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人生の終焉

 人はいつか死ぬ。

 そんなこと、誰もが知っている。

 だけどその《いつか》を、《今》だと思ったことはない。


 あの時までの僕もそうだった。 


 あの日、僕を襲った眩い光と轟音は

 僕の目の前に逃れようもない死を連れてきた。


 ───君は悪くない。

    ただ、君が手にした運が

    どうしようもなく悪かったんだ。


 そんな死にかけの僕に彼女は言った。


 ───アタシは君を助けられるけど


 僕を見る憐れみを少しの含んだ目と

 綺麗で、美しくて、可愛らしくて、

 どこか冷たさの残る顔。


 ───それはきっと《救い》じゃない。


 いろんなことを含めた言葉は

 死にかけの僕には理解できなくて、

 聞き返えそうにも力はなかった。


 ───だから可哀想な君の、最期の言葉くらいは聴いてあげるよ。


 直接的な言葉は理解できた。

 だから停止寸前の頭で必死に考える。

 だけど僕には、思いを伝える相手も

 伝えたい想いもなかった。


 そんな彼女は、また僕に何かを伝えた。

 僕も、ハクハクと殆ど音にならない声で

 何かを応えた。


 僕は《いつか》、死にかけたあの日のことを思い出すだろう。

 きっと僕は、本当に運が悪かった。


 その最悪の上に、偶然のような必然が重なって、

 僕はこれからも生きていく。

 


 ───



 地面を踏むスニーカーの音が夜の空気を震わせて、ジーッと鳴く虫の声がその隙間を埋めた。

 初春、金曜、午前零時前、一人で過ごす虚しい週末。


 田舎と呼ぶには明るすぎて、都会と呼ぶには静かすぎる住宅街を、夏目湊(なつめみなと)は歩いていた。高卒で就職して一年と少し、二十歳の夜は想像の何倍も冷めている。


 湊は世界的にも有名な大企業の工場に勤めていた。金持ちとは言えないものの金に困ったことはないし、社会的信頼の厚さからか一人暮らしでも苦労したことはない。


 だがそこには、刺激もなかった。目の前を流れるソレに、決められた手順でパーツを施すだけ日々。もとより趣味を持たない湊には、通帳の零が少しずつ増えること以外の楽しみがない。ただただ平坦な毎日が続いていく。


 そんな生活に嫌気が差すのか、湊と歳の近い先輩は何人も会社を辞めていった。同期もすでに転職活動を始めている。皆、口を揃えて「やり甲斐のある仕事がしたい」とそう言うのだ。


 もちろん湊の脳裏にだって「転職」の二文字は現れる。だが今ある金銭的な余裕と社会的地位を失うこと、それから持ち合わせない学歴が湊の足に枷を嵌めた。


 ──これからどうするんだろ。


 内心で呟く。

 持て余した暇を解消すべく、財布と携帯、家の鍵という最小限の荷物を尻ポケットに突っ込んで、何となく始めた夜の散歩は身軽なはずなのに気持ち悪いほど重かった。


 少し古いデザインの家や、色のくすんだ背の低いアパート、苔の緑を上乗せした白い家とそれらを照らす薄暗い街灯が並ぶ住宅街はどこか息苦しくて、足早に通りすぎる。二つ先の角を曲がれば、道の先に家から二番目に近いコンビニの光が見えた。

 

 住宅街の少し先、大きな公園と高校近くのそのコンビニはまるで夜の海にポツンと浮かぶ船にも見える。夜の虫みたいに、湊はコンビニの白い光に吸い込まれた。


「あ、このポテチ、あゆちゅんが美味しいって言ってたやつだ」


 来店を告げる軽快なベルの音に重なった、女の甘ったるい声に無意識のため息が漏れる。香水の重たい匂いが絡みつく。


「あ?だれ、あゆちゅん?」


今度は湊のため息に重なるように、男の声がした。


「えぇ〜、この間も教えたじゃん。私の好きなアイドルだって!すっごく可愛いんだよ!」

「ああ、そうだそうだ」

「ひっど。もう知らないから!」


 夜のコンビニは静かで、男女の会話がよく響いた。


「ねえねえ。それでさ、これも買っていい?」


 もう知らない、と宣告した女は会話を続ける。


「そんなんこの時間に食ったらデブかウシかブタになるぞ」


 デブ、ウシ、ブタ、どれか一つでよかった。

 湊は店内を進む。特に買いたいものがあって来たわけでもない湊は、ぶらぶらと狭い店内を一周する。レジでは長い金髪と、赤く腫れた吹き出物を幾つもこさえた若い男がぼうっと待っていた。


「ねぇ、ほんとに私が買ってくるの?」

「さっきじゃんけんで負けただろ」

「そうだけどさ〜。恥ずかしいじゃん」


 ふらふらと歩けば、綺麗に整列した棚の隙間に先ほどからの声の主を見つける。いつの間にか会話のネタは変わっていて、揃いのグレーのパーカを着た二人はこれからの夜に使うであろう小箱を押し付け合っていた。女の短いズボンから伸びたムチムチと肉感的な脚が、動きに合わせて緩やかに揺れる。昼間の熱を忘れた初春の夜は、少し肌寒い筈だった。


──これだけ騒いでたら、もうどっちが買おうと同じじゃん。


 湊は頭の中で二人に伝えてやる。

 湊には小柄で地味だけどどこか可愛らしかった彼女以来、女性の影はない。高校二年の夏、空が一際青かったころのことだ。別れた理由なんてもう覚えてないけど、学生のそれなんてそんなものだと思う。


「ねえ、本当に嫌なんだけどぉ。恥ずかしいよ」

「しょうがねえな」


 結局、男の方が小箱を手にしてレジに向かう。抱えたカゴにはスナック菓子といくつかの酒が転がっていて、男の歩調に合わせて揺れた瓶がカチャンと高い音を立てた。反対の腕には女が絡みついていた。


──だから、二人でレジに行ったら同じじゃん。


 もう一度、頭の中で呟く。それからこれは、断じて嫉妬じゃないんだと付け加えた。

 工場の中という社会は、出逢いに対する期待を薄れさせる。恋人が欲しいと強く願ったことはないが、この平坦な日々に少しの刺激は欲しかった。


『俺の人生の主人公は俺自身だ』


 ふと、陳列された週刊誌が視界に入る。ボロボロの少年の横にデカデカと書かれた文字が頭の中を掠める。


──僕の人生の主人公も僕自身だ。でも、この舞台にスポットライトは無い。一生平坦で、通行人Bのまま、僕は僕の人生を終えるんだ。


 何故か無性に虚しくなって、フラフラとドリンクの棚まで歩いて桃味の缶チューハイを手に取った。酒はとくに好きでもないけど、何故か無性に飲みたくなったのだ。ドリンクを並べた冷蔵庫は店内の明るさに反射して世界を写す。湊はすこし切れ長だけど優しそうと評される自身の瞳と目が合った。


 自身が見つめる扉を開けて、良く冷えたそれを手にレジへ向かえば、吹き出物が痛そうな金髪の男が慣れた手つきで男女の買ったものを袋に詰めていた。

 小さな箱が一番最後に、ひどく丁寧な手つきでしまわれる。男はその様子を静かに眺めていた。女は飽きたのか、レジ前に置かれたクジの景品たちをぼんやりと見つめている。


 この二人もきっと、二人の人生の主人公だ。こいつらの人生にスポットライトはあるのだろうか。湊は自問してみたが、その問いに対する答えは生憎だが持ち合わせてはいなかった。

 漸く回ってきた順番に、湊は支払いを済ませて缶チューハイを受け取る。店員は吹き出物を歪めながら「ざいます」と小さな声で日本語らしきものを口にした。袋は要らないと伝えて握ったそれが、緩やかに手の温度を奪っていく。


 店の外に出れば、春の夜が昼間の熱を忘れたみたいに冷たくて、無意識に黒いトレーナーの袖を指先まで伸ばした。この時期によく聞こえる虫の声が、ジーッと響いていて季節を伝える。


 これから数時間続く、いつもの淋しい夜が再度湊を包んでいった。


「えっ?」


 その時、酷く間抜けな音が湊の口からぽつりと漏れた。スポットライトがないはずの人生で、夜の闇の中、明々と湊は照らされる。少し前を歩いていた筈の男女の影と、湊の影がすっと長く伸びていく。間抜けな音を漏らした口が閉じ切る前に、大きな音が空気を揺らした。結ばれていたはずの男女の手が解け、女の肉感的な体が宙を舞う。男の体は闇に飲まれていった。


「は?」


 初めて見る光景に、湊の口からまたしても言葉にならない音だけが漏れる。体が縫い付けられたみたいに固まって、ギシギシと音を立てるようだった。


──あ、ヤバい。


 湊がそう認識した時には、バコンッと金属がへこむ様な大きな音が鳴った。この音が自らの体からなったのだと認識すれば、全身に酷い痛みと衝撃が走る。


 時間にすれば一つ呼吸をするくらいのものだと思う。気がつけば湊は、ぐちゃぐちゃに凹んだ白い乗用車のバンパーとコンビニの壁に挟まれていた。

 体の奥から表層までを覆う痛みと燃えるような熱、それでいて何故か感じる寒気を湊は知らない。体が異常なほど震えた。


「…ひ、あっ…、け、警察…、救急…車…」


 音を聞きつけた先ほどの店員がなんとも情けない声を上げる。パクパクと動く口からはほとんど呼吸だけが漏れ、溢れた音は辛うじて言葉になり湊の意識を繋いだ。


 割れたガラスの一欠片が地面を叩いて、パキンッと軽い音を立てる。


「あ、で、でん…わ…」


 頭から血を流す湊を見て、男はパタリと崩れ落ちた。

 湊はコンビニの白い光を反射するガラスの欠片を見ながら綺麗だと思った。そのキラキラを眺めていると、虫がジーッとならす音も、緑と土を含んだ柔らかい春の匂いも、どこかに遠のいていく気がした。

 痛みも、熱も、寒さも、色々なものが消えていく。


 スマートフォンは尻のポケットだ。だが挟まった体は動きそうにないし、動けたはずの男はもう床に伸びた。


──もう、だめかな。


 湊はゆっくりと目を閉じる。流れる川に浮かんでるみたいで、逆らうよりもこのまま眠ってしまった方が楽だと思った。

 意識が遠のけば遠のくほど、楽になる。


「あ、おーい。死んでる?まだ死んでない?」


 しかし、ずんと沈みかけた意識は奇妙なほどに軽い言葉に絡め取られた。

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