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第五章 今日までかたちのなかったきみの声2


 少しだけ取り戻した思考が、ようやく私を私にした。

 自分のしようとしていることがなんなのか、悟った。

 それは、鉄子を利用して(・・・・・・・)殺人を犯す(・・・・・)ということだ(・・・・・・)。自殺という形であっても、鉄子に人を(・・・・・)殺させるということだ(・・・・・・・・・・)


 そんなことは、鉄子はとっくに承知していただろう。私の懇願を聞いた時に。なのに、実質的に殺人を犯す自分よりも、父親を殺させた後の私のことだけを心配している。私が、父親の死後に自分を責めることを恐れている。


 自殺念慮の霧が束の間晴れて、目が覚めた。

 私を包んでいた、鋭い棘の束でできた繭を、一陣の風が吹き飛ばすように、頭が冴えた。

 両目が深く高い黄昏の空をとらえ、鼻は土のにおいをかぎ、耳は鳥の声を聴いた。

 正気を得て、鉄子、待って、と叫ぼうとする。でも、さるぐつわを噛みしめ続けて疲れ切った顎や、うめき続けたせいで擦り切れそうな喉では、思うように大きな声が出せない。


 鉄子が公園から出て、その後ろ姿が見えなくなる。


 右腕に力を込めた。今までのようなでたらめではなくて、満身の力を込めてまっすぐに思い切り腕を引いた。タオルの上からでも、手首が外れそうな痛みを感じた。構わずに、腕を引き続けた。


 ばきん、と音がした。

 古く腐食しかけていた柵が一本、曲がって外れた。右腕が自由になった。

 さるぐつわをむしり取った。でも、やはり声がかすれて出ない。地面や鉄柵を平手で叩いて合図しても、軽く小さな音が響くだけで、鉄子に届いたとは思えなかった。


 半分起き上がって、今度は地面に足を踏ん張らせて左腕を引く。

 タオルが力を吸収してしまっている気がして、それを外した。

 手錠の金属が直に私の皮膚に食い込んで、これまでとは比べ物にならない痛みが走る。

 食いしばった歯が嫌な音を出し、新たな涙が熱く溢れてぼろぼろと落ちた。


 何度目かに体を思い切り反らせた時、ぼりっ、ごきん、と嫌な音がした。

 今度は、鉄柵の棒は折れていない。

 手錠も損傷していなかった――けれど、なぜか黒い輪は私の手首から外れて、くたりと地面に落ちている。

 左手首に、凄まじい激痛と、喪失感が発生した。

 擦りむけて血まみれの左手を見ると、親指のつけ根が、本来の凹凸を失ってだらりと気味悪く垂れていた。


 構わない。自由の身になったことのほうが大事だ。


 全身の疲労を振り切って、踏み出す。

 道路に出た。駅へ続く道を見る。

 暗く濃い寒色と幾筋かの鮮やかな暖色が入り混じった異様な空の下で、黒い制服姿の女子高生が、スーツ姿の男に近づいていた。男は間違いなく、私の父親だった。

 すぐ脇に、JRの線路がある。なんの変哲もない、日常的な、道路と線路。でもほかに通行人はいない。まるでこの世に、たった三人だけになってしまったように。


 鉄子が手袋を外した。


 叫ぼうとする。でも、声が出ない。

 折悪しく、すぐ横を電車が通った。けたたましい音の中で、私の足音も消されてしまう。


 鉄子と父親が、あと十歩ほどのところで向き合った。

 父親は遠目の私には気づかず、対面の男を避けもせずに向かってくる女子高生に、けげんな顔をしている。

 鉄子は構わずに進む。

 あと五歩。


 私は走り出した。こんなにも自分の足をもどかしいと思ったことはなかった。

 鉄子を止めなくては。大した距離じゃない。追いつける。でも、あんなに父親に接近した鉄子を、体に触れずに、どうやって止める?

 それに、父親が死ななければ、鉄子は治らない。そのチャンスを、みすみす逃していいのか。でももう、鉄子にやらせる気にはなれない。

 ぐるぐると、思考の体を成さない思いつきが頭の中で駆け巡る。すると一度冴えたはずの思考が鈍って、意識が再び暗い淵へ誘導されていく。

 その中で、一つのひらめきを得た。

 そうだ。鉄子を治すために死ぬのは、父親じゃなくてもいい。


 鉄子が、父親の前で足を止める。そして右手を出して、父親の顔へ伸ばした。

 指先が父親の肌に触れようとする瞬間――


 鉄子!


 声にならない声で叫ぶのと同時に、ついに鉄子に追いすがった私の右手は、その左手を後ろからつかんでいた。

 驚いて固まっている鉄子を引き寄せる。父親との距離が離れた。

 泥水を凍らせた棘のような悪寒が皮膚の裏側を侵してくる感覚に耐えて、鉄子を、愛おしさのままに抱きしめる。こうなればもう、構うものか。


「リツ……!? どうして!?」鉄子が私の血まみれの左手を見て、息を吞んだ。「ばかなこと……!」


 絶句している鉄子をよそに、私はスカートのポケットのなかでもこもこと邪魔な手袋を取り出して、父親に投げつけた。


「あいて、なんだリツ。この子知り合い?」

「……返ずと言っだのは、ぞれでず。持っで、帰っで」


 ひどい声だった。それでも、せき込まないように、低く小さい声でかろうじてちゃんとしゃべった。

 体が震えている。寒くなんてないのに。それは私の体ではなく、鉄子の震えだった。


「……リツ。離せ」


 鉄子は痩せている。制服越しに骨を感じる。でも柔らかい。ひな鳥を抱きしめているみたいだった。

 とっさだったけど――私は成長しないな――、間に合ってよかった。


「リツ、分かってるのか。経験者(・・・)の上に、合わせ掛けになるぞ、これは」

鉄子のおののいた声をよそに、父親が、つまらなそうに私の手袋を拾った。


「こんなもののために僕を呼んだのか? 具合が悪いなら帰りなさい。駅に家族を待たせてるんだよ、もう行くぞ」

「……うん。ざよなら」


 父親がきびすを返した。

 きっと、もう会うことはないんだろう。


「待てよ」


 鉄子が私の腕の中から逃れて、父親へ踏み出す。

 そして、素手で、振り向いた父親の手をぱしんと叩いた。


「なんだ? 誰なんだ、君? う、……なんだ、これ。なんか、気持ち悪い?」

「駅にお仲間がいるんだろ? 今日はせいぜい、傍にいてもらいな。一人にならないほうがいいぞ」


 父親は首をひねりながら、ぶつぶつ言って去っていった。

 鉄子が戻ってくる。


「自分から人に触れて伝染させたのは初めてだ。ま、あれくらいいだろ、きっと死にはしないよ。さんざんリツを苦しめて、なんの罰もなしってのもな」


 いたずらっぽく笑う鉄子の目には、涙がにじんでいる。

 私の足元から、覚えのある悪寒が這い上がってきた。


「鉄子。私、鉄子を治しだい」

「聞いたよ。知ってる。でも、これはだめだ」


 だめ? どうして。

 喉が痛くてせき込む。


「死なないで。頑張ってくれ、リツ」

「……うん」


 あれ。おかしいな。鉄子を治して死ぬつもりだったのに。

 でも、鉄子がそう言ってるからな。死にたいけど、生きてもいたいな。その二つは相反するものじゃなくて、別々にありながら混ざり合ってちぎれ合って、……

 一度晴れた頭の霧が、再びやってきた。また私が私ではなくなっていく。これから、またフラッシュバックだ。嫌だな。


 うつろになった私は、一瞬気を抜いた鉄子の手を取り、自分の頬に当てた。

 流れ込んでくる悪寒。鉄子と分かちある、いくつかのもののうちの一つ。

 足がふらついて膝をつきそうになり、歯を食いしばってこらえた。


「リツ……」

「あはは。三度掛げ、かあ」


 そう言い終わった時、パパ活の記憶が蘇った。極端に誇張された、お客の男性への強い忌避感と自己嫌悪が、巨大な拳になって、どんと背中と後頭部を突かれたような気がした。

 その勢いに押されて、ふと右を見た。

 さっきとは別の電車が、騒がしく線路の上を走ってくる。

 まだ遠目のうちから、その車輪が、とても大きく、頼もしく見えた。

 そうだ、あれなら、ナイフや包丁なんかよりずっといい。ただ手首をレールの上に置いておくだけで、簡単にちぎり飛ばして、私を許して、楽にしてくれる。


 私は、傍らの柵を乗り越えて、線路に飛び込もうとした。

 その私の腰を、鉄子が後ろから抱きかかえて止めた。あのほっそりした体から出しているとは思えない力で、私を道路に引き戻す。

 もうすっかり覚えのある悪寒が新たに背骨を這い上がって、私の体には力が入らなくなり、抵抗できなかった。


「ああ……ごれで、四度掛げ、だねえ……」


 そんな言葉を口にした、ような気がする。


「リツ。このまま公園まで戻るぞ」


 鉄子に引きずられるようにして、私は公園に戻った。

 再び手錠で、鉄柵と私の手首がつながれる。それでも鉄子は手袋をして、なるべく私に触れまいとしていた。


「少し待っててくれよ」と言って、鉄子がスマートフォンでどこかへ電話を掛けた。

 その辺りから、私は正気を失って暴れ出してしまったようで、よく覚えていないけれど、「頼む。助けてくれ」と鉄子が誰かに言っていたのは聞こえた。


 この時、鉄子は蓮乃くんを呼び出していた。

 そして自分では私に触れられないので、駆けつけた蓮乃くんに暴れる私を抱えてもらって、周囲に奇異の目で見られながら、なんとか鉄子の家まで移動した。

 鉄子の親は、この日もいなかった。

 二人は、それぞれどこかへ電話をかけていた。蓮乃くんは自分の家、鉄子は私の家にだったらしい。


 そして二人は、再び鉄子の部屋の中で泣き叫びだした私と、その夜ずっと一緒にいてくれた。

 今度の発作は、さすがに、前回よりも激しかった。苦痛のために何度も失神しては、そのたびに強まる苦痛で覚醒する、その繰り返しだった。


 そうして、脳みその形が変わるのではないかと思うくらいの凄まじい発作は、それでも、今度も翌朝には収まった。


 日曜の夜明け時、寝不足の三人で、トーストを焼いて、紅茶を入れて、へろへろと食べた。

 蓮乃くんは、何度も謝る私に、気にしないでまたいつでも呼んでくれと言って帰っていった。


 鉄子は、腕力のあるやつの連絡先は聞いとくもんだ、とかなんとか言って、もう一度私を部屋に拘束すると、前みたいに廊下で寝ついた。

 私も、同じようにくったりと眠った。

 意外だったのは、合わせ掛けの恐ろしさを聞いていたのに、そこまで凶悪な症状ではなかったことだった。

 確かにつらかったけど、一晩乗り切ればなんとかなるのは、一度触れただけの症状と変わらないといえば変わらない。あんなに何度も触れたのに。


 目を覚ますと、夕方だった。日曜日が丸々潰れてしまった。

 鉄子も同時に起き出してきた。


 私の体調は、当然、まだ完全には戻らない。ひどい風邪を引いた時のようなだるさが続いている。


 お決まりのキッチンでのトーストを焼きながら、私は鉄子に言った。


「ごめんね、鉄子。私、鉄子に人殺しさせようとしたよね。鉄子の伝染を利用してなんて、最低」

「ああ。でも、しなかったんだからいいじゃないか。殺してやりたいのも本当なら、リツが止めたのも本当なんだからさ」


 そうかなあ、と紅茶のマグを傾けつつ、まだしもよかったと言えるのはきっと、そのことを知ってくれている鉄子がいるおかげだろうな、と思った。

 これが、事情を知る人間が私一人しかいなくて、あの殺意が自分だけの胸に抱いておかなくてはならないものだったとしたら、私は今のように穏やかな精神状態ではいられないだろう。


「それに、私だって最後の最後で、リツの父親に本当に触れるかどうかは迷ったよ」


 自分の、ずきずきと痛む左手を見た。包帯とテーピングがしてある。

 蓮乃くんが、昔サッカーをしていた時に似たような脱臼を見たことがあって、その時に倣って応急処置をしてくれたけれど、病院には行くように言われた。

 それはそうと、お母さんとさなみには、なんて説明しようか。


「鉄子、私もう少ししたら帰るけど」

「ああ。でも、どうする? 今夜、一人で平気か? もう一日泊っていってもいいぞ。学校だって休んでいいんだし」


「ん。でも今日は帰るよ。経過がまずそうだったら連絡してもいい?」

「もちろん。早めにな。……なんだよ、にやにやして」


「鉄子、今夜、またうちの近くにいるつもりでしょう」

「……まあな」


 そこで、私は努めて真顔を作った。


「だめだってば。それなら、鉄子がうちに泊まりなよ」

「なんだよ、それ。私の家にリツが泊ったって一緒じゃないか」


「違うんだ、それが」

「どう違う」


 半眼で答える。


「お母さん、たぶん怪しんでると思う。私が本当に女の子の家に泊まってるのか、って」

「……ああ……なるほど。それは……」


 これは、あながち冗談でもなかった。

 なぜなら、


「うちは、あの父親のこともあるから、そういうの、敏感みたいで」

「それなら、妹さんも同じ心配してるかもなあ。……分かった。人混みをなんとか避けていくから、今日、泊めてくれ。今度は堂々と行くぞ」


「うん。晩ご飯、お母さんやさなみと一緒に食べる?」

「ふ。それは無理だ。知らない人とだと、緊張でものを喉が通らないからな」


 鉄子が目を伏せてかぶりを振るので、笑ってしまう。


「はあい。夜は私の部屋で一緒に寝よう。あ、でも」

「なんだよ」


「もしいきなりドア開けられて、鉄子が私を手錠で拘束してるのを見たら、どう思われるかなあ」

「……部屋に鍵とかは」


「ついてないし、鍵かけてたりしたら余計怪しくない?」

「……誤解を招くような状況に陥らないように祈ろう」


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