第86話:不穏な空
しかし、ヒトの子は気づかされる。ヒトの子は所詮ヒトの子でしかなく、神の子と呼ばれる上位者から見れば管理すべき家畜同然の価値観しか持たれていないのだ。天使も悪魔も龍も、全てヒトの子を適切に管理しようと手をかけているだけなのであり、共生しようと手を差し伸べているわけではないのだ。
その時だった。レインザードを含む一帯の上空が突如、黄昏色に染まる。日の出から数時間程度しか経過していない早朝。まだ店も疎らにした開かず、日中ほどの喧騒も飛び交わない様な肌寒い時間帯だった。
それにも拘らず空中に浮かび上がったのは、まるで夕暮れ時の様な空模様。誰もがそれを怪訝そうに見上げ、この世ならざる減少に興味と不安が入り混じった相好を浮かべる。
アルバート達も同様に、周囲の人々と変わらない相好でそれを見上げた。自然現象か、或いは超常の存在による作為的な産物か。区別はつかないながらもそこから零れ落ちる様に知覚される不快感から、それは何らかの意思が介在した産物であることを確信する。
「あれは……?」
エフェメラは尋ねる。しかし、その答えを聞かずとも、朧気ながらにそれが何か理解していた。不快な感情に頭を痛めつつ、額に冷たい汗を浮かべながら彼女は息をのんだ。それを脇目で一瞥しつつ、アエラもアルバートもカーネリアも揃って最悪の事態に頭を悩ませるのだった。
「ついに魔王達が動き出したか? 黄昏空の中心は町の外の様ですね」
「ええ。アルバート、カーネリア。一足先に行ってきてもらえる? 私達は、この町の兵力を可能な限り集結させてから向かうわ」
アエラの提案に、アルバートもカーネリアも迷うことなく了承する。少しでも早く、少しでも被害を少なくするために、それぞれはそれぞれの使命を果たすべく駆ける。
身に纏う金属製の武器防具がぶつかり合い、甲高い音を奏でる。関心高く黄昏空を見上げる民草達の合間を縫って、アルバートとカーネリアは町の入口へ向かった。
やっぱり、妙に平和すぎる。恐慌状態で統率が取れないよりは幾分かマシだが、それにしたってもう少しは不穏な空気が流れてもいいものだが……。
アルバートは、民草の態度を観察しながら心中で呟く。魔王という存在が公になっていないことも大いに影響しているのだろうが、レインザードの住民たちはほぼ全て平穏無事な心情を保ち続けている。興味関心が強いものは足を止めて上空を見上げ、そうでない者は普段の生活に戻りつつある。ラス・シャムラと異なり常日頃から魔物被害を珍しく思わない生活スタイルの影響は、事実として緊急的に命の保証が核できなくなった時に悪影響を及ぼすのだった。
「とにかく急ごう。これが本当の恐慌状態になって手が付けられなくなる方がよっぽど大変だしさ」
「ああ。わかってる」
アルバートとカーネリアは、風のように大路を駆け抜ける。人々の隙間を縫うように抜け、漸く見えた関所門に飛び込んだ。
「あっ、英雄様‼」
「悪いが、すぐに扉を開けてくれ」
普段の丁寧な物言いは鳴りを潜め。焦燥感に駆られた粗雑な発言は、彼達をよく知る兵士達を瞠目させる。しかし、それは事の重大性と深刻性を担保する証拠となり兵士達の心に緊張の糸を張らせる。
「畏まりました。それにしても、あの空は一体何事なのでしょうか?」
「きっと魔獣です、それもかなりの規模の。皆さんは、町の人達がパニックにならないように統率をお願いします」
アルバートはもしもの場合に備えて願い出る。現状の彼ら彼女らの態度を思えば不要かもしれないが、しかし最悪は想定しておくべきだった。それに、アエラとエフェメラにより町の兵力の大半は町の外に動かされる。その為、こうした関所に務めているような兵士達こそが町の治安維持に必要不可欠なのだ。
「畏まりました。英雄様方もどうかお気を付けて」
双方が双方に敬礼を送る。アルバートもカーネリアも軍に籍を置いた過去はないのだが、こうして魔獣を対峙し続けているとどうしても習得してしまう。
そして、安全上の理由により少しだけ開かれた門からアルバートもカーネリアも町の外へ出るのだった。
町の外は静謐だった。魔物どころか動物一匹その姿が瞳には映らない。凪いだ高地はなだらかに下り、黄昏色の空だけが不自然に見下ろしていた。
「どうなってる?」
アルバートとカーネリアは周囲を見渡す。少しでも不穏な影があればそれを決して見落とすまいと心に決め、目を皿にしてくまなく索敵する。耳が痛くなるほどの静謐な空間は、心臓の鼓動だけが痛いほどに聞こえる。緊張と不安で鼓動が加速し、手掌には汗が滲む。いつでも対処できるよう剣を抜き、アルバートとカーネリアは背中合わせになる。
「どう思う、アルバート?」
「さあな。でも、何かある。それだけは確信できる」
冷たい風が静かに流れ始める。カーネリアの黄色い髪が仄かに揺れ、甘い香りがアルバートの鼻腔に齎される。しかし、だからと言って気分が安らぐ訳でも無ければ警戒心が緩む訳でも無かった。無言で真剣な相好を浮かべたまま、四つの瞳で周囲を見渡す。
「ほう、やはり来たか」
その声は、突如として聞こえる。果たしてどこから聞こえているのか。まるで心の中に直接語り掛けられているような感覚だった。
アルバートもカーネリアも、そろって視線を上下左右に泳がせる。僅か数秒でしかないそれは、彼らの心では数十秒にも感じられた。無防備な身体を曝け出しているという感覚が更に彼らの不安心を煽り、それがさらなる時間感覚の失調を齎していた。
そして、二人は同時に町の外壁の上を見る。首が痛くなるほど高く聳える純白の外壁。陽光に照らされて美しく輝くその上端に腰掛けているのは一人の少女だった。
足を組み、宛らピクニックにでもきたような妖気で朗らかな態度を浮かべているのは、彼らが魔王と呼び警戒する少女だった。肩程まで伸びる黒髪には青い差し色が輝きつつ風に揺れる。猫のように大きな瞳はやや吊り上がり、その中で輝く青い眼光は鋭く光り輝いていた。黒を基調としたコートは男性的で、その下で揺れる黒いスカートの下から伸びる雪色の大腿は少女らしい可憐さと妖艶さを醸し出す。
「アルピナ……!」
可憐な相好で見下ろされてはいるが、しかし可愛らしさを一切感じさせない圧倒的なまでの威圧感。剣を握る手が震え、出来ることなら逃げ出したくなるほどの恐怖が心の中で渦巻いている。
「てっきりあの四騎士とやらと一緒に来るものだと思っていたが、その様子だと別行動か?」
「何か不都合でもあるの?」
まさか、とアルピナは笑う。たかが人間が数人増えたところで、彼女にとって何一つ問題にはならない。絶対的な強者としての自負に満ち溢れた彼女は、変わらない笑顔を浮かべたまま二人を見つめた。
やはり、あの天巫女は来なかったか。いや、まだ来ない方が双方のためか?
変わらない可憐で冷徹な微笑みの仮面を外すことないアルピナは、その裏で不穏な心情を心中で浮かべる。人間には到底理解できない超常の存在が歩んできた、幾星霜の過去が生んだ奇妙な相性関係に警戒しつつ、アルピナは心を転換して眼前の人間に意識を戻す。
「こちらの話だ。……さて、無駄話に花を咲かせたところでワタシ達と君達との間に有効な関係性が気付かれるとは到底思えない。ワタシは兎も角、君達がそれを拒絶するだろう? 故に、早速だが計画を実行させてもらう」
アルピナの青い瞳が金色の魔眼に染め変わる。そして、魔力が込められた右手を翳すと高らかに指を鳴らした。
次回、第87話は12/23 21:00公開予定です




