第二章 リストカット5
手袋をした黒い手から黒いハンカチを受け取ると、まるで鉄子の体の一部を渡されたような気持ちになる。
言われた通り、まぶたをこすらないように気をつけて、ハンカチを目元にそっと当てた。柔らかくて吸水のいい布に、雫がすうっと吸い込まれていくのを感じる。
「……ありがとう。いつかと、逆だね」
「ああ。あったな、そんなこと。……リツの言ってた通りだな」
洗って返そうと思ったハンカチを、鉄子が私から取り上げてしまった。
「なにが? 私なに言ったっけ?」」
「人の涙が染み込んでも、リツのなら、全然汚れたなんて思わない」
そう言って鉄子が、私の涙が吸い込まれた部分の布を、唇に当てたので、顔がかっと熱くなった。
「ちょ、ちょっと!?」
「なんだよ。いいだろ、汚くないんだから」
「そ、それと口に当てるのは違うくない!? か、返してっ!」
「返してって、これ私の……って、わあ!? つかみかかってくるなよ、触っちゃうだろ!?」
「いいから貸しなさいっ! 洗う、洗ってくるから!」
「う、うわあああっ!? 触るな危ないっ!」
ハンカチをつかもうとする私と、ベンチの上で上半身だけをぐるんぐるん動かして逃げ回る鉄子。
いつぶりだろう、こんなに大きな声を出したのは。作り笑いじゃない、込み上げるおかしさで笑顔になる休日は。
まだ日は高い。
私は、父親のことも、パパ活相手のことも忘れて、公園の隅で笑いながら鉄子と騒ぎ合っていた。
■
「というわけで、私、いいものを持ってきたの」
「なんのわけで、……いいものお?」
鉄子が半眼で言う。
上野でばったり会った翌日の月曜日、お昼でも夏より徐々に光線が弱くなっていく太陽の下、私たちは学校の屋上にいた。
立ち入り禁止なので、ほかの生徒はいない。
相変わらずお昼休みに教室から出ていく私に、見かねた鉄子が「リツ、徘徊がいい加減噂になってるぞ。いいところ教えてやろう」と言ってここへ連れてきてくれたのだった。
この校舎の最上階は四階で、そこから屋上に続く階段は二つあるのだけど、そのうち一つの鍵が壊れかけていて、鉄子がドアノブをがちがちと何度か揺らすとあっさりと開いてしまった。
どうしてこんなところ知ってるの、と鉄子に聞いたら、「誰かさんと同じで、昼休みは教室にいづらい気分になることがあるから避難場所を見つけておいた」のだと言う。
私はバッグから、ピンク色をした厚手の手袋を取り出した。
指先が五つに分かれていない、親指と残り四本とに分かれる作りの、うさぎのマークが縫いつけられた小さい子供用のものだった。
「……それ、現役で使ってるのか? 小学生用なんじゃ?」
「そう、小五の時のクリスマスプレセントで買ってもらったの。まだぎりぎり入るよ」
「リツって背は高いのに、手は小さいんだな」
「どういたしまして。で、これをはめる、と」
私の両手が、ふわふわのピンクに包まれる。
「……まさかだけど、リツ、これで私に触れても大丈夫とか思ってないだろうな?」
「思ってるよ。マフラーとかハンカチ越しでいいなら、これでもいけるでしょ」
両手の四本指をくいくいと曲げ伸ばしして、私はおどける。
鉄子が困ったようにため息をついた。
「リツ、感染に関しては、私は緊張感を失くしたくないんだ。リツと距離が近づいたのは嬉しいよ。でも、わざわざ危ない橋を渡る必要はない」
「う。私、そんなつもりじゃ」
「ふざけてるとは思ってないよ。ただ私は、リツには迷惑かけたくないんだ」
「……ごめん。こういう感じでなら、少しずつでも、鉄子の役に立てるかなって」
私は手袋を外す。
「役に立とうなんて考えなくていいが。私からの伝染のせいで、部活の大切な大会に出られなくなった人もいるし、駅での通りすがりでぶつかって、私となんの関係もないのに苦しめてしまった人もいる。……もうごめんなんだよ、そういうのは」
確かに、ここのところ感染騒ぎがなくて、私はどこか軽く考えていたのかもしれない。
それは、鉄子の努力で事故を回避できていただけなのに。
私なんかより、鉄子は毎日の生活にひどく気を遣って生きている。
「やり方、考えるべきだったね。……反省してる」
「いや、私こそきつく言って悪かった。気持ちがありがたいよ。……でもそうだな、改めて、感染について分かってることを、おさらい含めてリツには言っておこうか。といっても、ほとんど私や姉の経験則だけど」
今までに、触るとリストカットしてしまうこと以外は、鉄子の伝染についてあまり詳しいことは聞いていない。お姉さんがいることも初耳だ。
私といる時の鉄子には気楽に過ごして欲しかったので、あんまり繊細な部分には踏み込まないようにしていた。
「まず、私の自殺念慮の異常な発達と、それによるリストカットの伝染。発現したのは私が中一のころだったんだが、これは、どうやら遺伝する」
「遺伝!?」
「第二次性徴のころに、主に女性に発症する。最初は他愛もない、通常ならすぐに忘れてしまいそうな嫌な思い出が、いつまでも頭に残っては繰り返して、さらには強まっていく。あとはその繰り返しだ。嫌な記憶に追い出されるように、いい思い出や喜ばしい出来事はどんどん忘れ去り、生きる意欲は削がれて、死ぬことだけを渇望するようになる」
聞いているだけで口の中が乾いて、ごくりと喉が鳴った。
「で、遺伝といったが、どうも隔世遺伝か、それ以上の間隔だ。うちの家系、母方で同じ体質の人が何人かいたらしい。近いところでは、もう家を出てるんだが私の姉がそうだった。あとは、おばあちゃんの妹も。早くに亡くなったけど」
「亡くなったって、二人とも? もしかして……」
いつかの鉄子みたいに、自殺念慮にとりつかれて? すうっと背筋が冷える。
でも、鉄子は手を横に振った。
「ああ、悪い、亡くなったのはおばあちゃんの妹だけ。私の姉は、……治った。この『病気』、死ぬまで続くわけじゃないみたいなんだ。治ることもある。おばあちゃんの妹も自殺じゃなくて、肺の病気が悪化して死んだらしいし」
「そうなんだ。……治るの?」
「確かな方法は分からないけど、なにかの拍子に治ることもあるってところかな。おばあちゃんが認知症になる前に聞いたところだと、妹のほかにはだいぶ遡らないと、同じ症例の人はいなかったらしい。だからおばあちゃんも、伝染を直接見たのは妹だけだってさ」
「こう、ご先祖様的な誰かが、対処法を書いた古文書的ななにか、それか言い伝え的ななにかを残してくれてたりしないの?」
なんだそれは、と鉄子が苦笑する。
「残念ながらない。あまり周囲に知られて愉快な話じゃないし、親から子供に必ずしも受け継がれるわけじゃないから、その時々での当人が亡くなればそれまで、治ればめでたしめでたしでそれまでなんだろう。孫とかひ孫に症状が出たら、じいさんばあさんが『そういえばこんな病気、聞いたことがあるわい』とか言い出すのがせいぜいなんじゃないか」
そんなものかもしれない。よっぽどの名家とかならともかく、普通の家では。
「続けるぞ。私に触れると、その人がこれまでに味わったつらい記憶が、増幅された上に繰り返しフラッシュバックし、そこからの逃避行動として死のうとして手首を切る。発症のタイミングには個人差があって、数秒でリストカットする人もいれば、数時間後の人もいる。この辺はいいよな?」
うん、とうなずく。
「自殺のためにとる手段はリストカットだから、感染者は、身動きができないようにとっ捕まえておいたほうがいいし、自失して舌嚙むかもしれないから口元にも注意だ。それで峠――遅くとも初日の夜を超えれば、自殺念慮は収まっていく」
これも、おおよそ聞いたことがある。
「で、ここからも結構大事だ。まず、一度感染源――私だな――に触れてから、自殺念慮が治まる前にもう一度触ると、死を求める衝動が格段に強くなる。ほとんど正気を保てないくらいで、会話も通じない。回復するにも時間がかかる。私はこれを合わせ掛けと呼んでる。万が一私に触れたら、二度目がないようすぐに離れてくれ」
空は晴れていて暖かいのに、鉄子の真剣な顔に、少し寒気がした。
「もう一つ、合わせ掛けでなくても、リストカットの経験がある人間も感染による自殺念慮がかなり強い。リツの妹さんと私は、万が一の接触もないよう、会わないほうがいいだろうな。ところで確認なんだけど、リツのそれは――」
鉄子が私の手首の、オレンジのリストバンドを指さす。
「――それは、違うんだよな? 前に、クラスの人たちが話題にしてるのを聞いたことがある」
「うん。ほら。さなみの手首の傷を隠すために買ってあげたんだけど、私もおそろいにしてるだけだよ」
私はリストバンドの、手首の内側をつまんでめくった。
陰の中の肌に傷は見えない。
鉄子がほうと息をついてから、言う。
「ま、触れないのが一番だけどな、そう聞いて少しは気が楽になった。リストカット経験者や合わせ掛けじゃなければ、最悪一人でも感染に耐えられないことはないからな。私は、……その時は人を呼ぶくらいしか役に立てないから」
「ん。ほかには、なにかある?」
「いや、そんなところだ。人を使って実験するわけにもいかないから、未知の部分はまだ多い」
スマートフォンを出して時間を見ると、あと五分でお昼休みが終わるところだった。
「戻ろっか」
「そうだな。ゆっくり歩けば、ちょうどいいくらいの時間に教室に着くだろう」
鉄子が立ち上がって、スカートをぱんぱんとはたく。
一人だとどこか後ろめたい昼休みの教室脱走も、二人だとまるで平気だった。
屋上のドアを開けて、階段を下りる。
眩しい外から、急に薄暗い室内に入ったせいで、目がちかちかした。それは鉄子も同じだったらしい。
油断していた。
階段から廊下に降りたところで、早歩きで教室に戻ろうとしていた女子生徒と、鉄子が正面からぶつかってしまった。
二人がたたらを踏む。
「あっ、ごめんなさい」
二年生らしいポニーテールの女子は、息を吞んでいる私と鉄子に首をかしげて、口の辺りをさすりつつ「大丈夫? 痛かった?」と訊いてくる。
「あ、いえ、痛くは……ただ……」
「そう? 一年だよね、授業始まっちゃうよ、ほら行こう」
「あの」
「うん?」
足を進めようとしていた女子は、鉄子を振り返る。
「私、一年の鈍村といいます」
「はい。あたしは、二年の鈴橋っていうの。なにか?」
「聞いたことないですか、私のこと。とりあえず、どこか安全な……」
鉄子が話している間に、私にも分かるくらい、鈴橋先輩の顔色が変わっていった。
目から光が消えて、口が半開きになり、体が震えている。
「鉄子、これって」
「……伝染した」
「私、ハンカチ越しなら平気だったのに」
「個人差があるし、今のは不用意に強く接触し過ぎた。おそらく、私の額にこの人の唇もじかにぶつけてる」
私は、さっきの鉄子の話を思い出して、反射的に鈴橋先輩の腕を握った。ひとまず、押さえ込まなくては。
けれどその手を思い切り振り払って、鈴橋先輩が走り出した。
「くそっ!」
鉄子が後を追う。
でも、鉄子が追いついても感染者を止められない。その腕をつかんでも合わせ掛けになるだけだ。
私も全力疾走で鈴橋先輩を追った。
授業が始まる間際で人通りがなくなった廊下に、三人の足音がけたたましく響く。
鉄子はほかの人にぶつからないように走るせいで、どうしても速度が乗らない。
私はもう少しで追いつく。
でも、私の手が届く前に、先輩は、2-Bの教室に飛び込んだ。
クラスメイトたちが、鈴橋先輩に話しかけてくる。
「あれ、スズ遅かったじゃん。午後サボんのかと思った」
そんな気楽な響きの声。
でも、すぐに様子が変わる。
「スズ? なにしてんの?」
私も教室の中に踏み込んだ。
鈴橋先輩は、自分のカバンからカッターナイフを取り出している。
「やめて!」
カッターを持った先輩の右手を、私が両手で押さえた。
ふうふうと荒い息をつきながら、先輩がなにか小声で呟いている。
「トウヤくん……ごめんなさい……お母さん……嫌だ……」
先輩の頭の中で、フラッシュバックが起きているのだろう。
女の人とは思えない力で、刃を出したカッターが徐々に左手首に近づいていく。
私は、あっけにとられていた周囲に呼びかけた。
「手伝ってください! 鈴橋先輩を止めて!」
ただごとではないと悟ったクラスメイトたちが、鈴橋先輩に寄ってくる。
そしてその中の一人が、教室の入り口を見て、あっと声を上げた。
そこには、鉄子が立ち尽くしていた。
「あいつ……あの黒マフラー、一年の、殺人女……」
教室内が一瞬、静まり返った。
殺人女。そんなふうに呼ばれているのか。
「え、じゃあ、鈴橋って今……例のリスカしようとしてんの?」
ざわっと教室に動揺が走り、鈴橋先輩に近づいていた何人かが腰を引かせる。
「え、じゃあ、今スズに触ったら、あたしたちも……?」
その一言で、私以外の全員が、「マジなん?」「あれほんとかよ!」などと口々に悲鳴を上げながら鈴橋先輩から遠ざかった。
何人かは教室から廊下に出たようだった。
「い、行かないで! 鈴橋さんに触ってもリストカットはしません! お願い、誰か来て! 私一人じゃ、もう……」
私の手は、今にも鈴橋先輩に振り切られそうになっていた。
でも誰も来てくれない。
「いや、お前らが自分でなんとかしろよ! お前らのせいだろ!?」
「なんでこの教室来たんだよ、出てけよ!」
怒号が飛び交う。
みんな怯えている。
出ていきます、鈴橋先輩を止められたらすぐに出ていく。
対処法は分かってるんです、このまま一晩無事に過ごせれば、だんだんよくなるの。
そう叫びたかったけど、少しでも力を抜けば、鈴橋先輩の手を止められなくなりそうだった。
「とりあえず出てけよ! とりあえずさあ!」
「スズになにしたんだよ、ばかあ!」
叫び声の合間に、私の耳に、鈴橋先輩のうめき声が聞こえた。
「切らせて……」
その力ない言葉に、私は、鈴橋先輩の顔を見上げた。
涙と、よだれも一筋垂れている。
理性の抜け落ちた表情に、ぞくりと体が震えて、ほんの少し手の力が抜けてしまった。
鈴橋先輩が右腕を振り上げる。私の手が振り切られた。
そして、刃が振り下ろされる。
夢中だった。私は、先輩の左手にしがみついた。