第五章 今日までかたちのなかったきみの声4
示し合わせて早めに登校すると、まだ薄暗い中、私は鉄子をひとけのない校舎の陰に引き込んだ。
「どういうこと!?」
「どうもこうも、言葉のままだ。昨夜、久しぶりに両親が帰ってきたんだが、その時、お互いの不注意で私が母親に触れてしまってな。なのに――」
鉄子が右手をひらひらさせる。
「――なのに、伝染が起きなかった。母親は以前私に触った時に感じた、体内に入り込んでくるような寒気が全然ないと言っていた。ためしに父親にも触ってみたが、同じだ。そしてその夜は、二人とも発作どころかぐっすり寝た」
「本当に……?」
「ああ。そう言う私も、少し前から、毎日のフラッシュバックが弱くなっていたんだ。波があるのかと思って楽観視はしていなかったんだが、とうとうなくなった。おかげで、昨夜は私も今までになく安眠できた。ちゃんと眠るって凄いな、日中が快適で仕方ない」
そう言われれば、鉄子の眼もとにいつもうっすらとあったくまが薄くなっている気がする。
「でも、どうして。あ。まさか」
あの後、父親が死んだのではないか、と想像した。
でも、とうにその可能性を考えていたらしい鉄子が「いいや」と首を振る。
「そういうわけでもないようだ。リツのお母さんが連絡をとっていただろう。最初の夜さえ乗り切れば、その後はそうそう死にはしない。それに、私の自殺衝動が、希死念慮ごと薄らいできたのは、少し前からだし」
「なんでなんだろう……」
鉄子が右手の人差し指を立てた。
「確たる答を神様が教えてくれるわけじゃないからな、想像することしかできないが。考えられるうちの一つは、自然治癒。風邪なんかが治るのと同じで、自然に健康体に戻った。うちに伝わる限りの話では、寿命で死ぬまであの病気のままだった人の記録というのはないから、この可能性はそれなりに高い」
「まあ、それはあり得るよね」
鉄子は中指を立ててピースサインを作る。
「二つ。病気が私の中に作り出した自殺念慮が、底をついた」
「……それって、つまり」
「私が発症してから、この手で感染させてしまった人数は、全部で十数人というところだ。ここ一二ヶ月は特に多くて、特にリツには、四度も触れたよな」
「そうだね」
「それが、私が伝染させられる最大の人数――回数だったんじゃないかってことさ。人にうつして、自分の在庫が尽きたから、もううつらなくなった。リツの父親の手をひっぱたいたのが、出がらしの最後の一滴だったのかもな。可能性を並べればきりがないが、私はこれじゃないかと思う」
「もしそうだとしたら、お姉さんとは、別の治り方だったってことかな」
鉄子が手を下ろした。
「いや。姉さんも同じだったかもしれない。最初から、何度人に触れれば病気が終わるのかは、決まっていたのかも。姉さんは優しい人だったから、半分引きこもりみたいになって数年過ごしてた。だから長引いたのかもしれない」
「……もっと人に触れてうつしていれば、もっと早く治ったんじゃないかっていうこと……?」
「ああ。最後に姉さんが恋人に触れた時は、長時間の、しかも複数回の合わせ掛けだった。それで終わったのか……あるいは、あの時の姉さんは自失していて、時々暴れたりしていたから、その後ももしかしたら何人か、やけになって感染させていたかもな。……本当に、可能性を挙げればきりがないけどな」
そうだとしたら。
何人目かに触れた後で、お姉さんは気づくことになる。
自分がリストカットを伝染させることが、もうなくなったことに。
「もし、そうだとしたらだ。姉さんは、相思相愛の人が自分の代わりに亡くなって、そのおかげで治ったことになる。そんな時、人はどうなるんだろう。済んだことだから前向きに生きていこうと思えるものか。それより、恐ろしいくらいの後悔と罪悪感に襲われるんじゃないか。だから、病気による希死念慮とは別の衝動で、首を吊った……」
「鉄子」
「私たちは、姉さんの生きる理由にはなれなかったよ」
「鉄子、可能性だよ。想像でしょ。全然違うかもしれない」
「大切な人が私のせいで死んだ後に、さあもう私は楽になったから未来を生きていきましょうなんて、そんなことはできない。私だったら……私も」
「鉄子!」
くずおれそうになった鉄子の両肩をつかんで、起き上がらせる。
本当に、鉄子の体をしっかり捕まえても、あの嫌な感じが全然しない。
リストバンドの下の傷は、まるでもう消滅したかのように、まったくうずくことはなかった。伝染は終わっていた。
鉄子が微笑む。
「今朝、親が嬉しそうだったよ。私のためを思って、今まで距離を置いていたんだろうから」
「……よかったじゃない」
「ああ。よかったんだよ。そう言える。だから、リツ。死なないでくれてありがとう」
鉄子を抱きしめた。すぐに抱きしめ返される。
前と同じ、細い骨の弱弱しさ。それを包む、頼りなく薄い柔らかさ。
でもそこには確かに、解放の気配があった。
もうあの悪寒はやってこない。代わりに、たゆたうような控えめな温もりだけが伝わってくる。
「いつかは、絶対に終わると信じていたんだ。でも、こんなに早いとは思わなかった。リツが私と出会ってくれたから、……だから、思っていたよりずっと早く、この日がきて、……」
鉄子の髪を撫でた。
硬くて、飾り気がなくて、誰からの見た目も気にしない、中途半端に伸びた髪。
その下で、小さな頭がしゃくり上げた。
「つらかった。毎日死にたがって、それを繰り返して、でも全然慣れなくて、平気にならなかった。もしずっとこのままだったら、なにが楽しくて私は生きているのか、そう思う日がいつかきて、……なんのために生まれてきたのかも、……でも今は、死にたくないよ。全然死にたくない」
鉄子の言葉の最後のほうは涙声にまぎれた。
陽がだんだんと昇ってきた。
校舎を包んでいた朝の薄闇が晴れて、私たちに日なたの温度が与えられていく。




