エピローグ 昼日中の銀の月1
鉄子のお姉さんとおばあさんが入ったお墓は、静かな住宅街の端にあった。
黒いワンピースに黒いオータムコートを羽織って、相変わらず黒ずくめの鉄子は、微妙に歩きにくい玉砂利の上をさらさらと進んでいく。
おばあさんが多臓器不全で亡くなったのは、十一月の最後の水曜日――文化祭の三日後だった。
次の週末、私は鉄子と二人で、お墓参りに来ていた。
お花を供えてお線香をあげ、手を合わせて、でもなにを言っていいのか分からず、鉄子を大切にしますとだけ報告した。
そう言いたくなったのは、お葬式の時に、鉄子からおばあさんのことを聞かされたからだった。
「実は、私のおばあちゃんとはな。感染のことについて、少し前に話していたんだ」
「どんなこと?」
「もし私が、自殺念慮に耐えられなくなりそうだったら、おばあちゃんにうつせってさ。どうせ老い先短いんだから、孫の役に立って死にたいって」
絶句する。
そんな私を見て、鉄子が手のひらを横に振った。
「当然、そんな気は私にはなかったよ。でもおばあちゃんは、認知症が進んでいろいろなことが分からなくなる前に、フラッシュバックでもいいから昔のことを思い出したいってさ。もう病気や事故で亡くなった友達や親戚も多いから、その人たちのことを最期に思い出してから死んでいきたいって。まあ、方便だろう。おばあちゃんなりに、私のことを心配してくれていたんだな」
鉄子が苦笑した。
この日、私は初めて鉄子の両親に会った。
毒気のないごく普通の夫婦、でも少しやつれて見えた。
けれど、鉄子に向ける穏やかな微笑みに、柔らかく体を受け止めてくれる大きな椅子のような安堵感を覚えた。
お墓参りを終えて、二人で近くの喫茶店に入る。
鉄子が私の向かいに座り、コーヒーを注文した。私はミントティにする。
「文化祭って、なかなか楽しいもんだったな。準備が大変な割に、一瞬で終わるんだなとも思ったけど。生徒が作ったお化け屋敷なんて、初めて入った」
「そう? 結構よくやってるよ、たぶんどこの文化祭でも」
鉄子がリストカットの感染源としての機能を失ったという話は、あっという間に校内に広がった。
それだけで劇的に周りとの人間関係が変わったということはなく、相変わらず鉄子は私と二人っきりでしかお昼ご飯を食べないし、私も特に交友範囲が広がることはなかった。
それでも、星野さんや蓮乃くんたちが、鉄子が中学の時に修学旅行も文化祭もろくに参加していないと聞いて、私と鉄子の自由時間を多めにとってくれたので、校内のいろいろな出し物を回った。
土日二日間の祭典を終えた次の月曜日、鉄子は微熱が出たらしい。はしゃぎ過ぎたかな、と言っていた。
その二日後におばあさんが亡くなった。
少し浮かれてるとこれだ、と鉄子が電話で力なくつぶやいた時、お葬式の後、週末一緒にお墓に行きたいとお願いした。
ミントティと、続けてコーヒーが運ばれてきて、鉄子が熱そうに顔をしかめながらカップを傾ける。
「そういえばリツ、なんのアルバイトするんだ?」
「スーパーの品出し。レジは大変そうだから回避した」
「ああ。あれはプレッシャーが凄そうだ。少なくとも私には務まらない。というか私、高校卒業した後まともに仕事とかできるのかな。人づき合いド下手なのに」
「それは、今まではああだったから」
「でもなあ。まあ、高校一年で治ったのは、まだよかったのか。いや、病気がなくても、私って充分社会不適合者だぞ、きっと。就職して一週間とかでドロップアウトしそうだ」
「そんなこと、今から気にしてるの……?」
「ふ。見えるのさ、私には、未来がな。十五年以上も自分を生きてれば、鈍村鉄子がどういう人間かが分かってしまうからな」
そう言う鉄子に、昨日買っておいたサッカー雑誌を、トートバッグから取り出してすいと差し出す。
高校サッカーの特集が載っていた。
「え。なんだよ」
「今日は、これを見せに来たのもあるの」
私が目当てのページを開くと、鉄子が目を見開いた。
そこには、中学の時に鉄子が感染させたと言っていた男子が、注目株として紹介されている何人かの真ん中で、ぎこちない笑顔を浮かべていた。
前にこっそり名前を聞き出しておいて、定期的にネットで検索をしていたのだけど、その中で見つけたSNSで、この雑誌に彼が掲載されているのを知った。
「立派に頑張ってるみたいだよ」
鉄子が、震える指でその顔写真を押さえた。深い吐息が、何度もその口から洩れる。
「参ったな。少し落ち込んでたら、これだ……。いや、でも私が喜ぶわけにはいかないな。彼に、無用の苦労をさせたのは確かなんだから」
「あったことはなくならなくても、生きてると、いいこともあるね。これからもずっとあるよ。その人にも、鉄子にも」
「……本当だな。この間まで、毎日当たり前に手首を切りたくて仕方なかったのが、嘘みたいなんだ。体が軽くて、朝がくるのが全然怖くなくて、……今までよりもずっと、明日は楽しいことがあるって信じられる」
外を冷たい風が吹いて、街路樹を凍えさせていく。
すぐ目の前に何本ものイチョウがあるけれど、もうすぐ枝と幹だけになるだろう。
でも、お店の中は暖かかった。心と体がほころんで、この先きっといいことがあると信じさせてくれる。
つらいことはこれからもいくつもある。でも、鉄子がほっと息をつく居場所を、その外よりも寒くはさせない。
「……リツもそうだといいな」
「えっ、私は前からそうだよ」
「前って、いつだよ」
「いつだったかなあ。忘れちゃった。ははっ」
カップから立ち上る湯気の向こうで、鉄子も笑った。
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さなみは、図書館に通うようになった。
独学での勉強は苦労しているようだけど、中学生用の学習動画なども活用して、高校受験の準備を始めた。
ある日の夕食後、さなみが私の部屋にやってきた。
「お姉ちゃん。あたし、高校デビューするから」
「……それってそんなに前向きに使う言葉だったっけ」
「あたし一人でも生きていけるタイプだけど、お姉ちゃんと鉄子さんみたいな友達も欲しくなっちゃった。高校は中学と違って、自分で選んで受験できるもんね。まずは、自分が行きたいところに行けるように頑張る」
「……うん。いいと思う。応援してる」
さなみの目が、ふっと私の左手首を見た。
それからすぐに、私の目をまっすぐに見つめる。
「見ててね、お姉ちゃん。やっぱり、一人で生きていけるなんて嘘。前に、お姉ちゃんがいてくれてよかったって言ったでしょ。お姉ちゃんにも、あたしがいてよかったって思って欲しいもん」
「お、思ってるよ!? 今までずっと思ってたし、これからもずっと思ってるよ!」
思わず握りこぶしで叫ぶ私に、さなみは、顔を赤らめて部屋に戻った。
変わっていく妹に、目元が熱くなってくる。
でも、無防備に安心してはいけない。きっとまた、さなみが打ちのめされる日は、一生懸命に生きれば生きるほど早くやってくる。
その時、さなみが必要とするものをあげられる私でいなくては。
その時、一度閉まる音がしたさなみの部屋のドアが再び開いて、もう一度私の部屋がノックされた。
「どうしたの?」
「鉄子さんから聞いた。お父さん、鉄子さんの病気がうつって痛い目に遭ったんでしょ? ちょっと胸がすっとした」
いつの間に、連絡先の交換なんて。
ぽかんと口を空ける私に、さなみがにひひと笑い声を残して、また自分の部屋へ戻っていった。
■
お母さんからも、私の知らなかったことを聞かされた。
あの父親による被害者の人たちに、お母さんは今もお詫びをしに行ったり――会えないことがほとんどだけど――、手紙を書いたりしているという。
「ずっと黙っておこうかと思ったんだけど、リツももう高校生だし、内緒にするようなことじゃないかなと思ってね。もういいって言われたらやめにしようかと思ってたんだけど、今のところはまだ受けてくれているの。最初の女の子のほうは、本人じゃなくて親御さんだけど」
「お母さんが、そんなこと。そんなの、あの人が……」
……するとは思えないし、被害者の方も、して欲しがるとは思えない。
「しないでしょう。でも、誰かがすべきことだと思うのよ。正解なんて分からないから、とりあえず、やめろって言われない限りはね」
「でも、あの人のために代わりにやってるみたいなの、面白くないな」
「こっちだって、あんな人の代わりをやってるなんて思ってないわよ。少しでも向こう様の慰みになればっていうのと、……こっちからなかったことにして忘れていくみたいにしてしまうのは、あなたたちのためにならないような気がしたから。だから続けてるの」
加害者側として、親として。できること、やるべきこと。
私が向き合えないでいたことは、たくさんあるんだ。今更ながらに、お母さんともっと話さないといけないな、と思う。
「……私も、行った方がいいのかな」
「それこそ正解が分からないなあ。行かなくていい気もするけど、……そうだね、ゆっくり考えましょう」
どうしたらいいだろう。
私だったらどうだろう。
人の気持ちなんて分からない。自分に置き換えたって分からない。
正解は、後づけでしか判明しないのかもしれない。
人はみんな違う。自分だって変わっていく。
私と鉄子は大きな壁を乗り越えた気がするけど、正しい乗り越え方だったかどうか、その答はいつだって変わり得る。
それが分かったから、私は、追い詰められて手首を切ることはきっともうない。切ろうとする人がいれば止めてやりたい。
それでも私が人を傷つけてしまうことは、いつでもあり得る……
「リツ、今、いろんなこと考えてるでしょう」
「……考えてる。頭から湯気出そう」
「なんだか、大人っぽくなっちゃったね」
「全然子供だよ。その証拠にもうすぐ期末試験だもん……」
うう、と突っ伏す私に、お母さんは笑って、果物がジャムがたっぷり入った甘い紅茶を入れてくれた。
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