第73話:遭遇③
しかし、クオンはそんなイルシアエルが放つ猛烈な覇気に対して一切臆する様子は見られない。琥珀色の瞳が金色に染め替わり、冷静沈着な相好が一切ぶれることなくイルシアエルの聖眼を睥睨する。人間でありながら人間とは思えない迫力にイルシアエルは冷汗を流しながら震える切っ先を理性で固定させる。
そして、クオンはイルシアエルの努力をまるで位に返さないように冷淡な口調で語り掛けるのだった。
「イルシアエル……アルピナとスクーデリアから名前だけは聞いていたが、噂通りの力だな。それと、俺がアルピナと契約を結んだ理由の半分は単なる偶然だ。もう半分の理由は天使、お前達が原因だ。お前達が聖獣を地界に放たなければ起こり得なかった凶事が、俺とアルピナとの間に確実な楔を打ち込んだ。そんなお前達に何故、と問われる筋合いはないさ」
それで、とクオンは続ける。徐に差し向ける右の手掌が黄昏色に染まり、接続された異次元空間から一振りの剣を取り出す。
その剣は、一見してどこにでもある普通の剣でしかない。イルシアエルが手に持つ聖剣に到底及ぶとも思えない武骨なそれは、しかしただならぬ気配を隠すことなく溢出させ続けていた。その力は、天使であるイルシアエルの魂が絶対的な恐怖として警鐘を鳴らし、自身の命を刈り取り得るだけの力を有していることを嘘偽りなく提示していた。
「龍の力……」
「天使は悪魔に強く、悪魔は龍に強く、龍は天使に強い……だったか? 悪魔と契約したことで魂の半分が悪魔色に染まった今の俺では、天使を相手取るのは少々分が悪い。だが、龍の力があればその相性は逆転する。そうだろ?」
怒りと殺意の色で埋められた冷たい視線がクオンから放たれ、剣から零れる龍脈と併せてイルシアエルの無意識は後退の戦略を取らせようとする。しかし、理性がそれを拒み、眼前の男を排除する数少ない機会だと教えてくれていた。
イルシアエルは、そんな本能と理性の鍔競り合いを心中で俯瞰することで最適解を探し求める。存在するのか、或いは存在しないのか。一寸先すら視認できない深い闇の中から一条の光を探し求める様に、彼女はこの状況を打破できる秘策を手繰り寄せようと藻掻く。
しかし、現実は非常である。常日頃からの小さな積み重ねこそが個人を助ける力として機能するのであり、場の状況を反転させうる遺発逆転の秘術というのは往々にして存在しえないのだ。そうした力を持つのは限られた一部の存在の中の更に一部であり、平凡な天使の一欠片でしかないイルシアエルでは到底その領域に至ることはできない。
「聖獣が地界に存在するのは我が君の意志の上。例えそれがヒトの子にとって有害であろうとも、我が君の言葉は全てにおいて優先される。ただそれだけのことよ」
イルシアエルの反論に対して、クオンは何も答えない。曇った瞳で一心にイルシアエルを睥睨し、龍の剣と金色の魔眼で彼女の動きを制限させる。
暫くの無言が凪いだ。そして、遂にクオンは動き出す。イルシアエルが反応すらできない超速の剣技で、聖剣を握る彼女の手を両断する。その瞬間、両断されたことにすら気付かなかった彼女は永遠とも刹那とも感じる時間を送る。そして、一瞬の間をおいて噴き出す鮮血とともに、彼女は耐え難い疼痛に悲鳴を上げる。
「ああああッ‼」
鉄の香りを発散させながら、イルシアエルはうずくまる。そして、耐えがたい苦痛に相好を歪めながら顔を上げる。細く開いた瞳で辛うじてクオンを見た彼女は、彼が追撃を加えようと今まさに剣を振りかぶっている姿を視認して瞠目する。為す術もなく肉体的死を送られる不甲斐なさと得体のしれない恐怖に、声にならない声を発するイルシアエル。しかし、どれだけ待っても、どれだけ嘆いても、彼女のもとに第二撃が届くことはなかった。
恐る恐る様子を窺うように目を開くイルシアエル。その眼鼻の先で止められた切っ先に相好を強張らせつつ、その奥で繰り広げられる一連のやり取りに意識を傾ける。
「スクーデリア……!」
クオンは、遺剣を握る手に添えられた手を始点とし、その根本に至るまで視線を動かしつつその主の名を呼ぶ。鈍色の長髪を柔らに靡かせる長身の悪魔は、気品高い微笑を浮かべたまま子供に教え諭すように語り掛ける。
「止めなさい、クオン。貴方の気持ちはわからないでもないわ。でも、感情に理性を支配されるのは自身が未熟者であることを対外的に証明している様なものよ。アルピナの計画通りに事が運んでいる現時点、焦らなくても機会はいずれ訪れるわ」
スクーデリアの言葉に、クオンは大人しく遺剣をおろす。素直に実行に移すその様を微笑ましく見つめると共に、スクーデリアは無意識に彼の契約主であるアルピナと比較してしまった。
主人と従者でこうも態度が対極するなんて不思議だわ。クオンが素直なのか、それともアルピナが自由奔放すぎるのか、一体どっちなのかしら?
そんなことよりも、とスクーデリアは眼下に蹲る天使を見下ろす。とても高位階に位置する無翼の天使とは思えない無様な姿に、軽蔑にも似た冷たい魔眼でしか見ることができなかった。
「座天使に位置するとは思えない情けなさね、イルシアエル。もう一度天使の位からやり直したらどうかしら?」
座天使とは、全部で九つ存在する天使の位階の上から三番目に相当する位階である。翼を持たない唯一の階級であるその階級は、蒼穹の中に世界が形成されるより以前から存在する古い天使が属する。悪魔の中では悪魔侯に相当する彼ら彼女らの実力は、ヒトの子では勇者の領域に至ろうとも決して届くことがない至高の領域。
しかし、現状はクオン一人の何でもない攻撃にすら抗うことができずじまい。それはイルシアエルが天使として劣っているのか、或いはクオンがヒトの子としての領域から足を踏み出してしまっているか。その答えを知るスクーデリアは、まるで挑発するようにイルシアエルを嗤う。
「まさか……そんなことが……?」
「バカね。智天使にすら致命の一撃を与えるクオンに貴女が叶う訳ないに決まってるわ」
イルシアエルは、足取り悪く立ち上がる。血の気が失せた蒼白な顔面を苦痛に歪めつつ、肩で息をするように大きく身体を上下させる。そして、霧散した聖力を搔き集める様に意識を集中し、意識を手放さないように鋼の意志を拵える。
「シャルエル様を……てっきりアルピナ公が仕留めたと思っていたけど……まさか人間が……いや、そんなわけ……」
狼狽するイルシアエル。もはや身を護る事すら忘れて無防備な身体を曝け出す彼女の佇まいに、クオンもスクーデリアも戦いの意欲を失う。すぐ横に侍る魔物の鼻先を撫でながら、至って冷静な口調で彼女を突き放す。
「町に戻ればテルナエルがいるでしょう? 幾ら天使とは言えども、聖力で血の代替を成すには限界があるでしょう? 失血で肉体が崩壊しないうちに、あの子に直してもらうことね」
スクーデリアは魔物を平野に放つ。そして、剣を異空収納に収めたクオンを伴ってレインザードの町へ帰っていくのだった。そんな二人の後ろ姿を、イルシアエルは苦痛の表情で睥睨するしか出来なかった。
そして、イルシアエルを放置したクオンとスクーデリアは、レインザードの関所を潜る。クオンの身分はマソムラに住んでいた当時のものをそのまま流用できるが、スクーデリアのものは存在しない。そのため、イルシアエルやテルナエルと同じく魔法を応用して作成した偽造文書でもって対応することになる。
「あいかわらず、魔法は何でもありだな」
「仕方ないわ。こうでもしないと町にへ入れないもの。寧ろ、アルピナみたいに無断で空から侵入しようとしないだけでもありがたい方ではないかしら?」
「アイツを同じ思考の枠組みで考えるな。それはスクーデリアが常々言ってる事だろ?」
クオンに呆れ声は、溜息と共に零れる。そうだったわね、と乾いた笑いを零すスクーデリアもまた、同じ苦労を味わってきたのだろう。それも、クオンと異なり無限にも思えない長い時間を経験してきたのだ。その思いは彼の比ではないほどに重たいだろう。
そして、無事に関所を通過した二人は、殺伐としたやり取りから打って変わった平和な喧騒の中に身を溶け込ませるのだった。
次回、第74話は12/10 21:00公開予定です




