第74話:到着
【輝皇歴1657年6月25日 プレラハル王国レインザード近郊】
険しい山脈が連なることで生み出される感動的なまでの絶景は、見る人を魅了する。レインザードの町を背後から抱擁するように聳える山々から吹き降ろす寒風が、季節外れの肌寒さを齎す。激しく上下する標高が、そこを歩む人々や動物達に頭痛や目眩を誘引させていた。
辺り一面が高山特有の寂しげな植生と疎らな野生動物の生活で構成された北方の地であるレインザードを目指して、一つの小隊規模の集団が馬の背に乗って身体を揺らしていた。身体には、あらゆる危険から身を護るための防具が纏われる。背中には、それらを排除するための武器や行軍の為に必要な諸々の補給品が背負われている。
プレラハル王国が誇る最高精鋭たる四騎士の一角にして国教を統括する天巫女、エフェメラ・イラーフ。同じく四騎士として彼女と肩を並べるアエラ・キィス。二人の人間を主体とし、その他多数の兵士が一糸乱れぬ隊列で馬を走らせる。馬の吐息が漏れ聞こえ、蹄鉄の音が地面を振動させる。千切れた雑草が風に舞い、抉れた土が音に踊った。
「もうすぐ到着しそうですね」
エフェメラは可憐な声色で呟く。その小柄な体格をそのまま声に落とし込んだようなお淑やかな声は、蹄鉄の音に掻き消されそうなほど儚い。並走するアエラは、そんな彼女の声を聞き漏らさないように耳を澄ませながら頷いた。
「ええ、そうね。……でも、ここまで何事も無くこれてよかったわ。一度くらいは魔獣と遭遇するかも、なんて思ってたけど拍子抜けね」
アエラは周囲を見渡しながら呟く。無用の警戒心で徒に疲れてしまったことを嘆くように愚痴を零す彼女の相好は、曇りつつもどこか明るさを取り戻すように変化している様だった。
魔獣と人間の関係は、過去も現在もそれほど大きく変わっていない。複数の人間で一体の魔獣と渡り合えれば御の字であり、ごく一部の強者、即ち逸脱者と称される者達だけが複数の魔獣を蹂躙することができる。
しかし、そんな安堵感を浮かべるアエラに対してエフェメラはどこか浮かない相好を浮かべる。まるで、この状況が納得いかないとばかりに猜疑心の瞳で周囲を警戒し続けていた。
「……寧ろ、静か過ぎると思いませんか? レインザードが襲撃に遭ったのはつい先日のことです。魔獣を全滅させたのならこれだけ静かでも不思議ではありませんが、報告書を見る限りその可能性は低いでしょう。何か裏があると思いませんか?」
「裏? どういうこと?」
「そうですね……何者かが、私達を襲わないよう魔獣に指示を出しているとかでしょうか?」
不敵な冷笑を浮かべつつ、顎に手を当てて考え込むように呟くエフェメラ。天巫女の名が嘘のように冷酷な相好は、とても民草の心の安寧と信仰の拠り所を守護する立場の人間とは考えられなかった。
何よそれ、とアエラは青ざめる。神様の見えざる手に市場を操作されているように、自身の生死の決定権を見えない誰かに操作されている事に対する拒絶感と嫌悪感が全身を駆け巡る。日輪が嫌になるほど天頂で輝き、対極する心情は恨めしそうにそれを睥睨した。
「そんなことが本当にあるって言うの?」
「あくまでも可能性の話ですよ。未だ敵の正体も目的も、全てどころかその一部ですら明らかになっていない現状です。何が起きても不思議ではないでしょう」
さて、とエフェメラは進行方向を見る。長く続いた上り坂の終わりが見え、その先に聳える高い城壁が姿を現した。魔獣からの被害を最小限に防ぐために用意されたそれは、あらゆる外敵から民草の生活を保障する母性の塊となって町を包み込んでいた。
「ようやく見えてきましたね」
「そうね。でも、ちょっと血の匂いがするわね。あれから十日も経つのよ。残りすぎじゃないかしら?」
「だとすれば、また新たな争いがあったということでしょう。まずは、その辺りの情報を町長に尋ねてみるとしましょう」
エフェメラとアエラは関所の前でお間を降り、手続きのために門番に話しかける。そして、予め伝書で申し送りしていたお陰もあり、大した苦労も時間も必要なく許可が下りたようだった。
そもそも、二人は四騎士であり、エフェメラに至っては国教の頂点に立つ存在。権力者であり為政者でもある二人が関所で止められるようなことは本来あるはずがないのだ。
そして、重厚な門が僅かに開けられ、エフェメラを始めとする一行は例ザードの町に足を踏み入れる。馬やその他補給品は町の兵士に預けられ、各自の宿に運ばれる。最低限の武器防具と私物だけを手に下彼女らは、それぞれ感慨深げに町の入り口広場を見渡すのだった。
魔獣被害に遭ったばかりとは思えないほどの平和と喧騒が入り乱れる光景。事前に情報を得ていなければ気付かなかっただろう。それは、長期かつ頻繁に繰り返される全国各地の魔獣被害の報告が、人々の脳裏から警戒心と不安心を麻痺させてしまった弊害なのだろう。それとも、魔獣の裏で蠢動する何者かが、人々の心を強制的に捜査しているのだろうか。
後者の可能性も否定できなかったが、肯定できるほど信憑性も無かった。ただの思考遊びにしかなってない、とばかりにその考えを破棄したエフェメラは、アエラに目線で合図を送って兵士に指示を出す。
「さて、漸く到着したけど、私達の仕事はこれからよ。私達はこれからこの町の町長の所に顔を出してくるから、皆は兵士の詰め所で話を聞いてきてもらえないかしら?」
アエラの指示に、麾下の兵士達は揃って敬礼を返す。了承の意と受け取ったアエラは、満足げに頷いて兵士達を送り出した。そして、喧騒止まない町の入り口広場には、エフェメラとアエラの二人だけが残された。
一方、そんな元気溌剌な態度を余すことなく発揮するアエラに対して、エフェメラはどこか心ここにあらずな様子で周囲に視線を泳がせていた。落ち着かない視線と体動は、不安げな柳眉と共にアエラの心を煽る。
「どうしたの?」
「何か……視線を感じませんか? まるで、誰かに見られているような……」
エフェメラの疑問に促されるように、アエラは周囲に意識を溶かす。喧騒の影で蠢動する悪意を探すように意識と視線を動かし続け、存在するかしないかも定かではない誰かを求めた。
「……いえ、何も感じないわ」
「そうですか。私の気のせいですかね?」
気のせいなのはいいことなのか、或いは悪いことなのか。事実として存在しないのであればいいことなのだが、その陰でほくそ笑んでいるのであれば悪いことになる。確証が得られない恐怖心に冷汗を流しながら、しかしだからといってどうすることもできない二人は暫くの無言を流す。
「……とりあえず、行きましょう。町長が待ってるわ」
「ええ、そうですね」
二人は、町の大路を歩く。四騎士の存在感と知名度は非常に鷹買う、国民でその名前と顔を知らない者はいないほど。故に、何事があったのか、と訝しがったり物珍し気に振り向く視線に僅かな羞恥心を刺激されながら、二人はリップサービスとして簡単な対応をしながら町長の公邸を目指すのだった。
そして、その陰では、二人の到着を喜ぶように笑う存在がいた。男一人と女二人。魔王と一部では称される仮想敵クオン、アルピナ、スクーデリアはフードで顔を隠したまま裏路地の影からその背中を追っていた。
「あの二人が四騎士だな。右がアエラ・キィス、左がエフェメラ・イラーフ。後者に関しては天巫女を兼ねてる」
クオンが二人に軽く紹介する。悪魔である二人より、人間であるクオンの方が人間社会の文化文明については一日の長があるのだ。
そして、そんな説明を聞きながらアルピナは含蓄ある物言いで呟いた。
「天の巫女……そして、エフェメラ・イラーフ……か。まったく、巫山戯たことをする」
「そうね。私がシャルエルに封印された時に存在しなかったことを考えれば、恐らく入れ違いになったのでしょうね」
納得いったかのように嘲笑する二柱の悪魔に対し、クオンは何が何やらわからないといった具合に首を傾げる。そして、脳裏で湧き上がる疑問符を打ち消すために二人に尋ねた。
「何の話だ?」
「そのままの意味だ。さて、そろそろ行くとしよう。これから忙しくなりそうだ」
猫の様な青い瞳を金色の魔眼に染めながら、アルピナは冷酷な眼光を鋭く輝かせる。傲岸不遜な態度で佇む彼女は、伊達に悪魔の頂点として長年君臨し続けているだけのことはあるほどの凄みで包まれていた。
次回、第75話は12/11 21:00公開予定です




