第92話:秘匿される契約
……クッ⁉
地上でルシエルと剣を交えていたクオンは、その暴流する力と力の衝突に身構える。通常の瞳ではその姿を視認することができないほどの上空で生じた爆発。それにも係わらず、地上に降りかかる余波はクオンですら直視できない。ルシエルもまた、聖力を障壁のように展開することでその身を護り、天使と悪魔の相性差がまともに通用していない事に諦観の心情を浮かべる。
やがて、光も爆風も止む。魔力の残滓が苦衷を漂い、千切れた草花が風に乗せられる。土煙が舞い上がり、雲は掻き消されていた。
土煙は漸く消え去り、その中に浮かんでいたクィクィとアルピナの視界も晴れ上がる。濃密な魔力のみで構成された魔剣が火花を散らし、クィクィもアルピナも純白の歯を嚙みしめて力を籠める。金色の魔眼が陽光を受けて眩く輝き、焔の如き眼光を散らす。アルピナの黒髪もクィクィの黄髪も、雲がなくなった青い空の下で靡き、妖艶で可憐で冷徹な戦意が漂う。
「……ハッ⁉」
ルシエルの精神に支配されたクィクィは瞠目する。本来なら正常な感情は機能していないはずだが、しかし彼女の眼前にはそれすらも凌駕する光景が広がっていた。
「流石、純粋な力だけではワタシを凌駕するだけのことはあるな、クィクィ。しかし、まだ足りないな」
笑みを浮かべてクィクィの一撃を受け止める。それでも、その相好と異なって内実はそれほど余裕がある訳ではなかった。この世界に住む全ての神の子の中でも数少ない死亡経験がないクィクィは、さすがのアルピナでも無視できないほどの力を有している。更に、幾星霜の彼方よりアルピナとジルニアの小競り合いを仲裁し続けてきた経験がその実力を底上げしている。故に、クィクィより古く相性上不利であるはずのルシエル達よりよっぽど脅威足りえるのだ。
この一撃を皮切りに、アルピナとクィクィの戦いは激化の一途を辿る。轟音と暴風が吹き荒れ、魔力と魔力が衝突する。アルピナと同じ魔力を持っているクオンですら近づくことはできず、相性上有利かつクィクィに精神支配を施しているルシエルもまた相応の覚悟を必要とする有様だった。神龍大戦が最も激しかった時期を彷彿とさせる光景は、もはや地上の地獄と形容して差し支えない。
仮にこの場に、いずれの神の子の支配も受けていない人間がいたらただでは済まなかっただろう。唯一、町に滞在している四騎士がそれに該当するが、だからこそセナには細心の注意を払いつつ監視と保護をしてもらう必要がある。
流石だな、クィクィ。こんな事なら、龍達にも協力を願うべきだったか? いや、ジルニアを殺害したワタシが望んだところで、彼らが素直に手を貸してくれるわけはないか。
それでも、と彼女は心中で溜息を零す。
いずれ彼らの手を借りる必要があるだろうな。その時には、せめてログホーツあたりは協力してくれるだろうか?
クィクィを前にして思うのは、彼女とは直接関係しないアルピナと龍の関係性。ジルニアとの一件を契機に発生した両者の確執は、10,000年経ってなお根強く燻っていた。そんな中、彼女が数少ない希望として名を挙げるのが龍王ログホーツ。クィクィの幼馴染にしてジルニア亡き後の龍を指揮する龍王。龍人が僭称するそれと異なり、ログホーツこそ真なる龍王として君臨する絶対の存在。
現時点では到底かなわないであろう願いを渇望しつつ、アルピナは舌打ちを零す。しかし、得られないものは仕方ないのだ。それはアルピナが最も理解している事。皇龍を殺害するという、人間にとってみれば自らが命より大切に信仰している神を失うことと大差ない大罪を浮かしたのだ。その恨みと怒りに気付かないほど蒙昧ではない。
アルピナの魔眼が一層の輝きを放つ。クィクィとの闘いは疲れを知ることなく加速する。爆発と轟音は間断なく吹き荒び続ける。
さあ、続けようかクィクィ‼
一方スクーデリアは、アルテアとアルバートを伴って町の大路を歩いていた。空を飛んで移動したいところだが、アルバートが飛べないため仕方なしの手段だった。少々見通しが悪いものの、魔眼があれば大した支障足りえない。金色に輝きが町を詳らかにするとともに、各所で繰り広げられているルシエルの精神支配潰しを浮かび上がらせる。
イレギュラーな恐慌状態で露呈したルシエルの精神支配の痕跡は、聖力の残滓となって魂の表層に浮かび上がる。それを町に降り立った魔物が刈り取ることで、人間の精神はルシエルの牢獄から解放される。
そうした一連の流れは、どうやら順調に行われている様だった。しかし、そんな滞りがない光景の中でスクーデリアは神妙な瞳で不安を過らせていた。
「どうしたの、スクーデリア?」
アルテアは尋ねる。一見して予定通りに見える光景のどこに不満や疑問がるのか理解できなかった。
「いえ、何でもないわ。ちょっと気になる事とすれば、四騎士達の動きね。セナから連絡がないから問題ないとは思うけど、これだけ騒ぎを起こして大きな動きがないのがちょっと気になるわね」
「確かにそうね。セナの魔力も普段と変わらないし、戦いになってるわけじゃないよね」
事と次第によっては大問題になりかねない事を知っているスクーデリアとしては、ちょっとした平穏すら却って不穏の種だった。
そんな彼女の不安の原因を知ってか知らずか、アルバートは提案を投げかける。従属を通り越して隷属に近い魂の完全降伏はあまりの変貌に憐憫の情を向けてしまいかねない。しかし、そんなヒトの子を多く見てきたスクーデリアにとってはどうということでもない光景として処理されてしまうのだった。
「スクーデリア様、よろしいでしょうか?」
「あら、どうしたのかしら?」
「……四騎士と面識がある私が様子を窺って参りましょうか? これからする一芝居も、私が四騎士側にいる方が円滑に進められるかと?」
スクーデリアは思案する。アルバートは実力的にも申し分なく、可能なら今後とも有効活用したいと思っている。故に、不必要なリスクで契約の紐帯が切れるようなマネはしたくなかった。特に、四騎士はいずれも強大な力を持っている上にルシエルの精神支配に関与していない部外者。その上、政治的枢要に関与できるだけの聡明さも併せ持っている。故に、微かな兆候すら見せるわけにはいかないのだ。
「……そうね、お願いしようかしら。でも、その為には相応の準備をする必要があるわね」
スクーデリアはアルバートに手を翳す。体内を循環する魔力が急速に高まりつつ手掌に集約される。金色の魔眼が輝きを増し、鈍色の髪が無風の中で靡く。その時、彼女の体内で急増する力に呼応するように背中から二対四枚の翼が生えて大きく羽ばたいた。アルピナより一対少ない翼は彼女より位階が低いことを示し、他の大多数の悪魔より一対覆い翼は彼ら彼女らより位階が高いことを示している。一時的とはいえ悪魔公の代行を務めていただけの彼女。その実力は折り紙付きなのだ。
スクーデリアの魔力がアルバートの胸元に魔法陣を構築する。それを介して流れ込むスクーデリアの魔力が彼の魂に手を加える。契約により彼の魂の表層に植え込まれたスクーデリアの魔力が、彼の魂のより深層へと埋め込まれる。針に糸を通すより繊細な操作で魂の深奥へと至る過程は、スクーデリアですら容易ではない。そうしてより内奥へと潜まされたスクーデリアとの契約の証は、もはや誰の聖眼や魔眼、龍眼にも映らなくなった。セツナエルですら騙しうるほどのそれは、誰よりも魔力操作に長けたスクーデリアにしかできない御業。
感動的なまでのそれにアルテアは感心と尊敬と羨望の眼差しを向けている間に、アルバートの魔力秘匿は完了した。
「これでいいわ。契約は続行したまま、その痕跡は完全に秘匿されたわ。これで、天使相手でもだませるでしょう」
行ってきなさい、とスクーデリアはアルバートに命令する。畏まりました、と頭を下げたアルバートは屋根から飛び降りてアエラとエフェメラがいる場所へ向かうのだった。
次回、第93話は12/29 21:00公開予定です。




