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人生の再開

 外に出るともう昼だった。春特有の柔らかい風が、湊の体を掠めて吹き抜けていく。世界の音も気配も、昨日と何も変わらない。湊自身も何一つとして変わった自覚はない。だけど、湊を見送る藤とリオの存在が、湊にこの世界は変わってしまったのだと伝えている。


「本当に送らなくて大丈夫かい?」


 藤が言う。ガッチリとした肉体とそれにピタリとハマる白いシャツが、精悍な青年の色気を放っていた。しかし声色の優しさとやや下がった眉毛が、包みこむような優しさを見せる。


「大丈夫です。案外近いので、歩いて帰ります」


 変わってしまった日常を、湊はまだ受け入れきれていなかった。それなのに、藤とリオの姿が、藤の優しい言葉が、湊の頭に無理やり変化を押し込んでくるみたいで、これ以上この二人といたら湊は冷静さを保てないような気がした。少し、整理する時間が欲しい。


「明日も、本当に迎えに行かなくていいのかい?」


「はい。ちょっと整理したくて、少し一人になりたいですし」


 湊は嫌な雰囲気にならないように気をつけながら、本心を口にする。藤は「そうだよね」と困り顔で笑った。リオは居心地悪そうに湊から目を逸らす。


「じゃあ、気をつけてね」


 藤がそう言って手を振るの見て、湊は歩き出した。会社の所在地を知って湊も驚いたが、藤の会社は湊の自宅にほど近い場所にあった。十五分も歩けるば帰りつく。湊は二人に見送られながら、家に向かって歩き出した。履き慣れたスニーカーでアスファルトを踏むと、ザッと聞き慣れた音がした。


──これからどうするんだろ。


 心の中で呟いた。だが、答えは嫌でも決まっている。

 湊はそっと振り返った。藤がまだ優しそうな表情で湊を見ている。リオは少し、バツが悪そうな顔で湊を見ている。湊はふと、泣きたくなった。


──夢なら覚めてくれよ。


 だからただ願った。



──



 湊はぼうっとただ家に向かって歩いていた。日差しがぽかぽかと暖かくて、よく眠った体は軽かった。空がどこまでも青く広がっている。爽やかな日差しの中、湊は晴れない心を抱えて黙々と歩いていた。


 一歩前に踏み出した。ぐう、と小さく湊の腹が鳴って、そういえば何も食べてなかったと湊は思い出した。コンビニでも寄るか、と考えた湊の頭に、昨夜の惨劇が広がる。次いであの感じたことのない痛みの記憶が身体中に広がっていく。


 だけど、ごうっと隣を通り過ぎる真っ赤なポルシェに意識が向くと、途端に全てが消えていって、まるで全部、嘘に思えた。目の前に手を広げてぐっぱっと握ってみると、湊の中で何かが晴れた。


「はは…」


 乾いた笑みが溢れる。


──鬼に妖なんて、あり得ないだろ。


 湊は引き寄せられるみたいに、足早に歩き出した。自宅の方向からは少し逸れ、昨夜のあのコンビニに向かう。

 昨夜の出来事は全部全部ただの夢で、あのコンビニは今日も無傷で営業してる。だからそこでおにぎりを買おう。それを食べたら家に帰って、掃除や洗濯をして、月曜日に備えよう。

 湊はただひたすらにそんなことを考えていた。鬼や妖なんて言葉を真に受けた自分が馬鹿らしいとすら思った。


──ついでにレジ横の唐揚げと、新作スイーツも買おう。


 吹っ切れてしまうと、自然と口角が上がる。そこの角を曲がれば、あの家から二番目に近いコンビニまでもうすぐだ。

 湊はズボンの尻ポケットを軽く上から叩いて、財布やスマートフォンが確かにあることを確認する。


──そういえば、スマホも無傷だったな。


 画面にひび割れも無ければ、電源もきちんとついた。あんな事故に巻き込まれてスマホが無事なわけない。無傷な自分の体とスマートフォンはより一層、湊に昨夜のことが夢だと思わせた。


 着慣れた黒いパーカーのポケットに手を突っ込んで足を進める。指先にカサリと当たった小さな紙の存在は、意識から無理矢理にでも消し去った。


 一歩二歩と前に進む。角の先には見慣れたコンビニ。変わらない日常があると信じて。


 しかし


──…なんでだよ…


 コンビニに明かりはついていなかった。店先はガラスが割れてクシャリとひしゃげ、張られた規制線が風に揺れている。

 湊はポケットの中にある紙を握りしめた。少し硬い名刺の角が掌に刺さり、少しだけチクリとした。


「なんなんだよ…」


 ポツリと一言漏らして、立ち尽くす。通りがかった柴犬を連れたおじいさんが、昨日このコンビニに車が突っ込んだこと、巻き込まれたのは客が()()で、二人とも亡くなったと、そう教えてくれた。


 湊の頭の中に、拒んでいた事実が滝のように流れてくる。藤の話を聞いても冷静でいられたのは、ただただ事実を認識していなかったからだ。どこかで冗談だと信じていなかった。だが徐々に、嫌でも湊の頭が真実を受け入れ始めていく。その途端なぜだか泣きそうになって、唇を噛み締めた湊は立ち尽くした。


「え…? 湊?」


 その背中に声がした。湊が振り返ると、まるで作り物みたいなリオの顔が湊を見ていた。


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