第一章 転校生と感染源3
私は、自分の左手に目をやった。
妹とおそろいの、薄いオレンジ色のリストバンドは、左手首だけにしている。
別の女子が、
「ちょっと、星野」
ととがめるような声を出したけど、私は構わずに、リストバンドの手首の内側部分をつまんで持ち上げた。
一瞬みんなが息をのんだ。でもすぐに、ほおとため息が漏れだす。
布地の下には多少のしわと、凹凸なくのっぺりとして見える皮膚が覗いているだけだった。私は、めくった布地を元に戻した。
「見ての通り、なにもないよ。私のリストバンドは妹とおそろいにしてる、ただの趣味」
星野さんが、ぱんと手を合わせた。
「ごっめん、真名月さん。もしリスカ経験者だったら、よけいに気をつけなきゃいけないと思って。だってもしそうだとさ――」
いつまでもこの話題を続けずに、この辺りで打ち切ったほうがいいなと思った私は、星野さんが話している途中で割り込んだ。
「うん、ありがとう星野さん。鈍村さんも、これからよろしく……」
そう言いかけた私の視線は、鈍村さんにくぎづけになった。
鈍村さんは、マフラーで口元を隠したまま、まっすぐに私を見ていた。私の、左手首を。
「……ああ。よろしく、真名月さん。そして絶対に私に触らないでくれ。まだ私に触って死んだ人はいないけど、あなたも最初の一人になりたくはないだろう?」
■
それから数日。
九月の日々は、流れるように過ぎていく。
クラスの人たちはみんないい人で、特にいさかいが起きることもなく、毎日が平和に過ぎていった。
私に声をかける人は、目に見えて減っていった。
話しかけられれば会話はする。相槌は打つ。でも、自分からは話しかけないし、特に内容のある話はできない。
だんだんとみんな、気がついていく。こいつといてもつまらない、ということに。
少しずつ教室の中で背中を向けられていく感覚はつらくないわけではないけれど、今はあまり仲のいい人友達を作って、その人と過ごすことに時間を取られるのはちょっとよろしくない。
一緒にカフェに行ったり、買い物をしたり映画を見に行ったり。友達ができればきっとそういうことをするだろう。放課後や休日の時間を、そうしたことに費やすわけには、今はいかない。
だから、部活にも入らず、クラスの中で特別に仲のいい人もいない今の状況は、私にとっては都合がよかった。
「真名月さん、次移動教室だよ」
星野さんは、今でもそのくらいは私に声をかけてくれる。でも机を並べてお弁当を食べたり、時間を合わせて一緒に下校するようなことはしない。
私のような寂しい転校生に親切にしてあげているということで、クラスの中での星野さんの評判が上がっているらしい。よかった、と思う。親切な人には報われて欲しい。
その一方で。
「鈍村さん、移動だって。行こう」
隣の席で薄い雑誌を読んでいた鈍村さんに、私がそう声をかけると、周りは少しだけ静かになる。
鈍村さんはほんの数ミリだけ会釈して、本を閉じると、なにも言わずに立ち上がった。
ふと見えたタイトルからして、雑誌はサッカーの記事を主に載せているスポーツ関係の本らしかった。勝手ながら、少し意外な感じがする。
あれから、少しは鈍村さんにについて知ることができた。
フルネームは鈍村鉄子。
中学からの持ち上がりではなくて、高校受験でこの学校に入ったこと。
つまり今年の四月からここに通っているわけだけど、一学期の始業式後の自己紹介で、例の現象――リストカットの伝染について自ら説明し、自分には触らないようクラスの全員に注意したこと。
鈍村さんはその伝染を、「接触によってうつる病気」と同じものだとしてとらえていること。
それを信じずにわざと鈍村さんに接触した生徒が、|一人残らずその日のうちに手首を切った<・・・・・・・・・・・・・・・・・・>こと。
そして、私以上にクラスの中で孤独だということ。
寂しそうだから構ってあげよう、なんて考えているわけではない。
ただ、彼女を見ていると、なぜかつい声をかけてしまう。
鈍村さんから私に話しかけてくることはほとんどない。
こっちから挨拶しても、会釈以上の反応はしてくれない。
でも、放っておけない。
移動先の教室は、音楽室だった。ゆっくり歩くと、五分くらいかかる。
クラスの全員がぞろぞろと廊下を歩いていたけれど、私と鈍村さんの周りからは、自然と人が減っていく。
私は鈍村さんの隣に並ぶと、触らないように気をつけながら歩いた。
鈍村さんはなにか言いたげに私を見たけど、またぷいと前を向いてしまう。
その時、鈍村さんの黒いマフラーが、廊下の窓から差し込む光を受けて、独特の光沢を見せた。
「あれ、そのマフラーの生地って、ちょっと普通のと違う?」
返事は期待せずに訊いてみる。
けれど意外にも、鈍村さんは答えてくれた。
「……おばあちゃんの手ぬぐいを縫い直してるんだ」
「へえ。手ぬぐいなんだ。いいね、そういうの」
「さすがに普通のマフラーは暑い。だからって、ストールとかスカーフってがらじゃないだろ」
「……がらとかあるの、あれ?」
珍しく会話が成立していた。
だから、私は少し舞い上がっていたのかもしれない。
「鈍村さんと会話できたの、初日以来の気がする」
「無理に私と話す必要はないよ。もっと愛想のいい人がいくらでもいるのに、どうして私なんだ?」
それを言われると困る。
「なんとなく、なんだ。私、自分から話す人ってそんなにいないから、それ以上分からないんだよね」
「真名月さんて、変わってるな」
「え、そうかな。変わってるって、あんまりいい意味じゃないよね?」
「正直言って、いい意味ではない」
率直に言われて、少しショックを受ける。
「ええ、どんなふうに?」
それは、クラスで孤立している鈍村さんに話しかけるなんて変な人だ、というくらいのことだろうと思って軽い気持ちでした質問だった。
でも鈍村さんは、足を止めて、私の目を見つめて言った。
「あくまで、私がそう感じたっていうだけだが」
「うん?」
「周りと必要以上に関わらないようにしてるのに、そのせいで寂しくなって、もっと寂しそうな私に寄ってくる。それが変わってる、って言ってる」
かしゃん、と胸の奥で、ガラスが割れるような音がした。
言われたことのすべてを、すぐに理解して納得できたわけではなかった。
それでも、ほとんど今の私の本質に近い深みの部分を言い当てられたのだと思った。
足が動かなくなった。
体が固まって、でも顔だけがひどく熱い。
恥ずかしい。恥ずかしくて、いたたまれなくてたまらない。
それを見ていた鈍村さんが、目を見開いた。
「……悪い。そんなにこたえるとは思わなかった」
「あ、いやううん……その、私」
音楽室はもう、すぐそこだ。
先に行っていたクラスメイトが、どんどん中に入っていく。
でも私の足は、後ずさりを始めた。




