第84話:ルシエル
イルシアエルもテルナエルも、揃って相好を歪める。開かれた聖眼から大量の情報が流入し、許容量を超えた情報が頭の中で強く打ち付ける。それでも、その聖眼を閉じる訳にはいかなかった。彼女達が我が君と呼び慕う天使長セツナエル、そして彼女と同格にして対となる存在である悪魔公アルピナ。嘗ての神龍大戦では数えるほどしか目撃することが出来なかった幻の組合せが眼鼻の先で繰り広げようとしているのだ。
「どうする、行ってみる?」
テルナエルはイルシアエルに尋ねる。決してセツナエルの安否を心配しているのではない。ただ純粋な興味関心に由来する野次馬根性だった。決して手が届かない強者同士の戦いでも、そこから得られることは少なくない。ただでさえ貴重な組み合わせだったのが、それによって興味の拍車が回される。
しかし、そんな興奮冷めやらぬといった具合で尋ねるテルナエルに対してイルシアエルは至って冷静さを保ったまま足を組む。そして、その瞳を閉じながら徐に彼の提案を否定した。
「いや、やめておくべきかな。私達が行っても邪魔になるだけ。寧ろ、余波で殺されかねない。そうなったら、貴重な戦力が更に減るでしょ?」
「うーん……そっかぁ」
琥珀色に移り変わりつつある夜空を眺めながら、テルナエルは溜息を零す。地界の外縁を覆う保護膜が融解し、龍脈が顕現する。天使にとって相性が悪い龍の力の根源である龍脈。触れずともその後悔は絶大であり、チクチクと肌を刺すような痛みを覚える。
本来、空間としての龍脈は龍の根源としての龍脈と異なり天使に影響を及ぼすことはない。そうでもなければ、天使は天界から出られない事になってしまう為だ。しかし、今回は何故か龍脈に影響を受けている様だった。それはまるで、龍脈ではなく竜そのものが地界に影響を及ぼしている様だった。
「龍でも出てくるのかな?」
「龍か……単独でもかなり厄介だけど、アルピナ公達と手を結ばれでもしたら……」
神龍大戦は神の意志の代行者である天使と、神の抑止力兼抵抗力である龍とそれに協力する悪魔との間で行われた。その為、龍と悪魔が手を結ぶことは三度目の神龍大戦の勃発を意味するのだ。しかし、いくらテルナエルやイルシアエルとはいえ神龍大戦の再来は勘弁願いたいもの。戦力が不足している今、龍を相手に戦うことだけはなんとしても避けたい思いだった。
しかし、そんな二柱の願いに応えることなく琥珀色の空は更なる範囲拡大と深みを増す。やがてこの星に到達し、大気中の組成が龍脈に置き換わり始めるのも時間の問題だろう。それにも拘らず、セツナエルもアルピナもその力の放出を止めることはない。天魔の理の上限いっぱいでありながら、まるで意味をなさない。二柱にとって、それは危険でも何でもなくちょっとした遊び程度の力でしかないということを暗に示している様だった。
その時だった。二柱の背後で鎮座する扉が三度叩かれる。コンコンコン、と軽快ながらもしっかりと響くそれは、二柱のもとに来客が来たことの知らせ。しかり、扉を開けようとした二柱だったがその脳裏には疑問符が残る。
『誰か来る予定なんてあったっけ』
精神感応で尋ねるテルナエル。しかし、来客が来る予定があった覚えはないイルシアエルは迷うことなく否定する。
『いや、来客の予定はなかったはず。そもそも、人間の生活からしてこの時間に来客が来る可能性なんて……』
二柱は、それぞれ金色の聖眼を扉の奥に向ける。見えない物を露わにするその聖眼は、確かに扉の奥にいるであろう一人の人物を捉えた。しかし、それが更なる疑問を発生させてしまった。
力を持たない人間であれば、魂を秘匿することはできず、その全てを詳らかにされてしまう。しかし、扉の奥にいるであろう人物の魂は完全に秘匿されている。テルナエルやイルシアエルほどの強者であっても欠片ほどの魂すら探すことができない。其れにも関わらず、そこには確実に人間がいると確信できる奇妙な状況だった。
暫くの無言が流れた。互いが互いの出方を窺い、琥珀色の空はもはや意識の外だった。テルナエルもイルシアエルも、それぞれ聖力を溢出させて恐る恐る扉に近づく。よほどのことがない限り負けることはないだろう。しかし、二柱をして一切窺うことができない魂の秘匿技術を持つ相手となるとその可能性は減少の一途を辿る。候補としては二つ。スクーデリアかルシエル。仮に前者であった場合は最悪の事態を想定しなければならない。最悪、この町が消え去る可能性すら考慮しなければ自分たちの肉体が死を迎えかねないのだ。一方、後者であった場合は朗報であれう。自らの上位者であるルシエルとは一度会って話をしようと常々考えていたのだ。その為、二柱はルシエルであることを期待しつつ相手の出方を窺うのだった。
その時、そんな二柱の考えを読みとったのか扉の向こうから声が漏れ聞こえる。
「あッ、ごめんなさい。魂を秘匿したままだったね」
声に合わせて、扉の奥から溢出するのは強烈な聖力。イルシアエルやテルナエルのそれを上回るほどのそれは、二柱が幾度となく感じてきた自分たちの上位者のものだった。
「ルシエル様でしたか。こちらこそ申し訳ありません」
慌てたようにイルシアエルは扉を開ける。木製の扉が軋音を奏でながら動き、その奥からは一人の少女が姿を見せた。
その少女の名はルシエル。シャルエルと同格の天使であり、その生まれは神龍大戦が勃発する遥か以前。生きた時間に保有する力が比例する神の子である以上、その実力は折り紙付きだった。セツナエルにこそ及ばないものの、純粋な聖力はこの世界に駐在する天使の中で上位五本には入るほど。悪魔や龍を加えた神の子全体に対象を広げても上位10本には含まれるのだ。
ルシエルは朗らかで人畜無害で可憐な笑顔を浮かべつつ、二柱に招かれて部屋に入る。そして、近場のベッドに腰を下ろすと、疲れたように息を零した。
イルシアエルが用意した茶とテルナエルから貰った菓子を受け取りつつ、彼女は琥珀色の空を気に留めることなく身体を伸ばした。
「お疲れですか?」
「ええ。ここ暫く人間社会に紛れてたもの。でも、なかなか楽しめるよ。本来の目的も忘れそうなほどには」
フフッ、と他人事のように笑うルシエル。可憐なようにも妖艶なようにも見える彼女の振る舞いに、一切の恐怖はない。まるで同世代の友人と一つ屋根の下で談笑しているかのような気楽さを二柱はそれぞれ抱いていた。
「でもさ、ルシエル様? 僕達に何の用? やっぱり、あの空の事?」
「ええ。それもあるけど、あれは我が君に委ねればいいわよ。それより問題は、明日以降ね」
「明日以降?」
どういうこと、とテルナエルは首をかしげる。英雄達と同じく、テルナエル達も状況をイマイチ把握できていないのだ。
「数日前、アルピナ公とスクーデリアが魔界から魔物を引っ張って来てたでしょ? あの後、何回かスクーデリアが魔界に戻ってるみたいなの。もしかしたら、今度は新生の悪魔を連れてくるかもしれないわね。それに町長の公邸に英雄と四騎士が終結した時、多分アルピナ公と契約を結んだあの人間らしき影が侵入してたわ。これに関しては我が君も知ってる事よ」
つまり、とイルシアエルはルシエルが言わんとしていることをそれとなく察知して言葉を続ける。
「今度は悪魔がレインザードを襲撃するということですか?」
「ええ、人間側の動向を把握して、最も効果的な時間帯を見計らっているのね」
ルシエルは笑顔なく、ただ溜息を零す。これまでのアルピナ達の動向を考えれば、もはや笑っていられるだけの余裕は何処にもなかった。
次回、第85話は12/21 21:00公開予定です




