第81話:宿の中②
それで、とクオンは視線をアルピナとスクーデリアに戻す。
「そっちはどうなんだ?」
「私の方は問題ないわ。明朝には開始できるそうよ」
「ワタシの方は少々懸念が残るな」
珍しく弱気な発言を零すアルピナの様子に、クオンは面喰ったように瞠目する。そして、背もたれに預けた身体を起してその仔細を問いかける。
「珍しいな、お前がそんな弱気な発言をするなんて。それにさっきの騒ぎと言い……一体何があった?」
「ワタシとて万能ではない。天使長にしろ悪魔公にしろ皇龍にしろ、神の子とは言えども須らく何らかの欠点を有しているものだ」
神の子はあくまでも神によって創造された生命の一欠片。能力に多少の差異はあれども、創造の理由や糧においてはヒトの子と何ら差異がないのだ。神の子もヒトの子も、最初の一粒種が神の手によって創造されたのであり、他者の手によって創造された以上何らかの欠点や不備があったところで何ら不自然ではないのだ。
「そうかもしれないが……」
「英雄の仮面を剥がすには必然的にルシエルと敵対しなければならないが、そこに天使長が加わるとなるのが問題だ。ワタシやスクーデリアなら地界の安全を無視すれば負けることはないだろう。しかし、地界を守りつつ君も守らなければならないとなると話が変わる」
アルピナは紅茶を口に含む。口腔を芳醇な香りが満たし、吐息が微かに白く染まる。ティーカップをすぐ横の机に置いた彼女は、改めて溜息を零して憂慮する。古の時代から繰り返されてきた戦いの歴史が何よりもの証拠として彼女の自信を奪い、耐えがたい不安となって重く圧し掛かる。
「悪魔公であるワタシは天使長であるセツナエルとは同格にある。つまり、両者の雌雄を決する要素は純粋な相性による。君も知っての通り、天使は悪魔に強く、悪魔は龍に強く、龍は天使に強いのが神の子の間に定められた相性関係。即ち、セツナエルはワタシに強く、ワタシはジルニアに強く、ジルニアはセツナエルに強い。ジルニア亡き今、あの子を止める手立てというのは限りなく少ない」
「この剣はどうなんだ? ジルニアの力が宿っているこの剣なら多少は効果があるだろ?」
「ああ。魔力で強引に力を引き出さねば扱えないワタシでは不可能だが、君なら効果はあるだろう。しかし、それは剣が当たればの話だ。君程度の力では触れることすらできないだろう。それに、ワタシと君との間には契約が結ばれている。それが完遂される前に、君を死なせるわけにはいかないからな」
何より、とアルピナは心中で呟く。読心術を使おうとも決して見透かされることがない深層心理で紡がれるそれは、短くも長い時の果てに手に入れた約束の続き。
ワタシの為にも、君に死なれては困るからな。ワタシとジルニアとの間に紡がれた約束は、誰にも邪魔させるわけにはいかないだろう?
「だったら、どうするつもりだ? このままだと計画が全て破綻するぞ?」
「いや、計画を変更する必要はない。恐らく、セツナエルが表に出てくることはないからな」
どういうことだ、とクオンは尋ねる。未だ顔すら見たことがないセツナエルという天使の性格など知る由もない彼としては、それを尋ねることは至極当然の反応だった。
「ワタシとセツナエルが対面すれば、また地界が崩壊を始めるだろう。先程は時間帯のお陰で大事にはならなかったが、明朝ともなれば多くの人間の眼に触れる。天使の存在が公に認知されては、あの子としても行動が制限されるだろうからな」
それでも、とスクーデリアは慎重な瞳で紅茶の水面を見つめる。不穏な空気を体現するように波打つ水面は、蝋燭の火を仄かに照り返して紅色に染まっていた。
「最悪の場合は想定しておくべきでしょうね。最悪、地界を再び戦場に変えることだって厭わないでしょうし。貴女だって、それくらい覚悟の上でしょう?」
「極力避けたいがな。何より、戦力が足りなさすぎる現状では戦争状態にすら持ち込めないだろうからな」
アルピナは立ち上がる。そして、徐に窓際まで歩み寄るとそのまま窓枠に腰掛ける。夜風が吹き込み、黒に青いアクセントが入った肩程の髪が靡く。宵闇に溶け込む漆黒のコートに身を包み、月光を背にしてクオンをジッと見据えた。脚を組み、黒いスカートの下から伸びる雪色の大腿が蝋燭の火に当てられて妖艶に色づく。
どうした、とクオンは尋ねる。しかし、アルピナはそれには答えずに頬杖をついたまま無言で彼の瞳を見続けた。
奇妙な時間だった。無限に感じる体感時間と決して長くはない絶対時間の乖離は、両者の間に不可視の糸となって結ばれる。
やがて満足したのか、アルピナは微笑を浮べて再度立ち上がる。そのまま入り口扉とは違うもう一方の扉の方へと歩いてドアノブに手をかける。
「そろそろ休むとしよう。ワタシやスクーデリアは兎も角、君は人間の肉体。睡眠が必要だろう?」
ああ、とクオンは首肯する。そして、アルピナは何も言わずに暗がりの隣室へと消えていった。
「どうしたんだ、アイツ?」
「あの子にも事情があるのよ。暫くはそっとしておいてあげなさい。いずれ、いつもの調子に戻るわ」
スクーデリアは空になった三つのティーカップを片付ける。そして、アルピナの背中を追うように隣室へと消えていった。クオンは一人残り、短くなった蝋燭に灯された火をジッと見つめるのだった。
アルピナとセツナエルが10,000年ぶりの邂逅に花を咲かせている頃、アルバートとカーネリアは心身の疲労を癒していた。決して高価でもなければ安価でもない、町の中では平均的な宿の一室。燭台に立てられた蝋燭に灯された火が、室内を仄かな赤色に染める。吹き込む風に火が煽られることで、その灯りもまた揺れる。心地よい温かさが心地よい眠気を誘い、翌日に疲労を残させないための行動を促す。
しかし、アルバートもカーネリアも眠る気にはなれなかった。特別何か用事がある訳ではなかったが、心の憶測に燻る悪寒がそれを妨げていた。言葉では言い表しがたい不確実性の恐怖は、近い将来に人間社会に深い災禍となって楔を打ち込む気配すら感じられた。
考え過ぎだろうか? ここ数日に渡る非現実的な出来事が、二人の脳にネガティブな思考回路を形成してしまったのだろうか?
螺旋の拘泥へ嵌り込んだように、二人は無言で窓の外を見つめた。気分紛れに口に入れる紅茶は、どうもいつものような美味しさが感じられない。温かさも冷たさも感じず、乾いた喉を潤わせる作業のようにしか感じられなかった。
平和な夜空。満点の星々が今日も大地を見守ってくれている。涼しい夜風が戦ぎ、束の間の安らぎを手繰り寄せる様に虚空を泳いだ。
しかし、その平穏は無情にも終わりと告げる。二人の心に燻る不穏の種が発芽し、心臓の鼓動が急激に加速する。痛くなるほど強く打ち付ける鼓動が、体外にまで漏れ聞こえそうなほどに鳴り響く。呼吸が浅速し、脳が欠乏しかける酸素を欲するように頭痛と目眩を発生させる。
「何だ……あれは?」
アルバートとカーネリアは、揃って窓から顔を覗かせる。漆黒の夜空が融解し、その背後から黄昏色の空が顔を覗かせる。オーロラとは異なる、もっと別次元の何かだった。この世の者とは思えない、まるで此岸と彼岸が連続した末法世界の様な絶望空にしか見えなかった。
瞠目するアルバートとカーネリアは、言葉にならない声を漏らし、浜辺に打ち上げられた魚のように口を開閉する事しか出来なかった。
やがて、漸く言葉を発せる様になり始めたカーネリアは途切れ途切れに話し始める。
「わからない……でも……普通じゃないのはわかる……」
二人の脳裏に浮かんだのは三人の魔王。彼ら彼女らが、何らかの計画のためにこのような事態を招いているのではないだろうか。そんな予想が過った。未だ正体の欠片すらつかめていない存在。眼前で広がっている非現実的な事態を引き起こせるだけの力を有していてもなんら不思議ではない。寧ろ、数多の魔獣や魔物を従えているのだからこれくらいは平気でできていてもおかしくないとすら思えてきた。
次回、第82話は12/18 21:00公開予定です。




