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第四章 感染2


 鉄子を見る。


「れつろ」喉と顎が痛すぎて、鉄子、と発音できない。「ひろわん、らっられ……」

「……ああ。そうだな。一晩、経った。……乗り越えたな。目つきが正気に戻った。まだ気は抜けないけど、後はだんだん楽になるだろう」


「……お願いら、あっれ」

「ん?」


「……ロイレ、行きらい」


 そこまで言って、げほげほとせき込んでしまう。


「トイレか。そうだな。いいだろ。ちょっと待ってな」


 下半身の上から、布団がどけられた。

 うっ血していた下半身に血がどっと巡って、じんじんとしびれ出す。

 鉄子はポケットから小さな裁縫用のハサミを出してビニールひもを切り、手錠を机の脚から外した。

 ただしその手錠に、今切ったひもを結びつけて、即席のリードを作る。


「トイレの中まではついていかないけど、野放しにもできないんでな」

「うん。ありらろう……」


「昨日、リツを拘束する道具を探してる時に、台所や居間にある刃物は全部出して隠した。安心して行ってくれ」


 ひどい気分だった。

 体を起こすと、貧血みたいにくらくらする。

 全身筋肉痛で、関節という関節も残らず痛い。

 それでも、やり切った。

 おかげで目下の問題は、今にも堰を切りそうな膀胱のほうだった。


 ほとんど這うようにして、鉄子の部屋から出る。

 ドアを開けて、階段を、一段ずつ座りながらそろそろと降りた。ここで転がり落ちでもしようものなら、いろいろ終わる。

 下に着くと、先回りした鉄子がトイレのドアを開けてくれたので、相変わらず清潔そうなその小部屋の中に入った。

 鉄子はビニールひもが床に垂れないように私の腕に巻きつけてくれ、ドアを閉める。

 さて、というところで、ふと気になって、言う。


「……れつろ? そほにいふの?」

「ああ、ここにいるぞ。ドアの前にいる」


 ……いやいやいや。


「……ろっか行っれふれない?」

「それはかなわないことだ」


「……なんれ?」

「今、リツの姿が視認できない。頼りになるのは音だけだ。異常がないように、ここでしっかりと聞き耳を立てているよ」


 音。いや音が困る。音こそ困る。

 待って。

 いや、私のほうがもう待てない。


「……らからその、音を聞かれたくないんらけど……」

「恥ずかしいか? でもな、安全には変えられない。私はなんとも思わない。生きていれば誰もがすることだ、それも毎日な」


 こっちがなんとも思うんですが……?

 でも、万が一を考えてくれる鉄子の気持ちも分かるし。

 う、うう。もう……。


 やむを得ず、そのまま、用を済ませた。

 手を洗って出ると、本当に、ドアのすぐ前に鉄子がいて、ぶつかるところだった。


「どうだ、気分は?」

「さいれー……いろいろ……」


「部屋に戻ろう。普通に布団敷くから、寝なよ。あの部屋には刃物置かないし、私は同じ部屋で寝てうっかり触れないように、部屋の外の廊下で寝る」


 そんなの悪い、と言おうとしたけれど、もうまともに頭が働かなかったし、口論する気力もなかった。綿の形をした鉛が、上半身にずっしりとのしかかっているように思える。

 あ、でも。


「待っれ。学校に電話する、休むっれ」

「そうか、そのほうがいいな。私も病欠ということで連絡しよう。不眠には慣れてるが、張りつめっぱなしの徹夜なんて初めてで、ふらふらする。今にも寝っ転がりそうだ」


 私は自分史上最悪の滑舌――そのおかげで、体調不良だとついた嘘が説得力を持ったのかもしれない――で、なんとか学校への電話連絡を済ませた。

 同じように、鉄子も電話をして、二人で小さくVサインを作り合う。


 お母さんには悪いけど、もう、あれこれと言い訳をする元気は残っていない。

 これで学校からうちに連絡はいかないだろうから、友達の家から登校したと思うだろう。

 やることはやった。鉄子のお言葉に甘えて、ぐっすりと眠ってしまおう。


 四つん這いで階段を上がり、鉄子が敷いてくれた布団の上に転がると、一気に睡魔が襲ってきた。

 薄い掛布団を借りて、体に乗せると、天使の羽に包まれたようだった。


「眠れそうか?」

「余裕で」


 ようやく、まともに口が動くようになってくる。

 このまま寝たら、昨日から着たままの制服がしわになるだろうけど、もう構わない。


「じゃあ私は触らないように廊下で寝るから、起きたら言えよ」

「うん、ありがとう。……鉄子」


 呼びかけに、一度背中を向けた鉄子が「ん?」と振り返る。


「鉄子の手を取ったのは、とっさのことだったんだけど。鉄子と一緒にいるっていうのは、感染に怯えながら、びくびく過ごすことじゃないと思ってるから、間違いじゃなかったよ。……それでも、軽率だったかもだけど」

「だいぶな。なに握り直してんだ」


「考えなしだった」

「ま、そりゃ、いきなりだったからな」


「ごめんね。一人で先走って、恥ずかしい。忘れて欲しいな……」


 首だけこちらを向いていた鉄子が、体ごと向き直った。


「絶対に忘れない」

「鉄子」


「私も、リツを絶対に守ろうと思った。私が人に、そんな気持ちを持つ人間になれるとは思わなかった――が、なりたいと願ってはいた。……私に必要なものをくれてありがとう。お休み」


 ドアが閉まった。

 部屋の中に一人になった。

 でも一人ではなかった。

 すぐに落ちた眠りの中で、私は鉄子と一緒にいた。

 夢はおぼろげで、とらえどころがなくて、それからお昼過ぎに目が覚めた時には、ほとんど内容を覚えていなかった。


 むくりと体を起こして、布団をたたみ、しわくちゃのスカートを手で伸ばして、ドアを開けた。

 鉄子が、廊下に敷いた布団の上で、掛け布団をくしゃくしゃにしながら、陽だまりの子猫のように無防備に寝ていた。

 横に座って、しばらくその顔を見ていた。

 窓の外から、車の音や人の喧騒が、ほんのかすかに、とても遠くからのように響いている。

 二人だけの空間はあまりにも穏やかで、まだ夢の続きのようだった。



「起きたら言えと言ったのに」

「だって、いざとなったら人起こすのって結構気が引けて」


 午後一時過ぎ。

 台所で、私たちは、向かい合ってトーストをかじっていた。

 二人してとにかくお腹が空いてしまって、私は二枚目のパンにバターを塗り――バターナイフではなくスプーンで――、鉄子はトースターで三枚目を焼いている。

 ティバッグの紅茶を鉄子が入れてくれて、バターと紅茶に焼けた小麦粉が加わり、あまりにも幸せな香りが私たちを包んでくれていた。


「くそ、寝顔なんか見るなよな」

「そんなに気にするの、それ?」


「家族以外に見られたのは初めてだ。私は、中学の林間学校とか修学旅行は、感染を起こさないように不参加だったからな」

「あ、そうか」


「バスなんていう走る密室で団体行動なんて、恐怖でしかないからな……。まあ、それはともかく、これでリツは峠は越えた。症状はこれから日ごとにやわらいでいくはずだ。それでも夜は気をつけろよ。命は一個しかないんだからな。さすがに続けて外泊はできないだろうが、危なそうなら私がすぐ行くから」

「うん。でも、自分が、生きててよかったなって思えるのが、少し意外かも」


 鉄子が首をかしげる。


「……あん?」

「私、自分が今日死んじゃったとしても、そんなに大ごとじゃないみたいな感覚があって」


「……それ以上の大ごとってあるのか?」

「妹がいるからかなあ」


「妹さん? ……そういや前に、リストカット経験者の話で、妹とか(・・)って言ってたのは、リツ自身のことだったんだな」

「うん、そう。言えなくて、ごめんね。傷跡を隠してたのもそうなんだけど、リスカのことが知られると人の私への接し方が変わっちゃうから、なかなか……。鉄子には気を遣って欲しくなかったんだ」


 父親の犯罪で、周りからの視線に耐えられずに、もう許してと心の中で叫びながらカッターナイフで皮膚を裂いた。

 傷は浅かった。でも手首の痛みと流血を見て、犯罪者の娘としての罪悪感が少しだけ薄らいだのを覚えている。


「ああ、分かるよ……。悪い、話が逸れた。で、妹さんがなんだ?」

「だからあ、私が死んでももう一人同じ立場の人がいるから、なんていうか、私がいなくなっても五十パーセントは残ってるわけで、そんなに問題ないっていうか」


 鉄子が、思案顔から半眼になった。


「そうはならないだろ。三人きょうだいなら、一人死んでも六十六パーセント残っててよかったなあか? 世の中のきょうだい持ちに謝れ」

「そうなんだけど、感覚なんだってば。ストックっていうか、バックアップっていうか」


「どっちも全然違う気がするが、言いたいことはなんとなく理解できた。まあ、地球上から自分一人消えたって大したことない、みたいなのは割とみんな考えるだろうし、意外に大勢の人が似たようなこと考えてるのかもな」

「そうかも。ほら、芸術家とか、芸能人とか、スポーツ選手とかで、『この人の替えは絶対にきかない』みたいな人が引退したりしてもさ、誰かほかの人が代わりを務めるから、広い視野で見れば代わりのきかない人間なんていないって言うじゃない? それなら私なんて、もともと特に取り柄のない高校生だし」


 鉄子が、紅茶をがぶりと飲んで――トーストが喉に詰まりかけたらしい――、言う。


「ああ、あれな。別に視野が広いわけじゃないだろ。もっともらしいこと言ってるようで、ちょっと見方が一面的過ぎるとは思うよ」

「一面的?」


「役割だけで人を計るなら、誰がいなくなっても誰かが代わりをできるだろう。でもそれは、痩せた寂しいものの見方だと思う。役目の代わりが務められても、別の人間の代わりにはなれないよ。やっぱり、人一人の存在は替えがきかない、大切なものなんじゃないか」

「……ええ。鉄子って、そんな風に考えてるの」


 鉄子がふいと横を向き、ぎざぎざの髪の毛先が揺れた。


「私は、人の手首を切らせる感染源だからな。一時はそんなことばかり考えていたし、今言った結論は間違っていなかったと思う」

「うん?」


 正面に向き直った鉄子と目が合う。


「少なくとも、リツの代わりになれる人がいるとは思えない。私にとってじゃないぞ。この世においてだ」



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