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第二章 リストカット7


「リツ、」鉄子が顔を伏せたまま言ってくる。「リツには見られたくなかったな。これが私の弱さなんだよ。……前に、死にたいって言ってるやつは本当は生きたいんだって言ってた人がいた。でも、違うんだ。……死にたいと生きたいは、一本の紐の両端じゃなくて、別々の紐なんだよ。反対のものじゃなくて別物なんだ。一方へ、強く引っ張られれば、もう一方から、逃げられるわけじゃ、ない。一方が本当で、もう一方が嘘なんじゃ、ない。……本当に死にたいけど、本当に生きても、……いたい」


 鳴き声混じりの言葉は、ところどころ不明瞭で、分かりにくいところもあったけれど、私はただじっと聞いていた。

 鉄子の言葉を、私が聞かなくてはいけない。きっと、彼女がこの話をするのは、今が初めてなのだから。


「怖くて、申し訳なくて、今すぐここからいなくなりたい。でも、まだ生きていたいというのも本当だ。そんな私が、感染源になって人を傷つけていく。そうして、いつか誰かが死ぬ。考えるだけで、怖くてまた死にたくなって、でもその分、救われたい気持ちも強くなって」


 鉄子は、リストカット感染の感染源だ。

 鉄子に触れた人にうつるのは、鉄子の自傷衝動だ。

 ちゃんと、そう聞いていたのに。

 そんな鉄子の中ではどんな自殺念慮が渦巻いているのか、出会って間もないころは、思いを馳せていたのに。眠れない、苦しい、と聞いていたのに。

 ずっと、手首を切っている様子がなかったので、元気そうに見えたので、いつの間にか安心して考えなくなっていた。

 自分をひっぱたきたくなった。

 私が、パパ活で自業自得の危険に振り回されている中、鉄子はずっと薄氷の上にいた。そのことを、悲観もせず、恨みもせず、私に心配もさせずに。


「リツに会ってからは、少しずつましになってたんだ。それまでは、散発的に死にたさがわけもなく膨れ上がって、持ち直したかと思ったら突然反動がきたりして、しょっちゅう悶絶してたのに」


 そう言われて、いつの間にか噛んでいた唇から歯を浮かせる。


「……私に?」


 鉄子が顔を上げた。

 涙でびしょ濡れになった、雨に打たれて散りそうになっている花のような顔を。


「凄く感謝してる。このまま治るのかもしれないと思った。浮かれないように気をつけてても、希望が持てたよ。……でも、今日、リツが私のせいで傷つくことを考えたら、……今までにないくらいの、……」


 ぐうっ、と鉄子がうめいて、前のめりになった。

 戻しそうなのかと思い、背中をさすってあげようとして、鉄子に制止される。


「私に触るな」

「……手袋見せたでしょ、子供みたいなの。あれをはめて、ハンカチも持って、服越しなら……」


「だめだ。今は、布越しでも絶対危ない。離れてくれ」


 たった今までしおれていた鉄子の眼光が、野犬のように鋭くなっている。

 傷つけたくないものは絶対に傷つけないという意志が宿っていた。

 この精神力が、鉄子を支えてきたんだ。

 決して折れずに、いつかたどり着けるかもしれない希望を目指して、生きたいという自分の気持ちを信じてきた。

 その分、どれだけつらかっただろう。


 私の中に、強い衝動が湧き上がった。

 鉄子に助けられ、救われてばかりきた私が、やるべきこと。

 私が見せたというかりそめの希望を、本物にしたい。

 その想いは言葉になって、口から出た。


「……治したい」


「え?」と鉄子が目をしばたたかせる。


 どうしてもっと早く、そう思えなかったのだろう。

 そういうものだと受け入れてしまっていた自分が、情けない。


「私、鉄子のリストカット感染を、治したい。鉄子の自殺念慮ごと、なくしたい」

「……あ――」


 鉄子の目から険しさが消える。

 あまり表には出さないけど、本当は、こんなに感情豊かな女の子なんだ。

 この人を、望む通りに生きられるようにしてあげたい。


「――ありがとう。でも、無理だよ。こんな得体の知れない『病気』、どうしていいのか」

「鉄子。確か、お姉さんは同じ病気で、でも治ったって言ってたよね。私、会えたりしないかな。お話しできたりとか」


 そうだ。お姉さんは治ったと聞いていたせいで、どこか気楽に感じてしまっていたんだ。

 いつか治るものなんだと、漠然ととらえてしまっていた。


「……ああ、治ったよ。でも、だめだ」

「だめ?」


「姉さんは、だめなんだよ。確かに私と同じ、触れた人に手首を切らせるから、周囲と距離を置いて暮らす状態が何年も続いていて……」

「それで治ったなら、なにか、きっかけはあったの? 確かじゃなくても、心当たりを訊くくらいはいけない?」


「だめなんだってば。姉さんは、私が同じ病気になってることを知らない」


 さっきの、二階の部屋のことを思い出した。

 あの空き部屋のような部屋がお姉さんの部屋なら、だいぶ前からここで暮らしていないんだろう。


「お姉さんには、隠してるってこと?」

「そうだ。姉さんは別のところで暮らしてる。私が今こうなってることは、両親とおばあちゃんしか知らない。姉さんには、知られるわけにはいかない」


「どうして……?」


 鉄子は一度、深くうつむいた。

 マフラーと制服の上からでもそれと分かる細い首や肩が、折れそうなくらい沈み込んでいく。

 そしてそのまま、小さい声で鉄子は答えた。


「姉さんには、好きな人がいた。それも片思いじゃなくて、たぶん、つき合っていたんだと思う。伝染のことを知っても、傍にいてくれた同い年の男の人だった。その人も昔一度リストカットをしたことがあったけど、姉さんと出会った時には立ち直っていた。……いや、そうだからこそ、姉さんを放っておけなかったのかもしれない。私も会ったことがある。いつも明るく笑ってた。いい人だったんだよ」


 いい人、だった。


「でもその人は、ほんの一瞬の不注意で、姉さんに直に触れてしまった。リストカット経験者への感染は強烈だ。その人はすぐに、傍にあった果物ナイフで、姉さんの目の前で左手首を、とても深く、大きく切った」


 足がよろめく。

 後ろにあった食器棚に、私の背中がぶつかって音を立てた。


「もちろん、姉さんはすぐに救急車を呼ぼうとした。その姉さんの腕を、その人は右手で捕まえて、泣き叫んだらしい。誰も呼ぶな。死なせてくれ。もうあんな思いはしたくない。生きていたくない。……よほど強いフラッシュバックだったんだろうな。気圧された姉さんの腕を、その人はつかみ続けた。経験者の上に、複数回の接触――前に言った合わせ掛けだ――で、最大限の自殺念慮があの人を飲み込んでしまったと思う」


 鉄子の、硬質そうな髪と、震える肩だけが見える。

 夕暮れがやってきていて、闇を含んだオレンジ色が、台所を染めていた。

 私は、かろうじて口を開いた。


「それで……その人は……」

「死んだ。一応病院には連れていかれたけど、手遅れだった。もちろん、姉さんは見ていられないくらい憔悴して、時々暴れて、私も両親もなにも言えなかった。でも」


 でも?

 ……もしかして。


「もしかして……それで、お姉さんは治った……?」


 徹子の頭が縦に揺れる。


「いったいなにが引き金になって治ったのか、分からない。でもその何日か後から、姉さんからの伝染はまったくなくなった。きっかけになりそうなことといえば、目の前で、感染者が死亡したことくらいだ。でも、本当にそれで治るとしてだ、試せないだろ? どういう理屈で、それで治るのかも分からない。なのに私からの感染で、誰かを死なせて実験するなんでできないだろ? 姉さんにも、相談なんてできない」


 その時、頭の中に、以前鉄子に聞いた話が、閃くように思い出された。

 ――もし死んだとしても、誰も困らないような、悲しむ人間がまるでいないような、そんなやつがいないかな。これだけ人間がいる世の中で、一人だけでいいんだ。見つからないものかなーー


「鉄子が前に言ってた、死んでも誰も困らないような人間がいないかっていうのは……」

「ああ。はは。覚えてたか。そうだよ。もしそんな人間がいたら、試せるんじゃないかって、そう考えてしまうんだ、時々。でも、だめだそんなこと。私は、感染以外はまともでいたい」


 私は、くらくらする頭で、とっさながら懸命に考えて、愚かなことを言ってしまう。


「……死刑囚とかなら」

「どうやって会うんだ。それに、死刑囚だって、私のための実験台として死んでいくいわれはないよ。その人の命より、私の命のほうが価値があるとは限らないわけだしな」


「そんなわけ」

「あるさ。言っただろう。私がそのうち神経を参らせて、無差別に人波に突っ込めば、大惨事だ。そんな危険因子、とっととどこからもいなくなるべきなんじゃないか、本当は? リツも、もし殺したいくらい憎い人間がいたら言ってくれよ。私の感染なら、完全犯罪が可能だと思う。ふふ、なにしろ、手でも握れば、勝手に死んでくれるんだからな。屑野郎は死んで、私は治る。いいことずくめだよ……」


 支離滅裂になってきている。

 普段の鉄子なら、当然そんなことはしない。

 でも、今の目の前の、弱ってくずおれかけた小さな体を見ていると、安易に「あなたはそんなことしないから大丈夫」、だなんて決して言えなかった。


 追い込まれれば、人間、どうなってしまうかなんて分からない。

 世の中に自分の形が当てはまる場所がないと感じて、周りに合わせて自分を限界まで削っていく。削り切れない部分が残れば、やむなく世の中の形を変えるために周りと摩擦することになる。

 そうして傷と悲しみが間断なく生まれていく。

 逃れるためには、自分を失くしてしまうか、周りを削り取るか。

 そこまで追い詰められれば、人はきっとなんだってできてしまう。どんなに破滅的な選択肢でも、選び取ってしまう。

 止められるのは、その人の隣に立つ人間だけだ。すぐ手を伸ばせる場所にいる人間だけ。


「……治す」


 もう一度口にした私の言葉に、びく、と鉄子の肩が震えた。


「鉄子の治し方を、私が見つける。今すぐには無理かもしれないけど、それまで、私は健康この上ない状態でずっと鉄子の傍にいる。鉄子には触らない。で、死ぬどころかけがも病気もしない。事故にも遭わないし、殴り合いのけんかとかもしない。だから、私が危険な目に遭ったせいで鉄子が苦しむこともない。そういうふうに傍にいる」

「いや、そういうふうって、あのな……」


 鉄子が顔を上げた。

 その度に変わる顔つきは、今度は、落ちる寸前の線香花火みたいに頼りなくて、弱弱しくて、でも少しだけ笑っていた。


「ああ。リツといると……私は、笑っちゃうんだよな……」

「いいことじゃない」


 鉄子の涙は止まっていない。

 私の目じりからも雫がこぼれた。なんの涙だろう。私も、少し笑ってしまっているのに。


「リツ」

「うん」


「私を助けてくれ」

「分かった」


 今すぐ鉄子を抱きしめたい。

 でもできない。

 こんな思い、何度するのだろう。

 今だけでも充分だ。もう、充分。


 タオルの下で、鉄子の手首の血は止まっていた。

 もう切らせない。


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