第四章 感染4
宣言通り、この金曜日、鉄子はお昼休みに登校してきた。
一緒に屋上で昼食を済ませて、午後の授業を受ける。
私の体調は、まだいいとは言えなかった。
でも気分はずっと高揚していた。
鉄子は、私のほうをちらちらと心配そうに見ながらも、午後の授業を居眠りしながら受けていた。
この日は、そんなふうに放課後を迎えた。
クラスでは文化祭を来週に控えて、もうすでに終わっている作業と、間に合うかどうか微妙な作業がはっきりと分かれてきていて、後者のほうがやや多い。
「でも、なんとかはなりそうだな」
終礼を終えて軽く伸びをしていると、蓮乃くんがそう言ってきた。
「そうだね。私と鉄子の班はもうやることが終わったから、残りの部分の応援になると思う」
「ああ。……いや、鈍村さんはどうかな」
確かに、鉄子は私以上にクラスに溶け込んでいないので、教室中の暗黙の了解として、一人だけすぐに帰ることになりそうだった。
ただ、この日は私も体調がまだ万全ではないので、帰らせてもらうことにした。昨日の欠席のおかげで説得力があったらしく、特に嫌な顔もされずに見送られる。もともと、私がクラス内の重要人物ではないからというのもあるのだろうけど。
星野さんが心配して声をかけてくれたので、週末休めば回復するよと笑ってお礼を言った。
昇降口で鉄子と合流して、二人で校門を出る。
そこで、名前を呼ばれた。
「真名月さん、鈍村さん」
二人で振り向くと、カバンを持った蓮乃くんがいた。
「今日、おれも一緒に帰っていいか?」
「え?」
「なぜだ」
首を縦に振る気配もなく疑問符を浮かべる私たちに、蓮乃くんは少したじろいだ。
「いや鈍村さん目つききついきつい。ほら、昨日二人して休んでただろ? 鈍村さんは今日も午後からだったし。心配してんだよ、これでも」
「……そんなことを言って、リツとの接点を増やしたいだけじゃないのか」
私?
なぜか小さく後ずさる蓮乃くんが、ぶんぶんとかぶりを振る。
「違う違う、本当に心配してるだけだって」
「でも、私、鉄子の家のほうまで行くからすぐには電車に乗らないけど」
「そうなのか。え、神保町のほうまで? へえ~」
「そう言いながらなぜ私たちの隣に並ぶ」
そうして、なんとなく三人で歩き出す。
「あのな、鈍村さん。なにか勘違いしてたらあれなんだけど、別におれ、真名月さんにちょっかい出そうとかはしてないからな」
「へえほお、そうですかね」
鉄子はマフラーから覗く口をとがらせている。
なんだ。二人は、なんの話をしているのだ。
「おれだって、二人のことずっと気にはなってたんだよ。最近ましだけど、ちょっと健全な感じじゃねえだろ、うちのクラス」
「私のせいでな」と鉄子がすねた声を出す。
「……そう。それだ」
蓮乃くんのまじめな声に、ちょうどいつもの裏通りに入ったところで、私と鉄子は彼の顔を見た。
「例の、鈍村さんに触れると、手首切っちまうっていうの。なんとかならねえのかな」
「……私が中学生の時だ。ちょうどそんなふうに、世話を焼いてくれた男子がいる」
鉄子の歩き方はいつもと変わらない。一定の速度、一定の足音。
でも、普段とは違う、わずかに張り詰めた声だった。
「その男子はクラスの人気者だった。運動神経がよくて、サッカーのなんとかセレクションというのを受けていて、将来はサッカー選手になりたかったらしい」
鉄子は前を向きながら、独り言のように続けた。
「なんのきっかけだったかは忘れた。でもふとした拍子に、学校で、彼と私の手が接触したんだ。放課後で、教室にはもう人がいなくて、静かだった。私は、まずいと思ったよ。人を呼ばないといけないと思った。でも彼は、大丈夫だと言った。おれが手首切って自殺するほど、弱い人間に見えるか、って。……私は、その言葉に甘えてしまった。まだ、伝染の怖さを身をもって知らなかったから」
「……それで?」と蓮乃くん。
「彼が手首を切ったのは、その三十分くらい後のことだった、らしい。私はもう帰宅していて、彼はまだ学校にいた……進路のことで職員室に行っていたんだ。話の途中で突然、担任教師の机からカッターを奪って左手首を切った」
体感したから分かる。
体を拘束でもされていなければ、いきなりあの衝動に襲われたら、抵抗できない。
「そのカッターを教師がはたき落とすと、彼は奥の給湯室に駆け込んで、今度は包丁で左手首を縦に突いた、らしい。傷は深くて、噴水みたいに凄まじい出血で、それでも命に別状はなかったらしい。らしいらしいというのは、私は詳しくは知らないんだよ。だって、能天気に家に帰っていたからさ。目の前で起きていないことには想像力を働かせることもできないくらい、私は未熟だった」
今度は、蓮乃くんは相槌を打てずにいた。
私も、沈黙するしかない。初めて聞く話だった。
「その場面に何人もの教師たちが立ち会ったから、当然大騒ぎになった。その後、彼は転校して、その後どうなったかは分からない。でも少なくとも、中高生のサッカー選手として活躍しているって話は、どんなサッカー雑誌を見ても載っていない」
あっと声を上げそうになった。
転校してきたころに鉄子はサッカーの雑誌を読んでいたし、部屋にも置いてあった。あれは、その人の名前を探して……
「怖いんだ。私は必ず人を不幸にしてしまう。それもただけがをするんじゃない、自分で手首を切らせる。そこにはただの事故と違って、いろんな意味が生じてしまうだろう? 傷跡は残り、本人が持ち直しても周りの見る目は変わる。その人の人生の、後々まで尾を引くことにもなる。私が、彼の夢を……」
鉄子はそれ以上しゃべれなかった。
うつむいた顔の表面を、水滴が流れて顎から落ちる。
「鈍村さん、ごめん。おれ、そんなこと言わせるつもりじゃなかったんだ」
「いや……私こそ、泣いたりして……この話をしてしまうと、やっぱりまだだめなんだよな。現在進行形で、私は彼の夢を奪い続けてるんだから」
「いや、そうとは限らねえじゃん。案外すっかり立ち直って、どこかで頑張ってるかも」
「そうかもしれない。私はそれを知らなければならないと思う。でも、本音を言えば知りたくない。怖い。……気づいていないだけで、私は、もしかしたらほかにも」
私は改めて、鉄子の不安定さを思い知った。
昨日と今日で大きな崖を一つ乗り越えた気でいたけれど、鉄子の苦しみはなにも改善していない。自殺念慮を抱えたまま、不愛想に見えて、鉄子にしか分からない懊悩を抱えて今日も過ごしている。
黒いハンカチで涙を押さえた鉄子が、鼻を鳴らして言った。
「こんな話は、誰にもしないままで生きていくんだと思っていた。まさか、人に聞いてもらう日が来るなんてな」
「鈍村さん、……なにかほかにも、人に話したいなって思ったこととかあるか? おれでよければ、聞くよ」
鉄子が驚いて顔を上げた。意外な申し出だったのだろう。
「ほら、真名月さんとは、距離違過ぎて仲良すぎて言いにくいことってあるだろ? おれならほどよく他人だし、その他大勢みたいな立ち位置じゃん」
「じゃんとか言われても。どうした風の吹き回しで」
蓮乃くんが、かりかりと頭をかく。
「……真名月さんって、いい人だよな」
え?
「ああ。リツはいいやつだ」
ん?
「おれ、真名月さんと話してて結構救われたからさ。その友達の鈍村さんの役にも立ちたくなったんだよ。というわけで、連絡先交換せん?」
「……いいけども。スマホでのやり方があまりよく分からないが」
鈍村さんもかよ、と蓮乃くんが吹き出す。
鉄子の家が近づいていた。
私の症状はまだ消えてはいない。少し頭がくらくらして、銀色に光るものが視界に入ると刃物に見えて息をのむ。この帰り道でも、思わず、アルミサッシや金属製の看板に二三度吸い寄せられそうにもなった。
でも、振り切れる。確実に回復している。
鉄子を家まで送ると、私と蓮乃くんは同じ駅まで歩いた。
それぞれの路線に分かれて、一人になり、なんとなく浮ついた気持ちのままで家に着いた。
すっかり忘れていた。翌日の土曜日が、なんの日だったか。お母さんに確認されて、ようやく思い出した時、思わず声が出た。
「リツ、本当に忘れてたの? 明日、面会日でしょう」
父親との面会日。
そうだ、確かに明日だった。
体調は万全ではない。でも、さなみの進路のために関係を断つわけにはいかない、私の責務のようなイベント。
乗り切るしかない。正直、どうにでもなるとは思う。取り繕ったおしゃべりをして、一時間もしたら平和に別れればいい。今までもそうしてきた。
この時は、そう思っていた。
■
翌日は曇っていた。
父親との待ち合わせは、また上野だった。
できれば、しばらく来たくなかったけど。今回はもし知り合いに見られても、実父なので問題ないといえばないとはいえ、気は重い。
心なしか、朝から頭痛がして、めまいの頻度が昨日より増していた。
秋らしい――と自分では思う――ブラウンのロングスカートにはポケットがついていて、その左右に、例の手袋が一つずつ入っていた。
スカートのシルエットが崩れるのは気になったけど、これはいずれ父親との会話に詰まった時に取り出して、話の種にしようと思い、面会の時は持ってくるようにしている。幸か不幸か、今のところまだ出番は来ていないのだけど。
指定された場所はファミレスだった。先に着いたので、ドリンクバーを注文する。
ここに来るまでは、もし突発的にリストカットしそうになっても防げるように、ガムテープくらいの幅広なビニールテープを左手首に巻いていた。荷造りにも使える固い素材で、カッターナイフくらいなら刃が表面を滑ってしまう。
もちろん、本気で突き立てたらひとたまりもないけれど、もう今の回復具合なら、瞬時にそこまで追い込まれるとは思えなかった。
たださすがに父親に奇異の目で見られそうだったので、テープはすでに剥がして、リストバンドだけを着けている。そういえばあの父親は、娘が左手首にリストバンドをしていても、気にするそぶりさえ見せたことがない。
一杯目のアイスティを飲み終えた頃、父親が、また遅刻してやってきた。
「ごめんごめん」
「ううん、大丈夫」
あれ、と思った。
父親は、明るいブルーの生地のいい(詳しくはないけど、たぶん)スーツに、高級感のあるベルトをしている。
ずいぶんおしゃれしてくれているな、と思った。つい、胸襟を緩めてしまう。このあたり、私はやっぱり、娘としてこの人に心を許している部分があるのだなと思う。
こうして会うのはもう無駄ではないかと何度も考えた。私が会いたくないと言えば、それで父親との関係は終わるだろう。
それでも、お金の話を抜きにしても、まあ喜んでくれてるみたいだからいいかとか、さなみとお母さんだけじゃなく私からも冷たくされたらかわいそうかなとか、甘ったるい感情がいつもその決断を彼方に追いやってしまう。
「お父さん、なに頼む?」
「ああ、お父さんはいいよ。すぐ本題に入るから」
本題?
「リツ。こうして会うの、もうやめないか?」
父親の声には、緊張はなかった。
言葉としては質問口調だけど、問答するつもりはないのが明らかな声。
今見上げた空の色の話をするように、すでに決まり切って変えようのない事態について、ただ通告するような。
父親の弛緩した表情と、告げられた内容の釣り合わなさに、私は混乱しかけながらも、静かに訊いた――脈が早まり、頭痛が増している。
「どう、……して、そんなこと言うの?」
「お父さん、好きな人がいてさ。もう少ししたら結婚するんだ。お前たちのことも大事だけど、やっぱり新しい家族を大事にしたい。じゃないと、向こうがかわいそうだろ?」
意識が混濁しかけてきた。強いめまいがする。
やっぱり?
やっぱりって、なに?
誰と誰が決めたやっぱり?
向こうがかわいそう?
――私たちは?




