第二章 リストカット4
本当にそういうことだけが目的なら、暗い時間に会ってるはず。
そうじゃないっていうことは、この人も、どうしても無理矢理したいっていうわけじゃないはずだ。こっちがかたくなにだめだと言えば、なんだ本当にだめなのか、と言ってほかに行くと思う。
問題は、怒らせないこと。そのためには、態度ははっきりしていても、顔は笑顔にして、言い方に気をつけて。
「もう、だめですってばー。それなら私はもう最初から違うアレなので、ここまでですねー。もちろん、お手当はいりませんのでー」
あしらいの上手い女の子なら、ここからただお茶を飲んでおしゃべりしてお手当てをもらう、なんて展開に持ち込めるんだろうけど、私には無理だ。
「……絶対だめ?」
「そうですよ、だめですよー」
この短時間に何回だめだと言えば分かるんですか、とは思いつつも、努めて笑顔。
すると、私と十数センチの距離に接近していたカズキさんの肩から、ふっと力が抜けた。
「そっか、マジでだめな子なんだ。いくらならいいとかじゃなくて。分かったよ」
「ごめんなさいー。今日はお会いできたのに、残念ですけど」
あとは、つけられないように帰る。それでおしまいのはずだった。
そう思って、油断した。
「じゃあ、最後に、こう!」
カズキさんが、私の体を抱きしめた。
「うっ!?」
ネルシャツの肩の辺りからいきなり鼻の奥に、独特の不快感が叩き込まれた。
すえたような、濃いタバコの匂いだった。吐き気が込み上げる。
悲鳴を上げそうになった。でも、あまりの臭気に、肺が空気を吸い込むことを拒んで、吐き出すほどの呼気がなくて、声も出ない。
「くっ、……ぐ、……うえ」
あっという間に酸欠になりかけた。
この匂いを吸い込みたくない。力ずくで一度引き離さなくては。
カズキさんの胸の前に私の肘をこじ入れて、無理矢理に体を引き剝がした。ようやく、大きく呼吸する。
今の匂いが私の服や髪に移っただろうことに絶望的な気持ちになったけど、ここで錯乱して拒絶をあらわにしたら、男の人を刺激することがある。
私は余力を振り絞って、貼りついたような笑みを浮かべた。
「く、うっ……やだなー、カズキさんたら。もう、ここでお別れですからねー」
「えー、なに、今の離れ方……イラッときたなあ」
私とは反対に、彼の顔は笑っていない。
「カズキさん、さっき分かったって」
「うん、でも本当にイラッときたんで」
それがなんの免罪符になるんだろう。
この上は、どうしたらいいんだろう。
人波の中に、ちらほらと、私たちに視線を送る人が出始めた。
いよいよ、大声しかないのかな。一応バッグの中には、この間新しく買っておいた防犯ブザーと痴漢撃退用スプレーが入っている。
静かに、息を吸い込んだ時。
「おい」
聞き覚えのある声がした。
さっき、一瞬、鉄子の顔を思い浮かべた。
だから、その延長で幻聴まで聞こえたんじゃないか。
そう思った。思いたかった。
でも。
「その人、リツの彼氏か? じゃないよな? なんか抱きついてたけど」
おそるおそる、右のほうへ振り向く。
黒い長袖のトップス、黒いプリーツスカート。黒いタイツ。そして黒い手袋に、黒いマフラー。
休日でも、彼女は黒ずくめだった。
「ど、……鉄、……ここに……どうして……」
「ここの公園人通りはあるけど広いし、動物園も空いてる時はぼーっといろんな動物見られるし、私でも気楽に外出できる場所なんだよ。電車は混むから、行き帰りの方法は選ばないとだけど」
鉄子が、私とカズキさんにざっと視線を走らせる。
「……ほほお、私服は初めて見たが、そんな感じなんだな。女の子っぽいね。声も、普段より高くて甘くて、かわいいな。……でもその人、彼氏じゃないんだよな?」
見られた。
猫なで声で、男の人に好かれそうな白くてふわふわした服を着て、抱きつかれて、それでも怒ることもできずにへらへら笑っているところを。
鉄子には見られたくなかったのに。
「なんだよ、この子……マキちゃん、知り合い?」
「マキ? ああ……」と一度鉄子は首をかしげてから、「そうだよ、そのマキの知り合い。で、これから通報するところ。女の子が男に襲われてますって」
カズキさんは、チッと舌打ちして、速足で逃げて行った。
それを見送ってから、くるりと鉄子がこっちを向く。
私は、びくりと体を震わせた。
「そう、私、休日にリツ見るの初めてなんだよな。髪巻いたりはしないんだな?」
「……ストレートのほうが、好きだっていうおじさん、多いから」
知らず、顔がうつむいていく。
「ああ。なんだか、分かる気はする」
「……軽蔑……する?」
鉄子の顔が見られない。
「なにを? 私はまだ、今どんな状況だったのか完全には呑み込めてないんだぞ」
「見たままだよ、分かるでしょ? ……パパ活だから、これ」
「私はパパ活なんてやったことはないな」
なにそれ、とかっとなって、私は足元に落としていた視線を上げて鉄子を見た。
そして、すぐに冷静になった。
鉄子は、とことこと私に近づいてくる。
その眼には軽蔑の色はなかった。
「やったことがないから、いいも悪いも分からない。男が苦手だって言ってたリツが、今、どんな思いでそうしてるのかも分からないよ。だから、軽蔑なんてしようがない」
今すぐ、ワンピースを脱いで、制服に着替えたかった。
いつもの服で、いつもの距離感で、いつもの楽しい気分で鉄子と話したかった。
「私は、伝染があるからお店とかには入れないけど」と言いながら、鉄子が公園のベンチを見やる。「座って話そうか。気まずいだろうけど、このまま帰ると、リツが苦しむ気がするから。私が聞ける話、あるか?」
私は大きくうなずいた。
それから二人連れだって、ベンチに並んで座る。うっかり触れてしまわないように、一人分ほどの間を空けて。
「ん」
鉄子がトートバッグ(これも黒かった)から取り出したのは、二百五十ミリリットルの、紙パックの麦茶だった。
底のほうを私に向けて差し出してくる。
「ありがと……?」私はそれを受け取りながら、首を小さく傾げた。「紙パック? ペットボトルじゃなくて?」
「ペットボトルって飲みづらくないか? 輸送と保管には適してるんだろうけど、中身を飲むために最適化された形じゃない気がする」
「……そんなこと言ってる人初めて見た」
「いいだろ、紙パック。かさばらないから家でも捨てやすいし」
ストローを紙パックに差し込んで、中身を飲む。人肌よりも少し低い温度で、飲みやすくて、気持ちが落ち着いていく。
「私、リツが見られたくないところ見ちゃったかな」
「恥ずかしいな、とは思ってるよ……。あ、でも、売春はしてないよ。明るい時間にただお茶を飲むだけで、お金も五千円までって決めてるんだ」
そう早口で説明すると、鉄子は苦笑した。
「いや、まあ、だからいいとは思わないけど。危ないものは危ないだろ? それで満足しない男だっているんだろうから」
「うん……」」
まさに今、実例に遭ったばかりだ。
「訊いてよければだけど、なんでまた? リツ、お金が必要なのか?」
「うん。言い訳っぽく聞こえるかもだけど、進学費用」
「別に言い訳っぽくないよ、疑う理由もないし」
鉄子は当たり前のようにそう言うけど、私は、聞いた話以上のことをあれこれ邪推して、勝手なイメージを持ったり決めつけて好きなことを言ってきたりする人のほうが世の中にはずっと多いと思っているせいで、鉄子のこういう姿勢がたまらなくありがたかった。
適当に分かった気にならない。人のことなんて、知らないことのほうがずっと多いってことを理解してくれている。
鉄子は、感染がなければ、私なんかよりずっと友達の多い、人から好かれる性格なんじゃないだろうか。
「パパ活って聞けば、もちろんイメージはよくはないけどな。そんなにかわいい恰好したリツとお茶飲んで五千円なら、そんなに暴利でもないだろ」
「な、なに言ってるのいきなり」
背のこと以外に、面と向かって見た目を褒められることがほとんどないせいで、そんなことを言われると赤面してしまう。
「でも、心配ではあるよ。進学費用って言ったよな? ……別れた父親は、そういうのは出してくれなさそうなんだ?」
私はかぶりを振った。
「普通の養育費でさえ滞ってるもん」
「娘の前でなんだが、無責任って、無敵の才能だな……。全然うらやましくないけど」
「……お父さんが、盗撮とか、会社の女の人に悪いことしたって話したでしょ?」
「ああ」
「盗撮っていうのが、……未成年女の子の着替え。これが私が中学一年の時で、学校に知れ渡ったら友達がいなくなっちゃった」
「それは、きついな……」
あの時のことを今でも覚えている。
登校して、教室に入ると、一斉に向けられた視線と、これまでと全く違う空気感。
あれから人に嫌われることに臆病になった。だから一人でも平気になった。平気になったと言い聞かせた。
「リツ、無理に全部しゃべれっていうわけじゃないんだぞ」
「うん。私が聞いて欲しいの。……女の人にしたことっていうのはね、それまでもちょっとお父さんがストーカー気味だったらしいんだけど」
初めて自分から人に言う。
中学の時に、最初は町の噂として、その後は半ば公然の真実として、さんざん耳に入ってきた話。
「お父さん、その女の人、部下の女の人の一人暮らししてる部屋に、強引に上がり込んだって」
「おい」
鉄子が気色ばむ。
「結果的に、乱暴まではしなかったらしいんだけど、近いことまでしたみたい。それも、娘が受験してる時に。もちろん、世の中の男の人がみんなそんなことはしないって分かってるよ。でも、だめなの。男の人には、そんなことができる、……それを、私のお父さんがやったんだって思うと、私、男の人とまともな関係なんて作れない」
なにを言おうとしていたのか、自分でも分からなくなっていく。
いや、明確な主題なんて最初からなかった。話を聞いてくれる人に、悩みごとを打ち明けてもただ聞いてくれる人に、ただ聞いてもらいたかっただけだった。
女の人でも悪いことはするとか、悪事を性別で分けるのはよくないとか、そんなことは自分でも何度も考えたし、言い聞かせた。
そんな答を返して欲しかったわけじゃない。
正しい答が知りたかったわけじゃない。
そんな絶対的なものじゃなくて、このたかがたった一人の私の頭から湧き出す気持ちを、ただ聞いてくれる人に出会いたかった。
鉄子に、前に少しだけ吐露したせいで、その欲求のたがが外れてしまった。
いつしか、私の声は涙声になっていた。
「だから、男の人からお茶飲むだけでお金もらったって、罪悪感なんて全然ないの。良心だって痛まないし、僕はほかの男と違うとか、君のことを分かりたいなんて言う人たちいるけど、滑稽なのを通り越して全然心が動かない。頭の中で、人間扱いできなくなる。売春しないのは、倫理とか安全とかのためじゃないよ、とにかく嫌過ぎるから、そんなこと。嫌悪感に耐えられない……」
鉄子のほうを見られない。
ベンチの下にある私の足が目に入る。白くて、洗うのが大変な靴。男の人が喜びそうだから履いている。靴を作ってくれた人には申し訳なく思う。これでは虫を誘う餌と変わらない。
「さなみは――妹は、進学したいんだと思う。今は不登校だけど、将来の選択肢がそのせいで狭まっていいわけない。お母さんに、家で勉強するための参考書買ってって言って他の知ってる。もともと気が強い子なの。頑張って、なにかに挑む時がきっとくる。その時には、たぶんお金がいる。でもさなみは、あのお父さんからもらったお金で進学するかな。嫌ならほかにお金のあてなんかなくて、――」
そして、今までに何度も打ち消した想像をする。
「――さなみが、……さなみもパパ活とか、売春とかしたらどうしよう……。あの手首の傷、多過ぎて深過ぎて、もう消えないと思う……」
ワンピースの裾に、涙がとつとつと落ちた。
文字通りの水玉模様が、白い布地に淡く現れては、流れて細い線を引く。
「ん」
鉄子が低い声を出したので、顔を向けた。
黒いハンカチを差し出してくれている。
「……鉄子って、もしかして、黒以外のハンカチ持ってなかったりするの?」
「悪かったな。目、拭くなよ。腫れるから……」