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第四章 感染5


 全然心構えをしていないところで始まってしまった話だけど、今ここまで、そしてこれからの数分間は、一つ間違えたら私の――私たちの生活に、あまりにも大きな影響を及ぼしてしまうものになりそうだった。

 だから頭をフル回転させて応答を練り、的確な言葉を選んで話したいと思うのに、思考が感情のせいで上手く働かない。


「私、たちは、かわいそうじゃ、ないの?」


 とうとう、まったく工夫の凝らされていない、頭に浮かんだままの言葉が口からこぼれた。


「あ、かわいそうって言い方はよくないよな。いいか、お前たちには、自分をかわいそうって思って欲しくはないんだ。それは一番失礼だから。自分に対してね。お前たちはなにも悪いことしてなくて、悪いのは父さんなんだから。もう会うことはなくなると思うけど、それは忘れないでいていいんだよ」


 違う。

 そんな話が聞きたいんじゃない。

 かわいそうだと思われたいわけでもない。ただ、感情を向ける価値もない相手だと言われているみたいなのが、悔しく、やるせなく、屈辱的なだけだ。

 屈辱。この人と会うと、本当によくそれを与えられる。フラッシュバックの時もそうだった。実の親なのに、どうして。

 左手首がうずく。


 一メートル向かいにいる自分の父親の、目も、口も、肌の質感さえ、異質なものに見えた。

だめだ。この気味悪さに、気圧されるな。


 さなみの進学費用のあてとして会い続けながら、頭のどこかで、この人が私たちにお金を出すことはもうないだろうと諦めてもいた。

 それでも関係を保とうとしていたのだから、今までのことが報われる努力となるように、ここは私はなにか効果的な行動をとって、まだ私たちの父親でいて欲しいと訴えるべきだ。

 泣いてすがるのもいい。家族愛を込めた言葉――偽物でも――を口にするのもいい。そうしてこの父親に、棄てた家族への想いを継続させるべきだ。

 理屈ではそれが正解だと分かっている。


 なのに頭が動かない。聴覚が弱まって、霞に包まれたように、意識が薄まっていく。

 認めたくはなかった。けれど私は、この父から断絶を言い渡されたことに、一瞬で打ちのめされていたのだ。

 なけなしの愛情が裏切られたからじゃない。それは断じて違う。

 そうではなくて、本当なら慈しんでくれるはずの相手から、当然のように粗末に扱われて、私にとっての自分の大切さが深く汚されたからだ。


「相手の、人は……」

「うん?」


「相手の人は、その……お父さんのやったことを……」

「うん。言ってない。必要ないからね。お父さんの胸の中に収めておくよ。新しい奥さんは前の旦那さんとの子供がいるし、それとは別に今妊娠もしてるんだ。彼女たちに余計なことを言って動揺させたくない。お父さんが離婚したてなのは彼女も知ってるから、ただでさえ前の家族のことが気になるはずだろう? それ以上の負担はかけたくないんだ」


前の家族(・・・・)のことを、本人の前で、そう呼べてしまう。この人はそういう人だ。すべての言葉に、不誠実さがこもっている。余計なこと――余計なこと? それで私たちにかかった負担は? この人は前の家族(・・・・)が気にならないの?

それに、妊娠……?


「……いつ……」

「ん? ああ、出産か? 予定日は十二月だよ」


 十二月に産まれる子供。なら、その子供を作ったのは。

 したくもない逆算が頭の中にひらめき、吐き気が込み上げた。

 知らず、右手で、リストバンドの上から左手首をわしづかみにしていた。

 傷跡が生き物になって、動き出して這い回っているような、おぞましい感覚が走る。


「だから、お母さんに言って欲しい。もう養育費は払えない。僕がそう心から決意したら、誰もそれを侵せないはずだ。新しい家族のためにお金は使いたい。お前たちには家があるし、お母さんも働いてる。大丈夫だよ。リツだって、いつまでも僕からお金をもらい続けるのは嫌だろう?」


 もらい続けるもなにも、ちゃんと払ってもいないじゃないか。

 そう叫ばずに済んだのは、吐き気を無理矢理に飲み込んだおかげだった。

 

 その時、ふと違和感を覚えた。

 こんなに重みのある話をしているのに、父親の態度が自然体過ぎる。

 もともと口下手な人ではなかったけど、この状況であまりに流暢過ぎる。

 私が今の話をどう受け止めるかを気にしたり、こちらの気持ちを聞こうという意志が感じられない。

 あらかじめ用意してきた言葉で、決定事項をただ口から流している。原稿でも読んでいるかのように。


「リツ、確かに僕は悪いことをしたよ。でもそれは、新しい奥さんや子供たちには関係ないことだ。お父さんが当事者だからこう言うんだと思って欲しくないんだけど、起きたことはもう変えられないだろう? 僕がやるべきことは、これからどれだけ周りの人たちを幸せにできるか、そこを頑張ることなんだ」


 これからの人たち。

 私たちは、これまでの人たち。


 父親が、私たちという家族がいながら犯罪を犯した時の気持ちを思い出す。

 この人にとって、私たちの優先順位は、自分の欲望よりも低かった。欲求を満たすことと引き換えに棄てられた、と思った。

 そうして今また、私たちは棄てられようとしている。いや、父親の中では、きっともう棄て終わっている。

 ゴミ箱の中の丸めた紙切れに、蓋をする前に最後の言葉を投げかけているようなものだ。今までお疲れさま、さようなら、と。

 蓋を閉めたらたぶんもう、棄てたもののことはきれいに忘れてしまうのだろう。

 紙切れが「棄てないで」と泣きわめいても、「どうして?」と、「そんなことを言われても困る」と、本気で、無邪気に、心からそう言い返すに違いない。


 怒りのせいで息が吸えなくなり、苦しさのせいで息が吐けない。すぐに酸欠がやってきた。

 あれは、なんだっけ。前に先生が話していた、人間の、そうだ。尊厳。尊厳を踏みにじられたら、どんなに穏やかな人でも起こるし、とても強靭な心の持ち主でも深く傷つく。そんな話だった。

 その時はぴんとこなかった。少なくとも、自分を制御できなくなるほどの激しい感情なんて、人より比較的気持ちの起伏が鈍い私は抱かないんじゃないかと思っていた。尊厳なんて大層なものが、私に備わっているのかどうかもよく分からなかった。

 でも。これか。今私は、尊厳をないがしろにされているんだ。

 父親のことなんてもう好きでもないのに、どちらかといえば軽蔑を抱いている相手なのに、なぜか涙をこらえるので精いっぱいで、なにもしゃべれない。

 なぜ泣きたくないのか自分でも分からないし、私がこの人になにかを我慢してあげる筋合いだってもうない。でも、どうしても打ちのめされた泣き顔を父親に見せたくない。


 それでも、なにか言わなくては。

 そうでなければ、こちらの沈黙を都合よく解釈して、この人は「リツはすべて快く了承してくれた」と言い出しかねない。


「私たち、のことは、もう本当に、なんとも思って、ないの?」


 あまりにも情けない、すがるような言葉に、自己嫌悪で寒気がした。

父親は、嫌そうにふうとため息をついた。


「だって、こうして会っていてもリツは大して嬉しくなさそうじゃないか。いつもの顔、あれ愛想笑いだろ? それはだめだよ、うわべだけで笑って見せるのは、人に一番やっちゃいけないことだよ。一番傷つけるからね。それじゃ愛情もいつか尽きるよ。家族だからって、愛情は永遠でも絶対でもないからね」

 

 それは、今日初めて、予め用意してきたものではない、父親の生の本音に聞こえた。


「さなみ……は」

「んん?」


 頭を傾けて聞き返す父親の顔は、これまでで最も醜悪に見えた。


「さなみは? これから進学だよ、大学だって行くかもしれない。お父さんが養育費をくれなかったら……」

「さなみなんて、僕に会いにも来ないじゃないか。言っただろう、そんなんじゃ愛情も枯渇するよ」


 ああ。

 さなみも連れて来なければいけなかったのか。

 私一人が、なんとか絆らしきものをつなぎとめようとして面会を続けてきたのは、なんの意味もなかった。


「いいかい、リツ。お父さんは今まで、自分の力で生きてきた。さなみも、男の子だったら、昔ならもうすぐ元服の年だ。進学したいなら、自分でなんとかしなくちゃいけない。それが無理なら、家族である、お母さんやお前が助けてあげればいい。お父さんはもう家族じゃないからね。だって、離婚する時、お前もさなみも嫌がらなかったじゃないか」


 違う。

 嫌がったよ。

 嫌がったけど、お父さんのしたことを聞いてしまったから。


「そんな、こと……」

「ああ。リツは、他責思考に育ってしまったね」


 それは知らない言葉だったけど、タセキシコウという響きに、おそらくこれが正解なのだろうという漢字を当てはめた時、お腹の底を大きな石の塊で殴られたように気分になった。

 どの口が。どこまで無神経なら、人にそんなことが言えるのか。

 でもそう言い返してしまったら、終わってしまう。この人は、言いたいことはなんでも言えても、反論を受け止められるほどしなやかじゃない。きっとかんしゃくを起こして、それで幕引きになってしまう。


「じゃ、そろそろ行くよ。お母さんとさなみによろしくな」


 なにを、どう、よろしく。

 もう君たちにお金は払わないよ、分かってくれたね、とよろしく?

 ふざけ過ぎている。

 いや、それよりも今帰してしまっては。

 けれどこれ以上、この人には、なにをどうしたら。


 父親が席を立った。


「待っ」

「あんまり食い下がらないでくれ。この後、一時間後に池袋で新しい奥さんたちと約束があるんだ」


 伸ばしかけた手が、テーブルの上に出る間もなく止まった。

 一時間後に、約束。池袋で。

 つまり、その程度の時間で、私との面会は終わると考えていたのだ。十数分で、一方的に告げたいことを告げたら、それで済むだろうと。その程度の相手だと。


 昔読んだ、不良が出てくる漫画で、「舐めんなよ」「舐めてんじゃねえぞ、やんのか」とけんかになるシーンがあった。その時は、多少失礼な態度をとられるくらいで激昂するのは、あまりにも物語を進行するのに都合のいい短気さだと思った。

 私が間違っていた。

 人間として舐められるというのは、こんなにも……


「ああ、そうそう、これは言っておくけどさ」


 父親が私を見下ろして言う。


「新しい家族は、僕のしたことは知らない。でも、もし知ったとしても、受け入れてくれると思うんだよ。だからお前が告げ口しようとしても、無駄だよ」


 そんなこと、考えてもいなかった。驚いて見つめ返した父親の目は、自分のしたことを後悔なんてしていない、やがて同じ罪をまた犯す人間のそれに見えた。

 すべての気力が失われた。

 父親が背を向けた。

 軽い足取りで去っていく。もちろん、私の分の支払いなんてしない。


 胸が痛い。

 比喩ではなく、握り潰されるような痛みが、確かに体の中心に走っている。

 心も胸も私には一つしかないのに、どうしてこんなに、何度も粉々に砕けるのだろう。

 つらい経験をするたびに人は強くなる、という話をよく聞く。でもまったくそうは思えない。

 取り返しがつかなくなるほどに心が細かく何度もひび割れて、生きれば生きるほど脆く弱くなっていくとしか、私には思えない。


 左手首が、内側からなにかが皮膚を噛み破って出てくるんじゃないかと思うくらい、強く脈打つのを感じた。体中の熱が集まり、かつてリストカットした時の痛みが、何重にもなって一ヶ所に折り重なっていく。

 その痛みに、心が惹かれていく。

 これは、希死念慮だ。

 そうか、私、あの人といると死にたくなるんだ。

 できることならこの世からいなくなって欲しいくらいに、あの人が嫌いだ。でもそうはいかないから、私がいなくなろうとするんだ。

 あんな人間がのうのうと生きている。

 そして幸せになろうとしている。

 私がどんなに苦しんでいても、無関係に。

 勝手に作ったくせに。勝手に作って、棄てたくせに。

 許せない。

 鉄子。

 あんなにいい子で、私を思いやってくれる鉄子は、あんなに苦しんでいるのに。卑劣で汚らしいあの男のほうが、のうのうと幸せになろうとしている。

 許せない。

 この理不尽を、誰も正してくれない。


 ファミレスを出た。

 行き交う人の間を縫い、傍にあった壁にもたれて、スマートフォンを取り出す。

 四コールで、鉄子が出た。


「どうした? 面会ってもう終わったのか?」

「……いたよ」


「え? いた? なにがだ? リツ?」

「死んでもいい人間、いた」


 いつか言っていた鉄子の話を思い出す。

 お姉さんが治った時、変わったことと言えば、伝染した人が死んだことくらい。

 殺したいくらい憎い人間がいたら言ってくれ。屑野郎は死んで――鉄子は治る――いいことずくめ――


「殺したい。でも、私は殺したくないから、自分で死んで欲しい。そうして鉄子を治したい。全部できるから――」

「どうしたんだ。いや、今、あんまり興奮するな。リツはまだ感染が」


 鉄子から私にリストカットが伝染した、あの最初の夜の激しさが、再び私の中で噴き上がった。


「私の、父親だった人を自殺させて!」


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