人生の終焉3
「ねえ、どこに向かってるの?それになんで僕の傷が治ったの?そもそも君は何者?」
夜の闇の中、湊は何度も質問を並べていた。
「ああもう!いっぺんに質問しないでよ!」
しかし彼女は返事をすることなく、ずんずんと前に進んで行く。湊の右手はそんな彼女にがっしりと掴まれ、ついて行く他ない。
ひたすら歩き続ける彼女は時折鋭い視線を闇の中に向けていて、何かを探しているようにも見えた。
「ああ…気が散りすぎて全然臭いが追えない…」
彼女がぽつりと呟く。しかしその言葉は、ジーっと鳴き続ける虫の声に飲まれて消える。
「なんて…?」
「とりあえず後で説明するから、今はただ付いて来て。それと集中できないから、少し静かにしてよ」
大きな公園に近づくと緑が徐々に増えてきて、周いで鳴き続ける虫の声が大きくなった。夜の闇の中、彼女はスンスンと鼻を鳴らして視線を走らせる。
「ねえ、君は何かを探してるの?」
静かにしろと言われても、この奇妙な状況に口は開かざるを得なかった。湊は努めて静かに問いかける。
「リオ」
「え?」
「だからリオ。君じゃなくて。わかった?」
彼女は意識のほとんどを周囲に向けたまま、ぶっきらぼうに言った。
「えと…何が…」
「察しが悪いな。アタシの名前に決まってるでしょ」
大きなアーモンドアイに見つめられて、湊の口からは「ごめん」の三文字だけが溢れる。
「で、アンタは?」
「な、なにが?」
「名前、アンタの。アタシは名乗ったでしょ」
「湊、夏目湊、です」
湊が答えれば、リオは興味のなさそうな声で「そう」と返した。それから黒のセーラー服によく映える赤いリボンを解いて、湊の血が流れる手の甲を指差して言う。
「湊、これでその血拭きな」
「え、でも…」
リオは湊を呼び捨てで呼んだ。その服装からリオは湊よりも歳下に思えたが、反応するのも無駄に思えた。
「こんなの幾らでも買えるもの。それにその傷、さっきアタシが付けちゃったヤツでしょ。だからほら、さっさと拭きな」
湊が受け取るのを躊躇っていると「ほら早く」とリオ自ら湊の傷にそのリボンを押しつけた。リオの小さな手で湊の血が拭われる。
「はい。あとは自分でやって」
「あ、ありがと」
ここまでされたはもう同じだと、湊は素直にリボンを傷口に当てた。それなりに深かい傷口から溢れた血がリボンに滲んでいく。
しかし先程まで、湊の体にはこれ以上深い傷が幾つもあった筈だ。それなのに今、それは何処にも見当たらない。「治った」よりも「戻った」に近い。湊はなんとなくそう思った。
「ねえ、もう一度訊くけど、リオは何かを探してるの?」
傷口を覆うようにリボンを巻いてから、湊はもう一度尋ねる。
いつの間にかコンビニから離れ、近くの公園の中に来ていた。陸上競技場や野球場などの運動施設から、子どもが遊べる遊具までを備えた広大な土地の公園は、昼間は利用者で溢れているものの、今はぽつぽつと並ぶ街灯がぼんやりと周囲を照らしているだけで閑散としている。
「うん。探してる」
「僕も探すの手伝おうか?」
「いや、これはアタシの仕事だから大丈夫。やることが終われば説明するから、今はただ着いてきて」
死ぬほどの怪我が消えた理由も、何を探しているのかも、何者なのかも、リオは何一つ教えてはくれなかった。こんな奇妙な状況など、さっさと放棄して帰ることも出来るはずなのに、湊はそれができずにいる。
気がつけばリオは湊の腕を解放していたが、湊は素直にリオについて行った。
「湊さ、すごい甘ったるい匂いがするんだけど、何つけてるの?」
「甘い匂い?」
「うん。嫌な感じの甘い匂い」
湊は香水も、濃い香りのする柔軟剤も使ってはいなかった。なんの匂いだろうかと自身の腕を鼻に寄せる。
「あ、さっきの缶チューハイだ。持ったまま車に潰されちゃったから、破裂して手に着いたみたい」
湊の手、傷を負った左手とは反対の右手が、缶チューハイで濡れて少しベタついていた。
「アタシ。その匂い嫌い」
言われてみれば気がつく程度の香りだったがリオは鼻がいいらしい。形のいい眉をぐっと顰めた。
「そんなに匂う?」
「うん。それに探してる臭いと混ざって探しにくい。洗い流してくれたらありがたい」
「わかった」
リオは公園に設置された噴水を指差した。
湊自身そこまで匂いは気にならなかったが、ベタつくことが気になり始めて素直に噴水に向かう。夜の噴水は水を噴き出すことを辞めていたが、溜まった水はゆらゆらと揺れながら循環していた。
噴水の脇にしゃがんだ湊は、街灯の淡い光を反射する水に手を浸す。心地いい冷たさを感じながら右手を水の中で何度か揺らした。すると隣に立っていたリオは「悪いね」と静かに呟いた。
「リオ、大丈夫?」
「何が?」
ふと、湊は隣で周囲を見渡すリオに声を掛ける。しかしリオは周囲に意識のほとんどを向けたまま、ただ淡白に答えるだけだった。
「なんだか、顔色が悪い気がして」
ぼんやりとした街灯に照らされたリオの肌は、湊の瞳に驚くほど白く映った。それは薄暗い闇の中にいるからではないような気がする。
「別に、普通だよ」
「そっか」
湊は水の中から手を解放し、立ち上がった。それからリオを真似るように臭覚と視覚を研ぎ澄ましてみたが、何も見えないし春の空気以外は感じられなかった。聴覚は依然、虫の声に揺らされている。
「湊ってさ、格闘技とか武道の経験ってある?」
「ないけど」
「まあ…だよね」
尋ねておいて、湊の体を上から下まで順に眺めて答えるリオの視線に湊は少しムッとした。
百八十には少し満たない身長と長い手足、少し広い肩幅とそこに乗る小さめの頭、そのスタイルは随分と整って見えるが全体的に線が細い。
「ちょっと前にボクシングを二ヶ月、いや一ヶ月かな、くらいはやってたけど」
リオの視線に少し反発するように、湊はモゴモゴと口にした。あまり疲労感ですぐに挫折してしまったが、ジムに通っていたのは事実だった。
「じゃあ、パンチがなんぞやってことぐらいは、分かってるわけだね」
リオの声色が纏う空気が少し変わる。視線は闇の中、一点を見つめていた。
「全て終わったら説明するからさ、ちょっと大人しく待っててくれる?」
それからそう告げると、リオは見つめる先にゆっくりと足を進め始めた。湊は釣られるように、リオの視線の先を追う。
それは街灯の光がほんの僅かに届く場所だった。うっすらとした灯りに照らされる、ほとんど闇みたいなその場所に其れが居た。
「え…あ、あれ…な…?」
またしても、湊の口が言うことをきかなくなる。だが、数刻前とは違う。痛みや出血で体が意思と違えているのではない。目の前のものに思考が追いつかず、吐くべき言葉が見当たらなくてハクハクと鯉のように口が動くのだ。
「やっぱり湊にも見えてるね。そう、あれがアタシの探し物。で、アレを倒すのがアタシの目的。それが終わったらちゃんと説明するから、湊は大人しくそこで待ってて」
リオの足が向かう先、そこには奇妙なものが居た。
それは一瞬だけ見れば、古ぼけた着物を纏った小さな老婆にも見えた。しかしギョロリと動く黄色く濁った大きな目と、爬虫類のようにひしゃげた顔が異様な雰囲気を放っている。それが大きな口をカクカクと動かしてケタケタと笑えば、その異様さは一層濃くなってゆく。
「ね、ねえ、リオ…あ、あれは一体…?」
「後で説明するから、今は待ってて」
リオは人差し指を真っ赤な唇に当てて港を静止すると、どんどんその奇妙な何かに近づいていく。真っ赤な唇とは反対に、頬はやはり真っ白だった。
「フヒヒ。自分カラ来タ。オマエ、馬鹿ダ」
金属同士を擦ったような嫌な声でそれは話す。その声に湊の足は地面に根を張はせ、情けなくそこに縫い付けた。
「馬鹿で結構。やれと言われれば、やらなきゃなないのが仕事なの」
「仕事ッテ、人間ミタイナコト言ウ。フヒ、馬鹿ダ」
「そうだね。でもアタシのは信頼関係で成り立ってるの。馬鹿にされる筋合いはないよ」
そう言うと、リオは地面を強く蹴った。光る街灯に影を伸ばしながら、奇妙な何かに向かって行く。
「オマエ、ヤッパリ弱ッテル。死ンジャウヨ。フヒヒヒ」
人とは思えな速度で突っ込むリオを、その奇妙な何かはケタケタと笑った。真っ黒な服を纏ったリオは闇に溶けてしまいそうなのに、何故か鮮明に湊のの目に映る。
「うっさいなあ。死ぬのはお前だってば!」
「フヒヒ、フラフラ、ヨワヨワガ馬鹿言ッテルネ」
リオの握りしめた拳をヒョイと躱して、それは笑った。それから素早く跳ねて、小さな手をリオの綺麗な顔に伸ばす。リオはなんとか上体を捻ると、その手を躱した。
「ヒヒ、限界ダ」
リオは躱した弾みでバランスを崩す。地面を転がり、再度手を伸ばしてくるそれから距離を取るように後退した。
「オマエ倒シタラ、俺モ強クナル。フヒヒ」
それを追うように奇妙な何かは跳ねる。
「ああもう!馬鹿にすんな!!」
転がり、街灯の下で照らされるリオは真っ白だ。立ってはいるものの、フラついているのが湊にもわかる。それは先ほど人とは思えない速度で跳ねた人と同じだとは思えない程だ
そのフラつくリオの頭部に、奇妙なそれの小さな手が伸びる。骨張った皺ばかりのその手に、湊は鳥肌が立つような嫌な感覚を覚えた。
「へへ、オマエモ眠レ」
醜い手がリオの綺麗な曲線を描く額に向かうのを見て、漸く湊の足から生えた根が解けた。地面をパンと弾くように蹴って、リオの元に駆ける。自分でも驚くほど、体が軽かった。
「リオ!」
湊に格闘技の経験は無い。だが、別の経験ならあった。落ちていた空き缶を拾うと、湊はブンと腕を振る。放られた空き缶はカコンッと音を立てると、爬虫類の如き奇妙な顔の側面で跳ねた。
「オマエ、ナンダ!邪魔スル奴、キライ。死ネ!」
湊は昔、野球を経験していた。しかし、ここまで素早く空き缶が走り、命中するとは思いもしなかった。やつの意識をリオから反らせればいい、それくらいに思って投じたはずなのに、思わぬ状況に湊は「うわぁっ」と情けない声を上げる。
ぐりんと勢い振り向き、黄色く濁った双眸が湊を捉えた。そのまま小さな体は駆け出し、湊に向かってくる。
「うわっ!ちょっと、ごめんなさい!」
あまりの勢いに、湊はバタバタと慌てて逃げ出した。普段の運動不足が嘘のように動く。これが火事場の馬鹿力だろうか。
「邪魔スル奴、キライ!」
金属を擦ったような嫌な声が、湊の鼓膜を揺らした。
──え、待って、どうしたら…!
咄嗟に反応して缶を投じた湊にこれ以上の策は無く、必死に走ること以外やるべきことがわからない。
「もう、大人しく待っててって言ったのに。でも、ありがとう、助かったよ」
そんな湊にリオの声が届いた。リオは真っ白な顔はそのままだが笑っている。
「これ、使うつもりは無かったんだけど、ちょっと借りるね」
そう言って噴水に近づく。そして何か秘策があるのか、水の中にぽちゃんと手をつけた。そんなリオはどこか不敵な余裕を放っていて、湊は少しだけ安堵した。
しかし、
「はぁ?なんでなんで!?なんで何も起きないの?!」
リオの言葉通り、そこからは何も起こらなかった。
「ねえ、嘘じゃん!湊って絶対これじゃん!」
リオは叫ぶ。しかし叫びたいのは湊も同じだ。ひしゃげた顔が徐々に近づく。
「ねえ、ちょっと、リオ、どうしたら!」
「とりあえず逃げて!なんとかするからちょっと待って!!」
「ウルサイ、ウルサイ、ウルサイ!」
夜の公園には妙な声が響いていた。
「まさかこっち?!」
リオは真っ白な顔のまま、近くの花壇に駆け寄った。それから花壇の土や草花、自らの首元から引っ張り出したネックレスに触れる。
「ねえ、嘘!これでも無いの?!まさか契約がおかしくなってるとか?!」
そしてそのまま呟く。
「ちょっと、リオ!ほんとヤバい!助けて!!」
「オマエ、ウルサイ!!」
徐々に距離を詰めたそれが、湊の頭に醜い手を伸ばす。その手はやはり嫌な感覚を放っていて、湊の体が恐怖に包まれた。
その瞬間、ざわりと首元から力が抜けた気がした。
「ギャー!!」
しかし、聞こえた悲鳴は金属を擦ったような醜いものだった。何故か、やつが纏っていた古ぼけた着物が燃えている。
「湊が火なんて似合わないのに。まあいいや。扱いやすいくて助かるし」
そう言ったリオは、どこからか取り出したらしいライターを左手に握っていた。それはチッと鳴ったかと思うと小さな炎を灯す。
「湊、ごめんね。もうちょっと借りるよ」
リオは先程と同じ言葉をまた呟いた。そして左手の中で揺れる炎に右手を寄せる。しかしそこには煙草も何もない。ただその瞬間、ぼうっとその様子を見つめていた湊の力が抜けた。そして目の前が、ごうっと赤に染まった。
「アヅイッ!アヅイィィ!!」
それからまた、嫌な声が響く。その声を遠くに聞きながら、湊の意識はプツリと切れた。