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第五章 今日までかたちのなかったきみの声1


「ふー……ふー……」


 自分の鼻から漏れる呼気がうるさい。

 あの後、私と鉄子は水道橋の小さな公園にいた。

 まだ明るい空の下、近くを電車が走っている。


 鉄子は私を迎えに上野に来ようとしてくれていたけど、人通りの多い場所や、なにより混んでいる電車に鉄子が乗るのは危険なので、私がなんとかここまで来て、鉄子と落ち合ったのだった。

 制服姿の鉄子は、「とっさに着ていける服がなくてさ。いや、そんなことどうでもいいな」と言って、私をこの人目につきにくい公園の中に招き入れた。


 そこの植え込みにあった、背の低い錆びた鉄柵と、私の右手首を、鉄子がつなぐ。

 いつもの手袋をして、けれど手袋越しにでも、私に触れないように。慎重な手つきで、とても脆弱で大事なものを扱うように。

 鉄柵は膝の下くらいまでの高さしかないので、私は地べたに座り込んだ。


 電車に乗っている間中、涙も唾液も垂れ流している私に、周りが終始ざわついていた。

 体もがくがくと震えていたので、大丈夫かと声をかけてくれる人もいた。駅員さんには、救急車を呼ばれるところだった。

 そんな状態でも、なんとか線路沿いのこの公園まで来られたのは、鉄子の家に泊まったあの夜を一度経験していたおかげだった。初めてこの自殺衝動をまともに受けていたら、手近になにも道具がなければ、自分の爪が剝がれるまで左手首をかきむしっていたかもしれない。

 鉄子からの感染が起こす自殺念慮がリストカットだけだったおかげで、助かった。そうでなければ間違いなく、上野駅でホームから飛び降りていた。


「鉄子、今日、私、さっき、父親と」


 再び悪化した症状のせいでまとまらない頭で、なんとか言葉を組み立てて、今さっきあったことや思ったことを鉄子にすべて話した。

 父親に死んで欲しい。できるだけ苦しんで、自分のしたことをできるだけ後悔しながら、自分で自分を殺して欲しい。

 それだけ言って、さるぐつわ代わりのタオルを自分でくわえると、鉄子が後ろで縛ってくれた。

 周りには住宅はなく雑居ビルばかりで、土曜の今日は人の気配は少ないけど、それでも通行人はいるし、叫び声を我慢できる自信がない。鉄子に身振り手振りでそれを伝え、さらにもう一枚タオルを口に巻く。


「悪かった、リツ。父親と会うことでそんなに追いつめられるとは思ってなくて……治りかけてたのに、ここまで悪化するなんて。くそ、近くにいればまだよかったかもな。うかつだった」


 いくら心配してくれていても、人通りの多い場所に鉄子が来るのは難しい。だから鉄子は悪くない。悪いのは、――誰?

 強烈なフラッシュバックがまた沸き起こり、絶え間なく続いていた。思考が放棄されていく。楽になれ、痛みで許しを得ればいい、と左手首が招く終焉が甘く誘惑してくる。

 その左手首の皮膚の下に、甘ったるい痛痒が充満していた。皮一枚破ってしまえば、痛みと引き換えに、待ちわびた安堵が得られるに違いなかった。


 くわえていたタオルが、びしょ濡れになっている。

 すべて私の唾液だった。


 ううう、ぐうう、と野良犬のような声が喉の奥で鳴る。何度か白目を剝いていた。

 手首を切りたい。今すぐ大きな刃物でかき切って、楽になりたい。

 鉄子が手錠をもう一つ出して、私の左手も低い柵につないだ。

 私は、仰向けになって寝転がる。背中に、床ではなくむき出しの地面を感じたのは、生まれて初めてかもしれない。植え込みの葉の影と、淡い青の中に薄い雲が舞う空だけが視界を埋める。太陽が遠ざかろうとしていた。


「完全に再発してるな。ここまでのは、初めて見る。私の家まで行くのは、無理か……」


 私は無意識に、道具なんてなにもないのに、左手首を切るために、右手を必死で左手に近づけようとしていた。手錠と柵がこすれて、ぎりぎりと耳障りな音が立った。とっくに塗装の剥がれ落ちた古い鉄の棒から、錆の匂いがする。私の喉の奥からも。

 がちゃがちゃと金属同士を打ちつけるような派手な音を立てたら、いつ通行人から警察を呼ばれるか分からない。かろうじてかき集めた理性で、それだけは耐える。


「……リツ。こうなったら病院へ行くか? 保護してもらおうか。そのほうがいいなら……」


 鉄子の提案に、ぶんぶんとかぶりを振って答えた。

 病院へ行っても、自殺念慮がなくなるわけじゃない。

 それより、大もとを断って欲しい。私をここまで追い詰めた人間を――


「ごお、じえ」


 殺して、と明瞭な言葉にはならなかった。

 でも鉄子には、正しく聞き取ってもらえた。


「リツの父親をか? 前に言っただろう、私はリツの家族でも、死んだとしても本当には心を痛めない。特に父親は、いつか言った私の大切にできる人間(・・・・・・・・・・)の数に入っていない。だから必要とあれば躊躇もしない。私は、やれるぞ。やれてしまう。二三度触れて、合わせ掛けにして放り出せば、今夜中にほぼ確実に自殺させられる。でも、いいのか?」


 いい。だって、全部いいことずくめだから。


「私の病気を治すことについては、今は考えなくていい。もともと当分つき合っていく気でいたんだ。それに父親はあくまで自殺するんだから、リツが後から気に病む必要もない。なにも問題ないと言えば、その通りだ。……確かにそうなんだが、本当にいいのか?」


 今度は、激しく首を縦に振った。

 今や私は、リストカットを求めるのと同じ強度で、あの父親の死を願っている。

 あの人が生きている限り、私の人生には影が落とされ続ける。あの人の血が私の中に流れていて、あの人の幸せな姿を思い描くたびに、不幸な気持ちにさせられる。残りの人生、ずっと。

 その恐怖が、私を殺人衝動に駆り立てていた。


「言っておくが、仮に今私が父親に触れて感染をさせても、リツの気分は救われるかも知れないが、症状が消えるわけじゃない。それでも死なせていいんだな? 私はリツは大事だが、リツを苦しめているだけの父親なんて赤の他人以下で、死んでもどうとも思わない。だから、少しでもリツを楽にするためなら、やれてしまうんだよ。……今のリツは、私だって見てられないからな。でも、本当にいいのか?」


 そう言われて、脳に残った酸素を費やして、少しだけ思考した。

 そして、まともな言葉にならない声で、さるぐつわ越しに答える。


 ――殺して。今すぐあの人を殺さないなら、私を死なせて。あの人が幸せに生きている世界で生きていたくない。これをほどいてくれるだけでいいの。


 それも、鉄子はほぼ正しく聞き取った。

 もう、鉄子に治ってもらうことより、父親を消すほうが、私にとってはずっと重要だった。その厭らしさによる自己嫌悪が、さらに発作を加速させる。私は泣きながら、獣のように、ぎいぎいと鳴いた。


「……分かった。分かったよ。それじゃ、スマホを貸してくれ。その父親、メッセージを送って呼び出そう。すぐ来るかは分からないけどな。ぎりぎりまで悩んでいていいぞ。本当に感染させるかどうかは、最後の最後に決めればいい」


 鉄子が私のスマートフォンを操作した。

 最後に渡し忘れたものがあるので、これだけ受け取って欲しいというような文面を送ってくれた。


 秋の陽が、だんだんと西の空に隠れていく。

 待つ時間はとても長かった。

 私のうめき声を聞いた誰かがふと覗き込んだら、両手を鉄柵に手錠でつながれた女子高生と、それを傍らに座って見つめている女子高生がいるわけで、すぐに騒ぎになっただろう。

 でも、そうなったら父親をここへ呼び込めない。あの人がもうすぐ死んでくれる。それだけを心の支えにして、私はフラッシュバックの生き地獄の中でのけ反りながら、必死で声を殺して耐え続けた。

 縦横に激しくふれ続ける視界の中で、何度か、歯ぎしりをしている鉄子と目が合った。鉄子は、とても悔しそうな顔をして、くそ、とか、畜生、とか、時折つぶやいていた。


 一時間と少し、自分の嗚咽と、鉄柵のきしみ音ばかりを耳にし続けた後。

 空は藍色と橙色が混じり、黄昏がやってきた。


「リツ。聞こえてるか? 返信があった。もうすぐ、父親がここに来るぞ」


 力を入れ続け過ぎた首がつって、うなずくこともできずに、私はただ、その言葉を耳に入れた。


「それまでの辛抱だ。……まだ、父親に自殺させたいか?」


 視線だけでうなずく。


「後悔しないな?」


 もう一度。


「……分かった。……こんな時に悪いんだが、私は、リツに噓をついてたことがある。私の姉のことだ」


 お姉さん? リストカットの伝染が治った、あの?


「姉さんが、離れて暮らしていると言ったのは噓なんだ。本当は、もうとっくに死んだ」


 さらに日が落ちてきた。

 鉄子の表情が見えづらくなる。


「姉さんの伝染病が治ったのは本当だ。もう誰にいくら触れても平気だった。でも、だめだったんだよ。そんなことは姉さんにとって、なんの慰めにもならなかったんだ。一番必要な人が、自分のせいで亡くなったから。希死念慮は、感染なんてしなくたっていつでも、誰にでも生まれ得る。姉さんは、……一月もしないうちに、首を吊って死んだ」


 鉄子が言っていたことを思い出した。

 役割の替わりはいても、その人間の替わりはいない。


「これは言わないつもりだった。リツの、私を直したいっていう気持ちに、影を落としたくなかった。病気が治っても、幸せになれるとは限らないっていう話だからさ。私は、それを思い知らされてここにいるからいい。でも、リツの父親が死ぬとなると話は別だ。たとえ屑野郎でもな」


 どうして。

 死んだらいけないの、あんな人が?


「……ああ、誤解しないでくれ。止めてるんじゃない。ただ、この伝染のせいで人が死ねば、私はともかく……きっと、リツが治った後に長く尾を引くことになる。リツみたいな人間なら、特にだ」


 私?

 私は――どういう人間?


「リツの父親がどんなやつだろうと、私にもリツにも、本当は関係ない。別人なんだからな。でも、リツがどんな人間かは、とても大事だ。私は、リツが望むなら傍にもいるし、逆に離れもする。……ずっとあなたの味方だ。それだけは覚えていてくれ」


 鉄子が立ち上がった。植え込みの隙間から、公園の外を見ている。


「来たみたいだ。暗くなってきてよく見えないけど、聞いてた背格好に服装、おそらくそうだろう。仕立てのいい青いスーツだったよな」


 来た。

 足音が、私にも聞こえた。少しのんびりした、気の抜けた音。


「これが最後だ。しんどいだろうが、後悔しないよう、よく考えて答えてくれ。……感染させるか?」


 よく考えて。

 そう言われたので、数瞬、父親との思い出をたどった。ほんの小さいころのことから、今日のことまで、一息に、濃密に。

 そのすべては、裏切られ棄てられた記憶のフラッシュバックになって、私の中の嫌悪感と敵意をなおさら増大させた。頭蓋骨の内側が、燃えるように熱い。


 私は、上半身すべてでうなずいた。


「……分かった。やるよ。行ってくる。……リツ。私が一番苛烈だと感じるフラッシュバックはね。一番長く傍にいて、同じ病気にかかっていたのに、治ると同時に大き過ぎる喪失に見舞われた姉さんを、むざむざ死なせてしまったことなんだ。私なら助けられかもしれない。でもそうしなかった。その後悔なんだ。どうしたって後から悔やむことは、これからもあるんだろうけど……なにがあっても、私も、一緒に背負うからな」


 鉄子が背中を向けた。

 濃くなっていく夕闇の中で、その闇よりも濃い黒色が、歩を進めていく。


 これで殺せる。あの父親に思い知らせてやれる。

 でもなんで、今鉄子は、あんなことを言い残したのだろう。


 灼けつきかけた脳の片隅で、わずかに理性が息を吹き返す。だって、あまりにも、最後に見せえた鉄子の顔が切なそうだったから。


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