第77話:天使長と悪魔公
漆黒の宵闇の天頂には満天の星々が瞬く。真円の月輪が煌びやかな宝石細工のように煌めくことで、無感情な夜の世界の密かな彩を添えてくれる。
本来であれば、人間は眠りにつく時間。しかし、中には物珍し気に目を覚ましたまま満天の宝石箱に瞳を輝かせている人もいるかもしれない。しかし、それは全体から見ればごく僅かでしかなく、やはり大多数は意識を肉体から手放すことで夢と幻想の世界に意識を預けているころだた。
そんな中、レインザードの一角に存在する巨大な教会。プレラハル王国の国教を礎にする大聖堂は町の中でも群を抜いて大きく、群を抜いて古かった。しかしそれでもなおその堅牢さは健在であり、度重なる改修と補修で維持されてきた種々の装飾が別次元の豪華絢爛さを齎してくれる。
そんな大聖堂の屋根の上、細く伸びる上に一柱の天使が立つ。背中から伸びる三対六枚の翼は、彼女が全世界に存在する凡ゆる天使の中で最高位にある熾天使であり、凡ゆる天使を統括する天使長であることの証左だった。
猫の様に大きな瞳は優しく垂れ、紅色の眼光は宵闇の中で月輪と共に可憐な瞬きを振り撒いていた。
冷たい風が吹く。季節にそぐわない肌寒さが彼女の全身を撫でるが、神の子であるが故に一切の冷温感覚は生じない。常に一定の凪いだ身体環境に包まれていた。
そんな彼女は、ただ無言で眼下の町を見る。深夜帯故に家々の灯りは全て消されており、昼の喧騒と熱気を冷ますように無言の休眠を貪っている。月輪と無限個数の星々が大地を照らし、小さく鳴る夜行性の羽虫の鳴き声以外は何も聞こえなかった。
そんな中、彼女は紅色の瞳を金色の聖眼に染め変える。何の変哲も無ければ気配もない。殺気も無ければ悪寒も生じていなかった。しかし、彼女は確信を抱いて聖眼を開く。魂が聖力を産生し、血液に乗って全身へと満ちる。頭の先から足の先までを濃密な聖力で包んだ彼女は微笑を浮べた。
その間、彼女の背後には宵闇に混ざって蠢動する影があった。気配もなく、音もなく、一切の存在感を滲出させる事無く、冷酷な覇気を内包しながら、徐に彼女へと近づいていく。
そして彼女はそんな陰に対して一切臆することも無く、これまでと変わらない微笑を浮べつつ背中を向けたまま声をかける。その声色は、まるで古い友人と久しぶりに再会したかのような優しさと、まるで家族と団欒を囲んでいるかのような穏やかさを両立させていた。
「10,000年振りですね。その様子では、なかなか元気にしている様ですね。安心しましたよ、アルピナ」
名を呼ばれた影は、諦めたようにその姿を顕現させる。濃密な魔力が陰から溶け出し、やがて人型を成す。
一見してどこにでもいる小柄な少女。猫のように大きな瞳は微かに吊り上がり、大海のように深い碧眼は宵闇の仲であっても輝きを失うことはなかった。黒い長丈のコートを羽織り、その下で揺れる同色の短いスカートから覗く雪色の大腿は天頂の星々のように輝かしい。風の揺れる濡れ羽色の髪は肩程に伸び、蒼い差し色が彼女の可憐な相好を強調していた。
熾天使の少女と悪魔公の少女。体格や背丈はほぼ同じ。しかし、まるで対極する魂の本質が静かに衝突し始めた。
「その言葉、そっくりそのまま返してやろう。10,000年経っても君は何ら変わらないな、セツナエル」
セツナエル。それが天使長である彼女の名前だった。我が君、と呼ばれることが常態化し、天使の最上位に君臨する彼女の名を呼べる存在は神の子全体で見ても数えるほどしかいない。こうして対等な立場で話せる存在というのは彼女にとって非常に貴重な存在だった。
「ふふっ。幼子の姿で生まれ、各魂が思い描く理想の姿形まで成長したらその時点で成長が止まる。天使も悪魔も龍も、神の子と呼ばれる存在は基本的に不老不死ですから」
「それは大多数の神の子の話だ。ワタシや君のような草創の108柱は神の手で創造された。故に、生まれた時からこの姿だっただろう? それと、今話しているのは内面の話だ。外面ではない。君の心の奥底にある真意は未だ読み解けそうにないが、それでも君が絶えず邪な野望を抱き続けているのは想像に難くない」
「あら、そちらの話でしたか。それでしたら、貴女は随分と変わりましたね。皇龍に絆されて、ヒトの子と肩を並べて、嘗ての傍若無人で傲岸不遜な態度が随分とお淑やかになりましたね」
どこか悲し気な相好と声色で感想を零すセツナエル。遥か大昔を思い出すように焦点は遠くへと飛び、そ嘗ての苦労を思い出すように微笑を浮かべる。
しかし、そんな彼女に反してアルピナはなんてことないように笑い、連続する過去と現在の時の流れを懐かしむように言葉を放つ。
「成長した、と言ってほしいものだな。我々にとっては大した長さではない10,000年だが、されど10,000年だ。使い方を見誤らなければ新たな価値観にすら出会える可能性を秘めていると言ってよいだろう」
「ええ。たった数十年しか生きることができない人間も、こうして日夜成長をしています。神の子である私達にできない道理はありませんからね。それにしても、貴女の価値観をこれほどまでに変えた旅路。いつか聞かせてほしいですね」
純粋な興味関心で求めるセツナエル。一切の悪意を持たない、純粋な感情だった。
「ハハハッ。そんなに気になるのであれば、自分で体験してみると言い。草創期に生まれた君なら、蒼穹を渡ることだって苦労はないはずだ」
それで、とセツナエルは話を転換させる。一瞬だけ開花した朗らかな談笑の空気は夜風と共に流れ去り、再び冷たい感情が二柱の間に渦巻き始めた。
「要件は何でしょうか? まさか、挨拶だけだなんて言いませんよね?」
澄み渡る夜空に曇天が湧き始め、無音の稲妻が町に落下する。空気が振動し、両者の覇気が臆することも無く衝突する。
「そのまさかだ。それとも、血を流すことを君は希望するか?」
アルピナは魂から湧出する魔力を手掌に集約させる。具現した魔力は細身の長剣へと変貌し、殺気を零す魔剣が彼女の瞳と共にセツナエルを睥睨する。それに対抗するようにセツナエルもまた聖力を放出する。集約された聖力は煌びやかな聖剣となって彼女の手に収まり、アルピナに対抗するように力強い眼光と殺気を返す。
「天使長と悪魔公が衝突する意味、理解しているのでしょうね?」
聖力と魔力の衝突。これまで幾度となく繰り返され、直近ではカルス・アムラの森でも激しく行われた。しかし、今回の衝突は次元が異なった。天使長や悪魔公と呼ばれる立場は伊達ではなく、それ以外の天使や悪魔とは一線を画す力を秘めている。
故に、今回の衝突が齎すはその周囲のみならず地界全体へと波及する。地界と龍脈を隔てる強固な膜がその衝突の余波で融解し、本来隔絶されていなければならないはずの地界と龍脈が部分的に接続してしまう。そして、地界に流入する龍脈は、宇宙線のように地界全体へと放射され、やがて二柱が存在するこの星にまで到達する。
天頂の星空が揺らめき、やがて龍脈と同じ琥珀色の空へと移ろう。それは、天変地異という生易しいものではなく、星全体の文化文明を灰燼に帰しかねない危険な代物だった。
セツナエルは三対六枚の翼を羽ばたかせる。一方アルピナは、彼女の言葉に無言の返答で睥睨しつつ、これまで秘匿し続けてきた三対六枚の翼は顕現させる。肩程の髪をハーフアップに纏めると冷酷かつ可憐な笑顔を浮かべた。妖艶な首筋が露わになり、対極する禍々しい翼が羽ばたくことで濃密な魔力が溶け込んだ風が吹き荒ぶのだった。
次回、第78話は12/14 21:00公開予定です




