、男の子とは、私がだめだ。
考え事をしていると早足になってしまって、すぐに校内を一周してしまうので、努めてゆっくりと歩いた。
そうして、ついでに、一人になりたい時の隠れ場所になりそうなところや、校門以外の学校からの抜け道みたいなものも探しておく。
こんなふうに、なにかあった時に人から逃げたり隠れたりすることばかり考えるようになったのは、悪い癖だとは思うのだけど、最近はもう習慣になっていた。
人間嫌いっていうわけじゃない。
頑張れば、それなりに誰とでもうわべの交流はできるつもりでいる。
でも、誰からも目を留められず、誰からも話しかけられずに生きていけたら、それが最高だなとも思う。
何度か、将来に向けて、人間とほぼ接しないでできる仕事というのはどんなものがあるかネットで調べてみたことがあるけど、いつも結論は、相当極端な仕事しかないというものだった。
そうこうしているうちに、今日も昼休みが終わった。
教室へ戻って、残りの授業を受ける。
時折クラスの何人かが私を見てひそひそと話をしているのは、「あの子毎日、昼休みなにやってんだろ」とでも噂をしているのかもしれない。ごめんなさい、なにもしていないんです。居場所がないだけで。
午後の授業が終わって、やっと放課後がやってきた。
特に部活に入る気はないので、この日もまっすぐに校門へ向かう。
学校の敷地を出ると、すぐに、交通量の多い国道がある。そういえばこの辺りは、駅の近くまで行かないと歩道橋がない。
その国道の歩道に、見慣れたシルエットが立っていた。
九月の日差しはまだまだ強い。それなのに、黒い制服に、マフラーと手袋をつけているせいで一層黒々としたその服装。冬になってほかの生徒がみんな冬服になっても、彼女はたぶんひときわ目立つんじゃないかと思う。
でもよく見ると、鈍村さんは左手の手袋だけは外して、右手に持っていた。彼女の素肌の手を、初めて見た。
その後ろ姿に五メートルくらいまで近づいたところで、鈍村さん、と声をかけようとして、あれと思った。
鈍村さんの目の前には、歩道橋も横断歩道もない。ただ、高速で行き交う車が流れているだけだった。
彼女は、それをじっと見つめている。後ろ姿ではあったけど、ほかになにか見ているものがあるようには思えない。
ふらりと鈍村さんが、歩を進めた。
すでに歩道の際に立っていて、柵の切れ目だったので、小柄な黒いシルエットはそのまま車道に出てしまう。
「鈍村さん!」
私は駆け出した。
ぎくりとしたように鈍村さんの動きが止まって、振り返る。
鼻まで隠したマフラーの上から覗く、彼女の目が見開いていた。それから慌てたように、左右を見回す。
「危ないよ鈍村さん、こっちに――」
そう言って手を差し出した時。
「触るな!」
一喝する声に、私の手が引っ込んだ。
鈍村さんが振り払うように上げた右手の先が、その私の指先をかすめる。
その勢いで、鈍村さんが持っていた黒い手袋が道路に落ちた。かすったのはこれだったらしい。
私はそれを拾いながら、ゆっくりと言った。
「分かった、触らない。触らないから、こっちに来て」
鈍村さんは、少しふらつきながらも、歩道に戻った。周りから何事かという声が上がっていたけれど、なんでもないんですと頭を下げたら、すぐにみんな通り過ぎて行った。
「……悪い。助かった。暑いせいもあって、少しぼうっとして、油断した。くそっ」
「油断? なにに?」
鈍村さんが、上目遣いに私を見た。
「……真名月さんは、私のリストカットの伝染のこと、どこまで聞いてるんだ?」
「どこまでって……最初に、星野さんや鈍村さんに聞いて、それっきり」
「……この後時間あるか? 少し歩こうか。ここをまっすぐ行くと、神保町まで行ってしまうが」
「あ、あの本屋さんがたくさんあるっていうところ? 行ってみたい」
私の言葉を聞いて、鈍村さんが苦笑した。のんきなやつだ、と思われたかもしれない。あるいは、弾むように出した明るい声が、わざとらし過ぎたのかもしれない。
■
「私のリストカットの伝染には、いくつかの傾向というか、ルールみたいなものがある」
「ルール? 風邪を引いてる時に咳をすると前の人にうつる、みたいな?」
そんな感じだ、と鈍村さんがうなずいた。
私たちは、高校からすぐ近くの駅を通り過ぎて、国道から一本裏に入った道を歩いていた。
表通りから十数メートルかしか離れていないのに、道が一本違うだけで、人通りは表よりずっと少ない。
どこかのお店で座って話すよりも、このほうが人に聞かれにくいかもしれない。
「私に触れると、自殺念慮――リストカットの衝動が襲ってくるっていうのはこの前言った通り。人によってはすぐその場でだったり、あるいは夜になってからってこともあるけど、とにかく当日中にはなる」
「うん」
「具体的な症状としては、うつされた人の、今まで生きてきた中でのつらい記憶が強くフラッシュバックする。それが何度も何度も繰り返し頭の中で明滅して、ほかのことが考えられなくなる」
歩く足のリズムに合わせて、鈍村さんの言葉はよどみなく続けられる。
まるで、もう何度も頭の中で繰り返してきた言葉を、録音してそのまま流しているように。
「感染者たちの話で聞けた範囲では、『死にたい』っていうより、『そのつらさから逃げたい』っていう気持ちになるらしい。で、逃げ道のドアを開けるような感覚で、手近にある刃物で手首を切る。これがリストカット伝染の、基本的な流れ。あと、私の体に触れると感染が起きて、服越しなら少しは弱まる……っていうのは前に言ったか」
「うん、聞いた。なのにごめんなさい、今日はとっさで」
鈍村さんは、なんだか私たちって謝り合ってばっかりいるなあ、と顔をしかめた。
「リストカットの衝動は何度も繰り返し襲ってくるけど、一度目が特に強いものの、徐々に弱まっていく。だから最初だけ刃物に手が届かないところに自分を縛りつけるとか、自分より力の強い人に傍にいて止めてもらえば、基本的には乗り切れる」
「うん。亡くなった人はいない、っていうのも聞いた」
「そう、そこは大事なところなんだよ、真名月さん。よろしくな」
鈍村さんが笑った。
今まで見たいな苦笑や微笑じゃなくて、マフラーの端から覗いた口も、少し険しめな目も、はっきりと笑顔を作った。
それを見たら、どくんと胸の内側で音がした。
「つまり私がうつすリストカットが起こしてるのは、どうやら、人生を終わりにしたいんじゃなくて、楽に生きられる道に逃げ込みたくなるような衝動なんだ。生きたいためにとる行動が、死につながってる。変だよな、まったく」
足元を野良猫がすり抜けていった。
気ままな調子で、一つ向こうの辻で曲がり、すぐに姿を消してしまう。
それを目で追った私に、鈍村さんが訊いてくる。
「真名月さんは、猫が好きか? 私から動物には伝染しないから、安心してくれ」
「うーん。猫っていうか、どっちかというと、こういう裏路地みたいなところが好きかも。だから自由に行き来しているっぽい猫が、羨ましいのかな」
「裏路地が好き……? ずいぶん、渋い趣味だな」
「え、うん。追いかけられてもまけそうだし、隠れる場所も多そうだし、落ち着くよね」
私は明るい話題として口に出したつもりだったのだけど、なぜか鈍村さんは引いていた。
「真名月さんは、常になにかに追われて生きてるのか……?」
「あ、違う違う、気分的に」
鈍村さんが吹き出した。やっぱり、普段無表情なだけに、こういうふとした時の破顔に目を引かれてしまう。
それはそれとして。
私は、前から気になっていたことを訊いてみることにした。
「鈍村さん。鈍村さんもほかのみんなも、鈍村さんのそれを、伝染とか感染って言うじゃない?」
「ああ、そうだな?」
「それは、鈍村さんから、周りに、自殺念慮――リストカットがうつっていくからだよね?」
「そういうことだ」
一度喉を鳴らしてから、言う。
「じゃあ、その大もとである鈍村さんは、どんな状態なの……? つまり、精神的に」
それまでほぐれていた鈍村さんの顔が、急に引き締まった。
そして、少し迷うそぶりを見せてから、話し出す。
「……私か。そうだな。死にたいよ。いつも死にたい。私が、人に手首を切らせる感染源なんだ。周りを怯えさせて、学校生活に支障をきたさせて、申し訳なくて、まともに眠れないし、いつも頭が痛くて気持ちが悪い。フラッシュバックだけじゃなく、登校するだけで新鮮な罪悪感と希死念慮がやってきて、楽になりたくて、毎日、死に方ばかり考えてる。つぶれそうだ」
相槌も打てずに、私はただ聞き入る。
「私が死にたがらなくなれば、きっとすべては解決するんだろう。病原菌の源が消えるようなものだろうから。でも、だめなんだよ。嫌なことばかり、二度と思い出したくないようなつらい思い出ばかり、毎日毎日頭の中で弾けてる」
鈍村さんが、右手で顔を覆った。くぐもった声はなおも続く。
「人から見れば――いや、口に出したり、書き出してみれば、自分でだって大したことないと思う些細な苦しみでも、フラッシュバックの時には致命的な絶望に思える。それが全然忘れられずに積み重なっていく。感染源になってから、私の脳が思い出すのは嫌なことばかりだ。今まで生きていてそれしかなかったみたいに。こんなにつらいことからは、逃げたくてたまらない。楽になりたい。だから油断すると、……自失して、さっきみたいなことになるんだ」
あの、ふらふらと車の前に飛び出そうとした時。
油断って、そういうことだったんだ。




