第82話:宿の中③
しかし、だからと言って二人に何かできることがある訳ではない。いくら英雄の領域に足を踏み入れようとも、所詮は人間でしかない。非人間的な超常の力の前に、人間は無力にならざるを得ないのだ。
漆黒の宵闇の崩壊は続く。黄昏色の空は更に深みを増し、魔王を前にした時と同じ不快な悪寒と恐怖心が全身を襲う。嘔気と目眩が憎悪し、不可視の剣で全身を切りつけられたような苦しみに苛まれる。
アルバートもカーネリアも、揃って膝を付く。最早まともに立つことすらできなかった。聖眼も魔眼も龍眼も持たない二人には、黄昏空から落零する龍脈を知覚できない。故に、それが持つ力を脳が処理できず、全て不快な感情と心身の苦痛として反映される。
魔王と相対した時を遥かに上回る感覚に、アルバートもカーネリアも絶望する。何れ戦うであろう魔王も同様の力を有している可能性が高い以上、このままでは例え天地が反転しても勝てる見込みがないことが嫌というほどわかってしまうのだ。
「俺達は完全に蚊帳の外ってわけか……」
アルバートは、震える膝を手で抑え込みつつ、辛うじて保ち続けている理性で吐露する。間断なく襲撃する不快感に歯を食いしばり、禍々しく輝き続ける黄昏空を睥睨した。
まるで、この世ならざる世界と接続していそうな予感すら感じさせるそれは、今にも地上に落下してきそうな重圧感を与える。圧し潰されそうな不安が体内を駆け巡り、彼の横で同じく府座を付くカーネリアもまた同様の想いを抱いていた。どれだけ藻掻き苦しもうとも決して届かない領域で繰り広げられている、と本能が警鐘を鳴らす。非現実的な光景は、彼女の心に諦観の可能性を見出し始めていた。
しかし、それでも彼らの瞳だけは燻ることなく焔を灯し続けていた。どれだけ非現実的で強大で未知の敵だろうとも、レインザードに住む多くの民草の安全を守るためであれば毅然と立ち向かえるだけの覚悟を魂に秘めていた。
今回の一件に巻き込まれるまで、二人は自分のために魔獣を討伐していた。非合法的なルートだが高値で取引される角を目当てに、二人は剣を振るい続けてきた。それが今では、同じ町に暮らすだけの他人の生活を守るために戦っている。利己的な心情から利他的な覚悟へと変質した彼らの魂は、英雄として更なる領域へと踏み込みつつあった。
それでも、頭上で着実に広がりつつある黄昏色の空を前にしては全てが無意味であるかのように思わされる。
どれくらい経っただろうか、刹那的な短さの様でもあり無限大の長さのようにも感じられる時価が流れる。黄昏色の空は時間と共にその濃さを増し、それに伴って不快感と苦痛は増大する。これが日中なら、町の中は完全な恐慌状態へと陥っていただろう。数日前に消滅したラス・シャムラと同じ轍を踏み歩く未来しかなかっただろう。
しかし、レインザードの町にその未来は訪れなかった。魔獣の被害によりヒトの子の命が完全に根絶やしにされたラス・シャムラの二の舞を味わうことはなかった。
それまで猛烈に襲い続けていた不快感と苦痛が消失し、アルバートとカーネリアは互いに眼を合わせる。そして、二人は本能的に空を見上げた。黄昏色の空とこの苦痛の因果関係に客観的な証拠があるわけではない。しかし、状況からそうとしか考えられなかった二人としては至極当然に反応だった。窓枠や壁に手をかけて立ち上がった二人は窓から顔を覗かせて目線を上に向ける。そして、その瞳に映る光景に瞠目するのだった。
「空が……」
「……戻ってる⁉」
先程までに非現実的な黄昏色の夜空は徐々にではあるがその規模と濃度を縮小させ、その背後に隠されていた漆黒の宵闇が再び顔を覗かせ始めていた。満天の星々に真円の月輪。これまでの平和な時と何ら違わない星々の絨毯は、まるで何事も無かったかのように変わり映えしない光景を映してくれている。
薄れゆく黄昏空も、やがてはもとの漆黒色に戻るだろう。根拠がある訳ではないが、何故か自然とそう思えた。
「よかった……のか、一先ずは?」
「そうだね。あのままだったら、絶対無事じゃすまなかったと思うし。それにしても、何だったんだろう? あんな現象、これまで見たことも聞いたこともないし」
やれやれ、とばかりに壁にもたれ掛かって溜息を零すカーネリア。大量の疲労感がドッと圧し掛かり、まるで一仕事終えた後の様な気怠さが全身を支配していた。
「俺もないな。だが、一先ずはこれで良しとしよう。幸い、町の住民が騒ぎを起こしてる様子も無いからな」
窓から上半身を乗り出したアルバートは、大路の端から端まで目を凝らす。どの家も灯りが消え、完全な夜の微睡みと夢の誘いに心身を預けている様だった。
そうして一先ずの安心を確保したアルバートは、窓から身を引いて近くのベッドに身体を預ける。安心感の到来は彼に眠気も呼び込み、大きな欠伸と共に瞼の重みが増す。いつもならもう寝ている時間だった。故に、彼はその眠気に抗う意思を放棄して微睡みに促されるままに意識を手放そうとする。
しかし、彼自身がそれをしたいと思っても状況がそれを許さなかった。
カーネリアはアルバートと異なり、仮初の安心感に満足することなく漆黒の夜空を見続けていた。状況がどうなるかわからない恐怖心はそう簡単に融解するわけではない。いつ状況が反転しても対処できるように警戒心の糸は張りつめたままだった。
そんな中、彼女は何気なくそれまでとは別方向の夜空を見上げる。それは一見してなんてことない夜空。満点の星々が瞬き、涼しい夜風の中で白銀の美風景を齎してくれていた。
しかし、そんな純粋で静謐な夜空の中で蠢く小さな影。背後に浮かぶ星と相対的な大きさはそれほど変わらないだろう。加えて漆黒な宵闇にあってその姿を捉えることは容易ではなかった。しかし、彼女の眼はそんな謎の物体の正体を確実に捕らえていた。
「ねぇ! アルバート、あれ見て!」
カーネリアは入眠しつつあったアルバートを叩き起こすと、窓の外に広がる宵闇を指さす。その先に蠢く小さな影を追いかけ、彼女は警戒心を高める。
「ったく……今度は一体何だ?」
眠たげな瞳を凝らして、アルバートはカーネリアに促されるまま窓の外を見る。彼女の指先を追いかけて、その先に広がる宵闇を探す。それは、広大な砂漠の中で一匹の蟻を見つけろというレベルで困難なもの。しかし、カーネリアがこれほどまでに声を張り上げているのだ。嘘偽りであるはずがないとアルバートは確信していた。
しかし、アルバートの眼ではそれを探すのは容易ではなかった。決して目が悪いわけではないが、カーネリアの眼が良すぎるのだ。その瞳は広大な平原において何よりも頼りになるもので、アルバートはそんな彼女の瞳に幾度となく助けられた経験がある。その為、例え見つけられなくてもそれが存在しないと決めるのではなかった。寧ろ、自分の探し方が悪いのだと目を皿にして探し続けた。
そしてついに、カーネリアが指し示そうとしているものが何であるかを理解したアルバートは、ハッと息をのんだ。
「カーネリア、あれは……‼」
「うん、多分魔王じゃないかな? 一人足りないけど、可能性として十分にあると思う」
先程の黄昏色の空。それが魔王の仕業だと仮定すれば、客観的な証拠がないとはいえ一定に信憑性波得られるだろう。未知の存在が未知の事象を生じさせても、それに矛盾が生じることはない。寧ろ、未知であるが故の神秘的な信憑性すら無条件に得られるのだ。
「やっぱり、さっきの空って……」
「だろうな。寧ろ、そうであってほしいがな。これ以上、未知の敵を増やされても困るからな」
それで、とアルバートはカーネリアを見ることなく尋ねる。その瞳は、一切の瞬きをすることなく二つの影を追いかけ続けていた。
「追いかける? 追いついても、また軽くあしらわれるだけだと思うけど……」
アルバートは逡巡する。今いるのは深夜の町の中。あまり大きな騒ぎを起こすわけにはいかない。それほど騒ぎを起こせるほど肉薄できる自信はなかったが、しかし可能性として考慮しておきたかった。
そもそも、魔王と思しき影は空を飛んでいる。追いかけようにもその手段がなかった。
「いや、やめておこう。追いかけようにも空を飛んでる相手を追いかけらる自信はない。それに、こんな町のど真中で騒ぎを起こしたら、間違いなく避難が間に合わないからな」
アルバートもカーネリアも、その陰から視線を外すことはなかった。手の出しようがない無力感に苛まれ、アルバートは舌打ちを零した。
次回、第83話は12/19 21:00公開予定です。




