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第五章 今日までかたちのなかったきみの声3


 晩ご飯を鉄子と外で済ませて家に着くと、先に連絡を入れてあったので、お母さんがリビングに通してお茶を入れてくれた。


「鉄子さん、ごめんなさいね。リツの妹のさなみも紹介したいんだけど、恥ずかしいからって部屋に入っちゃってて」

「いえ、いいんです。また機会もあるでしょうから」


 そう答える鉄子の顔は、いつになくむっつりとしている。


「鉄子、もしかして緊張してる?」

「訊くな。してる」


 それから、悪寒が強まってきたので、鉄子に合図して、二人で私の部屋に入った。

 一人の時と違い、二人で同じ部屋にいるとなると、うっかり鉄子に触れないように気をつけなくてはいけない。手錠をかける手順を再確認していると、鉄子が


「なにか、冷たい飲み物がすぐ手に取れるところにあったほうがいいな」


 と言った。


「あ、ちょうど両手とも手錠はめちゃった」

「そうか、失礼ながら、おばさんに言って私がもらってこよう。コップ一杯分でも、あるとないとで気の持ちようが違う。あんまり飲み過ぎるとトイレに行きたくなるけどな」


 そうだねえ、と笑ったところで、鉄子がドアを開けると、そこにさなみが立っていた。

 トイレに立ったところだったらしい。レモンイエローのパジャマを着ている。

 とっさながら、鉄子が会釈した。

 私はベッドであおむけになりながら、さなみに鉄子を紹介する。


「あ、さなみ、こちらが鈍村鉄子さん、私の同級生だよ」

「初めまして、鈍村鉄子です。今日は泊まらせていただきます」


 鉄子の横で、さなみが一瞬立ち尽くしてから、慌てて頭を下げるのが見えた。


「あっ、えっ、あ、はい。真名月さなみ、です……って――」


 さなみが、廊下から私の部屋の中をちらりと見る。というより、自然な視線の向きから、部屋の中の様子が視界に入ってしまったのだろう。


「――お姉ちゃん……? なにしてるの……?」


 なにって、……

 あ。

 そういえば、さなみの姉は今、両手ともベッドに手錠でつながれている状態だった。


「ああっ!?」と私。

「しまった! くそ、見られたか!」と鉄子。


 さなみが、一歩下がって腰を落とした。

 おびえながらも敵に立ち向かう小動物のように。


「あ、あなた、なんなんですか? お姉ちゃんになにしてるのっ?」


 私はベッドの上でぶんぶん首を横に振りながら、


「違う違う、さなみ、これは違う、全然違うの!」

「大丈夫だよお姉ちゃん。見てないことにしたほうがいいなら、そうする。ただし、この人を、……どうにかしてから、だよね……」


「違ああああう!」


 叫ぶ私に、鉄子が、頭を抱えて天を仰ぎながら言ってきた。


「リツ、妹さんには、全部言ったほうがいいんじゃないか?」


 ここまできたら、それはそうだ。

 さなみには部屋に入ってもらって――私の手錠は鍵を渡してさなみに外してもらった――、一部始終を話した。

 ベッドには私とさなみが座り、鉄子は椅子に座ってドアの傍にいる。


「……本当なんですか……? 触れた相手が、手首を……?」

「本当だ。間違っても私に触れないでくれ」


「……はい、経験者(・・・)は余計に危ないわけですもんね……。だから、お姉ちゃんも……」


 左手首のリストバンドをさすりながらさなみが言う。

 いや。

 今、なんて言われた?


「さなみさんは、気づいていたのか。リツがリストカットしたことを」

「分かりますよ、それは。……なんとなくですけど、そうじゃないかって。でもあたしからそれを言ったら、なんていうか……家の中で追い詰めちゃう気がしたんです、お姉ちゃんを。あたしだったら、あたしが言い出すまで触れないで欲しいから」


 ああ。

 偉い妹だな、この子は。

 私がさなみを助けたいと思っていたのに、さなみのほうはとっくに私を支えてくれていたんだ。


 私はリストバンドを外した。

 すっかり化粧が取れてしまっていて、淡い傷跡が浮かび上がっている。それを見ると背筋がぞわっと冷えた。でも、知れている、そんなものは。


「さなみ、私はこれから何日かを乗り切ればいいだけなんだ。あとは楽になっていくだけだから」

「うん。お姉ちゃんには元気でいて欲しい」


「なに言ってんの、さなみもだよ」

「うん。そうだね。そうだ……」


 さなみがうつむいた。

 そこへ、鉄子が声をかける。


「さなみさん。君、もっとリツと話がしたいんじゃないのか? 今、リツが感染しているから遠慮しているだけで」

「……はい。あたし、引きこもりになってから、頭の中だけで、同じことぐるぐる考えてて……つまり、お父さんのことなんですけど。誰かに聞いて欲しいんです。ネットに吐き出すのは、なんだか危なそうだし。そうすると、お姉ちゃんしかいなくて」


 そんな。そんなの、なんでも言ってくれれば。

 いや。

 言えないんだ。さなみには言えるはずがなかった。

 だって、同じ原因で、姉も手首を切っているんだから。

 はあ、と冷たい息が私の口から漏れて、体が震えた。

 いけない。手首が切りたい。


「リツ。片腕だけでも手錠しておくか」


 私はうなずいて、右手を手錠でベッドにつないだ。


「さなみさん。私のせいで、申し訳ない。でも、回復さえしたら、リツは君の話をなんでも聞いてくれるよ」

「……いいの?」


 こちらを向いて言うさなみに、半身を起こした格好の私は大きくうなずく。


「リツは君の話を聞きたがってる。君の慮り方はとても尊いが、頼られるほうもそれはそれで、強くなれることもあるんだ。私もずっと知らなかったことなんだけどね。感染症が収まれば、これから時間はいくらでもあるだろう」


 私はさらに、こくこくうなずいた。


「……分かった。それじゃ、お姉ちゃん、頑張ってね。鉄子さん、なにかあったら私の部屋に来てくださいね」

「ありがとう。心強いよ」


「あ、でも、これだけは言っときます。私が言いたい、聞いてもらいたいこと、一個だけ」


 唐突にそう言われて、私と鉄子は身構えた。

 さなみは人差し指をびしいと突き出し、


「お姉ちゃん、今日も面会行ってくれてありがとう。でももしあたしの進路とお金のこととか気にしてくれてるんなら、そんなのいいよ。あたし、お父さんにはなにももらいたくないし、できればなにかひどい目に遭って欲しいと思ってるから! お姉ちゃんも同じでしょ?」

「それは……同じだね。え、でもなんでお金のためだって分かったの」


「だってお姉ちゃん、面会の時いっつも憂鬱そうだもん。好きで行くんじゃないんだなって分かるよ。会ってもお小遣いとかもらってる感じでもないし、そんな人が私のためのお金なんてくれないよ」

「……そっかー。す、鋭いなあ」


 私、顔に出やすいんだな。


「だからもし嫌だったら、来月から無理しないでね。……じゃあ!」


 そう言ってからふふんと鼻を鳴らして笑い、部屋に戻っていった。

 私は、それはどうも……とつぶやきながらベッドにぱふんと倒れこんで、天井を見る。

 養育費のことは、お母さんに相談しよう。それどころじゃなくて、少し忘れかけていたけど。

 それはそれとして。


「……鉄子、いいこと言うね。頼られることで強くなるんだ? それ、私と鉄子どっちのこと?」

「さあ、どちらかな。どちらであっても、両方でも、大差ないだろ」


 鉄子が肩をすくめた。

 希死念慮の悪寒は強まっている。

 でも、負ける気がしなかった。

 


 鉄子のお泊りが無事に済んだ、翌日の朝。

 さなみはまだ起きてこず、お母さんが鉄子と少し話をして、朝食を作ってくれた。

 そして、鉄子がうちの事情を知っていることをお母さんに話すと、


「そうなの。実は昨日の夜、あの人からメッセージがきてね。リツに伝えておいたけど、もう籍以外の縁も切るし、養育費も払わないからよろしくって。なにそれって問い詰めようとしたけど、具合が悪いから今話せないっていうのよ。今度ちゃんと捕まえるからね。ところで、一昨日水道橋でリツと一緒にいたっていう女の子が、鉄子ちゃんのこと?」


 あ、はい、そうです、と鉄子がぎくしゃくと答える。


「そう。ありがとうね。これからも、リツと仲良くしてね」


 私たちは並んで家を出た。

 鉄子はうちに泊まる前に今日の授業の準備を済ませてきているので、学校へ直行できる。


「それにしても、昨夜は私の症状があんまり強く出なくてよかった。結構眠れたし」

「本当だな。しかし、なんでなんだろう。四度掛けなんてほとんど聞いたことがないから、そういうものなのか、まだなにかあるのか……」


「怖いこと言わないでよう」


 学校に着くと、いつも通りの日常が始まった。

 星野さんたちに挨拶。始業ぎりぎりに来た蓮乃くんにも挨拶。

 昼休みは鉄子と二人で屋上へ。

 鉄子は、今度はもう油断しないと、私の容体に変化がないかをじっと観察している。


 何事もなく放課後がやってきた。文化祭の作業が追い込みに入っていたけど、私と鉄子は体調不良ということで帰れた。

 鉄子はもう一度泊まろうかと言ってきたけれど、今の様子から見て、それなりに対策して寝ればやり過ごせそうだとも思う。


「本当か? 対策って、どんな?」

「もちろん、両手に手錠だよ」


「……それ、朝になったらどうやって外すんだ? 妹さんを呼ぶとか?」

「ううん、鍵を足の指でつかんで鍵穴に入れて外す。発作があれば、そんな細かい動作できないでしょう。外せたら、治まってる証拠だよ」


 鉄子は「足で……いやまあ、確かに……」と複雑な表情を浮かべつつも、とりあえずこの日はそれぞれの家に帰ることにした。

 なにかあれば連絡だけはすぐにとれるように、スマートフォンの準備は怠らずにおく。


 その日の夜は、症状は出たものの、理性で抑えられる程度だった。

 フラッシュバックは色あせて遠のき、せいぜいうんざりするくらいの悪夢でしかない。

 安眠とは言えないまでも、それなりに眠れた。

 朝目が覚めて、これなら週末の文化祭は普通に出られそうだな、などとぼんやりした頭で考えていたのだけど。

 予定通り足で手錠の鍵を外し(思ったよりも手間取った)、スマートフォンを見たところで、眠気が吹き飛んだ。

 未明に、鉄子からのメッセージが入っていた。

 ただ一言。


「治った」



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