第一章 転校生と感染源4
「真名月さん」
「ごめん、私、……次の授業、だめかも。先生に……」
「真名月さん、悪かった。本当に、私が無神経に言い過ぎた」
違う、鈍村さんは悪くない。
私がいけない。恥ずかしい私がいけない。
私は、みんなと同じ教室には入れない。
私は、汚い。汚くて、恥ずかしい。
くるりときびすを返す。
どこに行こうというんだろう。
分からない。でも、今いるべき場所はここじゃない。
「真名月さん!」
はっとして振り返った。鈍村さんのそんな大きい声を、初めて聞いた。
鈍村さんの向こうにいた、音楽室に入りかけの生徒たちが、なにごとかとこっちを見ている。
その視線を浴びて、さらに私の体温が上昇した。当校初日は身構えて臨むことができたから、平気だった。今は違う、全然。
鈍村さんは、私に右手を伸ばしかけていた。その手が、すぐに引っ込められる。
私をつかむわけにはいかないからだ。
その悔しそうな顔を見て、分かった。この人は優しい。
今この時放っておけないという人がいても、鈍村さんはその手で触れることができないのに。それでも手を伸ばした。
逃げ出しかけた私の足が止まった。
「……次のさ、音楽」
「え?」
「鈍村さん、さぼらない? 私と一緒に」
こいつは一体なにを言い出したんだ、という顔をして何秒か固まってから。
鈍村さんは、小さくうなずいた。
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「真名月さんて、意外に不良なのか」
「えっ!? そんなことはないはずですが!?」
「授業をさぼるって、なかなか即座に実行できないと思うよ。あとなんで急に敬語だ?」
「それはもちろん、不良じゃないからでしょう」
校門から歩いて五分くらいのところにある、緑色の看板のコンビニで、私はバター味のデニッシュ風の菓子パンを買った。
鈍村さんは、りんごとカスタードクリームが入ったパイ。
お店の外にあるベンチで――店内にもイートインがあったけど、さすがに真昼間に制服姿では店員さんの目が痛い――、私たちは触れ合わないよう距離を空けつつ並んで座り、パンの袋を開けた。
「真名月さんのパン、えらく大きいな。一個でお腹一杯になるんじゃないか」
「私このパンが、菓子パン界の中で一番好き。考えた人、本当に天才だと思う」
「確かにそれはおいしいな。私の菓子パンランキングの中でも、五指に入る」
「え、じゃあこれ買えばよかったのに」
「二人並んで同じパンを食べてたら、まるで仲良しみたいじゃないか」
そう言って鈍村さんは、アップルクリームパイの端に噛みつく。
その無表情な横顔を見ていたら、なんだか、私のデニッシュをちぎって、無理矢理にでも鈍村さんの口に押し込んでやりたい衝動にかられた。
「真名月さん、これ食べたら帰ろうか。一時限、それも音楽なら、すぐに戻れば大ごとにはならないだろう」
「その扱いは、音楽の授業を軽んじてるんじゃない?」
鈍村さんがかぶりを振る。
「学校というのはそう考えるんじゃないか、っていうだけだ。ちゃんと学べば、音楽の授業って、主要五教科と同じくらい面白くて役に立ちそうなのにな」
「え、体育とかもそう思う?」
そこでしばらく、鈍村さんは黙った。パイを食べる口も止めている。
つまらない話をしてしまったかなと思っていたら、やがて、苦々しい顔で鈍村さんが答えてきた。
「教科の差別はよくないが……体育は私にとっては面白くもないし、役にも立たないんじゃないかって気はする」
「それは、ちょっと共感できるなあ。苦手だからこそやんなきゃ、っていつも体育の前は自分を奮い立たせてるから」
「教師からしたら、私は子供らしくなくてかわいくない生徒なんだろうな。理系の子は評価されて、文系の子は安心されて、文科系の子はかわいがられて、体育嫌いの子はちょっと下に見られるのが学校の常だからな」
「それは偏見が過ぎるんじゃ……」
切なげな顔になった鈍村さんに、一応突っ込む。
「今日までの学生生活では、常にそうだったよ。これからは違うといいな。ごちそうさま」
唐突にごちそうさまと言われたので鈍村さんの手元を見ると、いつの間にか、パイが消えて包装のビニールだけになっている。
「早っ!? いつの間に!?」
「そんなに大きいパンを選ぶからだ」
半眼になって私のほうを見る鈍村さん。私のパンは、まだ半分以上残っている。
「ゆっくり食べな。それまで、一人で帰ったりしないよ」
「うん……」
私は、パンを残りの半分くらいまでビニールから出して、そこでちぎった。
ビニールの中に残ったほうを、鈍村さんに差し出す。
軽く目を見開いた鈍村さんは、私の手に触れないようにしながら、パンを受け取った。そして、まろび出させた先端をかじる。
「むう。おいしい。バターの香りが最高。さすが、私のベストスリーランクインパンだ」
「五指より絞られたね」
「真名月さん。さっきは、本当にごめんな」
「……ううん、鈍村さんは全然悪くないよ。私が、……自分の嫌いなところが、ちょっと多いだけ」
月の空は高い。
八月よりも乾いていて、十月よりも澄んでいる。
黒いマフラー姿の鈍村さんの姿は、そのあまりにも明るい青空の下で、異質ではあった。
でも、細かいパイの屑が散ったマフラーをはたはたとはたいているところは、妙に現実感があって、微笑ましくなる。
彼女は汗をかきにくい体質なのか、顔の肌はさらりとしていた。その薄い唇が動いて、ぽつりとつぶやく。
「生きるって大変だよな」
「うん。小さいころ思ってたよりもね」
「だから、真名月さんは私には絶対に触らないでくれ。特に素肌はだめだ。仲良くなった子に手首を切らせたら、私だって耐えられない」
「……うん。分かった」
くしゃ、ぴし、とビニールを折ってたたむ音が聞こえた。
まさかと思って鈍村さんの手元を見ると、渡したパンが消えてビニールだけになっている。
「ふー。ごちそうさま」
「は、早あっ!? いつ噛んでるの!?」
「ま、ゆっくり食べるがいい」
心なしか自慢げな顔を浮かべて、鈍村さんがベンチにもたれる。
甘いパンを食べてのどが渇いた。
なにか飲み物を買って学校に戻ろう。
鈍村さんと同じものを買うのもいいかもしれない。違うものを買って分け合うのもいいかもしれない。私たちはもう、仲がよくなった。
「……真名月さん。なにをにやけてるんだ」
「別に。ただ、楽しいことを考えてただけ」
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