第80話:宿の中
宿の前に降り立ったアルピナとスクーデリアは、それぞれ金色の魔眼を開いて周囲を見渡す。深夜とはいえ町の中。大事の前ということもあり、空を飛んでいた姿を人目に見られているわけにはいかないのだ。場合によっては適切な方法で処分することすら視野に入れつつ、二柱は魔力の視線を宵闇の通りに巡らせる。
しかし、どうやら近くに人間はいないようだ。いたとしても全て建物の中でほぼ全員が入眠状態に。僅かに起きている者もいるが、それらも全て窓から少し離れたところにいるようだ。
そして、アルピナとスクーデリアは宿に入る。誰もいない広間を抜け、手すりが付いた広い階段を昇る。足音が静寂の中で反響し、仄かに灯る蝋燭の火が風に揺れる。暗く寂しい光景だが、それは彼女達にとってはどうでもよいこと。どれだけ暗かろうとも悪魔である彼女達の視界には影響を及ぼさず、どれだけ耳が痛くなるほどの静謐な空間だろうとも隣に並び立つ友人がいる限り決して寂しくはなかった。
そもそも、悪魔は人間ほど密集した社会性を持たない。故に、多少の孤独であればそれは彼ら彼女らに問題や支障をきたすことはない。寧ろ、アルピナやスクーデリアのように常日頃から行動を共にしている事の方が珍しいまである。
多くの悪魔は眷属として魔物を従える。人間にとっては本能的行動で跳梁跋扈しているように顰めない彼らも、悪魔の指示であれば素直に従うことができる。その為、多少の雑事や移動手段として有効的に活用されている実態があるのだ。
それに対して、アルピナもスクーデリアも、眷属として従える魔物の数は少ない。まったくのゼロという訳ではないが、それでも彼女達の種族的な格から考えれば少なすぎるほどだ。
しかし、彼女達はそんな些末事を気にすることはない。寧ろ、その高すぎる能力が魔物を多数従えることを拒否している。彼女達ほどの力量に至ると、態々他者を頼らなくても自分で全て賄った方が早い場合の方が多いのだ。
しかし、そんなアルピナでも自分一人ではどうしても成し遂げられなかったことがある。それが、龍魂の欠片を始めとする今回の一連の出来事の解決だった。ジルニアの意志を始動とする一連の計略は、アルピナの処理能力ですら対応しきれないほどだった。
「さて、明日に備えるとしようか。さすがのワタシも、油断していては足元をすくわれかねないからな」
「あら、珍しく弱気な反応ね。いつもの強気な態度は何処へ行ったのかしら?」
「当初はルシエルだけを相手にするつもりだったからな。テルナエルとイルシアエル程度であれば計画を変更しなくても対処できたが、セツナエルがいるともなれば話は変わる。ワタシが一度たりとも勝ったことがないことくらい、付き合いが長い君なら知っているだろう?」
過去を懐かしむように、アルピナは心情を吐露する。数十億にも及ぶ悪魔としての長い歴史がセツナエルの実力を補強し、嘗ての神龍大戦時を思い起こさせる不安と警戒心を生み出す。不敵な笑みを浮かべるが、それは見方によっては虚勢にも見える。
アルピナは扉を開ける。軽い木製の扉は、しかしそれなりに頑丈なつくりをしている様だった。材木が軋むような音を立てて徐に開いた空間から二柱は入室する。中では、一人掛けの椅子に腰かけるクオンが二柱を一瞥していた。手にしている本と机に置かれた紅茶から、それなりの平穏で平和な安らぎの時を過ごしていたのだろう。
アルピナはすぐそばのベッドに腰を下ろすと、その可憐な瞳でクオンを見つめた。柔らかな髪が仄かに揺れ、猫の様に大きな瞳の中で浮かぶ青い瞳が蝋燭の火に照らされて眩いほどに輝いていた。
「何だが、随分と外が騒がしかったな」
「流石に気づいていたか」
感情が読み取れない冷たい瞳でアルピナは呟く。そんな彼女の態度に呆れる様に、クオンは本を机に置いて溜息を零す。
「あのな、あれだけの騒ぎを起こして気付くなというほうが難しいだろ。幸い、夜中だったお陰か大した騒ぎにはなっていないようだが……」
やれやれ、とばかりにクオンは背もたれに身を預ける。染み一つない天井を無言で見つめ、空いた窓から吹き込む夜風に身体を当てる。
「済んだ事だ。それより、調べはついたか?」
「ああ。どうやら、四騎士の二人は英雄と手を組んだようだな」
「英雄と?」
「まあ当然の判断だろう。四騎士はプレラハル王国の中で王族の次に高い権力を持つ組織。人間レベルを超えた存在なんて、平和が遠ざかる現状だと喉から手が出るほどに欲したい人材だからな」
逸脱者とアルピナ達が呼称する領域は人間にとって希望の光と同等の価値がある。平和な時代においては寝首を掻き切りかねない不穏分子として貴族王族達から警戒されかねないが、魔獣被害の拡大を前にしていてはそんな政略戦争をしている暇はないのだ。
ところで、とアルピナは尋ねる。
「四騎士とやら人間社会においてはどういう役割だ? 10,000年前の人間社会にそんな文化があった覚えはないが……」
「確か前身組織の設立が10,000年程前だったからな。丁度、お前が地界を去るとの入れ違いだったんだろう。主に国王の指示で王国全土の平和と発展のために行動する部隊で、その内容は戦闘から政まで様々だ。カルス・アムラの森から戻るときに王国軍と遭遇しただろ? あの時に俺が話してた男も四騎士の一員だったはずだ」
アルピナはカルス・アムラの森の外で会った軍を思い出す。確かにリーダー格らしき男がいたような気がするが、しかしだからと言って特別強そうな感じは抱いていなかった。その為、元来ヒトの子に対する興味関心が薄いことも相まって、完全に彼女の意識の片隅の更に奥底にまで追いやられてしまっていたのだ。
「そういえば、そんな男もいたな。確か、あの後ワタシ達に監視をつけていたようだったがな。それほどの地位にいた男だったとは」
「まあ、武力だけで決められるわけじゃないからな。それに、例え実力が高くても所詮は人間レベル。お前からしたら児戯にも等しいだろ?」
ああ、とアルピナは可憐かつ冷徹な笑顔で首肯する。青い瞳が一層の輝きを増し、悪魔的魅力を醸し出していた。
「それにしても、あの監視役は四騎士につけられていたものだったのか。無事に処理したのか?」
クオンはスクーデリアの方を見る。アルピナと自身の二つ分の紅茶を用意していた彼女は、アルピナに片方のティーカップを手渡しつつ空いた椅子に腰を下ろした。優雅且つ上品な所作で紅茶に口をつけた彼女は、艶やかな口唇を紅色に染めて微笑を浮べた。
「ええ、アルピナと二柱で丁寧に処理しておいたわ。今頃は、別の世界で新たな人生を歩むための準備をしているころではないかしら?」
「丁寧に……ねぇ」
クオンは言葉に詰まる。人間と悪魔では価値観が異なりすぎており、その言葉の裏に隠された真意には大きな剥離が生じる。しかし、違う世界で新たな人生ということは悪魔の権能で転生したということ。つまり、この世界を基準にしてみれば完全に死亡しているという事だ。
悪魔にとってヒトの子は管理する対象でしかない。故に、その命に対する価値観は同じ人間の視点とは大いに異なって仕方ないのだ。人間が家畜に対して情愛を抱かないのと同じく、悪魔が人間に対して慈悲を送るようなことはないのだ。
「恐らく、ワタシ達の会話が聞こえていたのだろう。そこから四騎士とやらの間で情報が共有され、魔王の名と連続させて調査に赴いたといったところか?」
「魔王ねぇ。神の子の文化文明で魔王なんて名称が実在するのかは知らないが、随分と大それた呼称だな」
「仕方ないわ。ヒトの子の領域を逸脱した英雄が敗北したんだもの。過剰な名称は時として適切な警戒心を抱かせるのに作用するわ」
「確かに、人間は往々として警告を軽視する傾向があるからな。多少の誇張もやむなしか? 同じ人間としては複雑な気分だがな」
クオンは窓の外に視線を送る。相変わらずの夜空は、相変らずの星空を浮かべていた。明日のことなど一切知らない空は、今この瞬間に至っても変わらない平和を映していた。
それは、明日の朝になっても変わらない。事が始まるその瞬間までは、普段と変わらない日常が普段と変わらない空の下で送られる事だろう。
次回、第81話は12/17 21:00公開予定です。




