第72話:遭遇②
同時刻、イルシアエルは町の外へ足を動かしていた。テルナエルと異なり人間の文化文明に然したる興味を持たない彼女は、とりわけ人間社会の文化文明を堪能しようとは思わなかった。
一方、彼女は天使という種族であることを何よりもの矜持として掲げてきた経験がある。天使としてヒトの子を管理し、同じくヒトの子を管理する悪魔と敵対することで神の意志を代行する。それが天使としての本分であり彼女の使命である。
そんな彼女がレインザードの町で龍魂の欠片探しと並行して行おうとしている事。それは、地界に新たに出現した魔物の真偽を確かめること。そして、場合によってはそれらを排除することにある。
魔物は悪魔のなりそこないであり、天使のなりそこないである聖獣とは対になる存在。天魔の理が正常に作動している限り、魔物は聖獣に敵う事はなく、当然その完全体である天使に敵うことはない。そのため、天使であるイルシアエルにとって魔物は然したる脅威足りえない。それでも、彼女は魔物が地界に出現していることが確認でき次第それを排除する覚悟を決めていた。
何故なら、彼女にとって聖獣が地界に満ちていることは全てにおいて正しいことであり、魔物がそこに介入する余地はあってはならないのだ。神龍大戦の勝者であり神の意志の代行者である天使。その一族が地界を管理するのは当然であり、敗残者である悪魔が介入するのは不作法とも言える。
イルシアエルは、独りレインザードの入り口広場に到着した。高い城壁の麓で、誰もが平和の風を一身に浴びながら思い思いの時間を過ごす。大人も子供も、男も女も。それぞれがそれぞれの思い描く理想郷の様な平和を探し求め、それを実現するように藻掻いている。
日輪が眩く輝く。神の子という特殊な出自のお陰で外気温による影響を一切受けることがないイルシアエルと言えども、その眩しさには辟易とする。涼しい風が地面を駆ける。髪と服が靡き、町の外に蔓延る複数体の魔物が零す魔力を届けてくれる。予め開いていた聖眼がそれを受け取り、彼女の魂がその情報を基に闘志を産生する。握る拳に力がこもり、壁を隔てた先から沸き立つ戦いの香りに笑顔を見せるのだった。
関所を潜り、イルシアエルは外に出る。身元を保証する諸々の書類は、天使の力を駆使すればどうとでもなる。偽造書類如きに聖法を駆使するのは勿体ないような気がしないでもなかったが、中途半端な偽造で後々に面倒事が増える可能性を考慮したら、この程度はあきらめがつくのだ。我が君の目的のために、僅かな波紋すら沸き立つのをイルシアエルは防ぎたかった。その為の処置だ。
さて、とイルシアエルは息を吐く。レインザードの町は息が詰まって敵わなかった。とりわけ治安が悪かったり種族的に毒となる物質が広がっているわけではなかったが、あのようなヒトの子特有の色に染まった空間というのはどれだけ時間が経っても慣れるものではなかった。
魔物がいくつか残っているな。確か、英雄とやらがかなりの数を討伐したらしいけど……残っていたのか? それとも、新たに渡ってきたか?
それにしても、とイルシアエルは疑問符を頭に浮かべる。
魔物は魔界から外に出る手段を持たないはず……と、なると誰かがこの地界に招き入れたことになるけど、一体誰が何のために?
イルシアエルの脳裏に浮かぶのは二柱の悪魔。それぞれ太古の昔から存在する大悪魔であり、その内の一柱はこの世界のみならず蒼穹を挟んだ他の世界に存在する全ての悪魔を含めた中でも頂点に立つ悪魔公アルピナ。その目的までは窺い知れないが、彼女の性格を考えればどんな手を使ってきてもあり得ない話ではなかった。
やれやれ、とイルシアエルは溜息を零す。アルピナやスクーデリアの実力をよく知っているからこその諦観だった。アルピナもスクーデリアも、イルシアエルより遥かに古い時に生まれた古参の神の子。或いは草創期生まれとも呼称される二柱は、天魔の理を前にしても容易にその実力差を覆しうる強大な存在。
記憶ではなく魂が当時の敗北をもとに警鐘を鳴らし、名前を脳裏に思い浮かべただけでも四肢が軽く震える。過去に一度敗北した事実が鮮明に残っているが故の恐怖心だった。
しかし、だからと言って魔物退治を取りやめようとは思わない。幸い、付近には多数の聖獣が棲息している様だった。数の力に身を任せれば、アルピナが来る前に全てを終えて立ち去る事すらできるだろう。
そう考えた彼女だったが、しかしその目論見は水泡に帰す。
彼女の聖眼が、彼女が最も望んでいなかった存在の一つを捉える。それを捉えた瞬間、彼女の聖眼は溢れんばかりの情報量に疼痛を生じさせ、頭痛と目眩が全身を襲撃する。
「これは……スクーデリアの魔力⁉」
イルシアエルは、痛む聖眼を閉じつつその魔力が発生した方角を向く。平野の遠くでは一組の男女が聖獣を相手に剣を振るい、圧倒的な実力でもって大量の骸を積み上げていた。血飛沫が噴出し、長閑な平野を血と肉の香りが満たす。
そして、そんな狼狽する彼女姿に気付いたのか、スクーデリアはイルシアエルの方を振り向く。その横に並び立つ男に見覚えはないが、どうやらただの人間のようだ。辛うじて開く聖眼でその魂を見透かしたイルシアエルはそう結論付ける。
しかし、仮にその男が純粋な人間だとしたら、はたしてその正体は何だろうか。スクーデリアの強力な魔力の渦の中誌うんちでありながら、何故平然と肩を並べることができるのだろうか。
……契約者?
仮に契約を結んでいた場合、天羽の楔と異なり明確な主従関係にはないものの、従者は主人の魔力に対するある程度の耐性を得ることができる。しかし、草創期の悪魔であるスクーデリアの膨大な魔力に耐えられるほど優秀ではないことを彼女は知っていた。その為、ある程度の耐性は得ているものの、その大半は彼自身が持つ魔力耐性によって得られたものだとイルシアエルは確信する。
さらに言えば、魂の色が異なっていた。男の魂の色はスクーデリアの魂の根源が持つ色とは異なっていた。しかし、その魔力の色は彼女でも見覚えがある見知ったものだった。
アルピナの契約者……だからこれだけの耐性が得られたってわけ?
合点がいったイルシアエルは、漸く心を落ち着かせることができた。そして、それを待ってましたとばかりにスクーデリアはイルシアエルに声をかける。
「あら、久し振りねイルシアエル。あの時アルピナに殺されたはずだけど、どうやら無事に復活できた様ね」
「スクーデリア侯……何故ここに?」
「フフッ、貴女達には知る必要のないことよ」
それにしても、とスクーデリアはイルシアエルを見下ろす。イルシアエルもそれなりの長身の美女ではあったが、それでもスクーデリアには及ばなかった。よく似た二柱ではあるが、しかし、年の功のお陰かスクーデリアの方が妖艶な落ち着きが多いようにすら見える。
「貴女こそ、こんなところで何をしてるのかしら? 貴女達が我が君と呼び慕うあの子の命令かしら?」
「何故それを?」
瞠目するイルシアエルを余所に、スクーデリアは微笑を浮かべる。一国が容易に傾きそうなほどの絶世の美人顔がさらに艶やかさを増し、その淡いドレスワンピースとともに、平野において不釣り合いな気品を放つ。
「フフッ、どうして知らないと思ったのかしら? あの子との付き合いは私の方がずっと長いのよ」
穏やかな水面の下では言外に激しい衝突を繰り返す二柱の神の子。一人蚊帳の外に置かれたクオンは、ただ呆然と二柱を交互に見る事しか出来なかった。そんな彼を気にするように、イルシアエルは彼を見据える。
「お前は何者だ? ただのヒトの子でありながら、何故アルピナ公と契約を結んでるの?」
聖剣を抜き放ち、彼に切っ先を向けるイルシアエル。その金色の聖眼は、獲物を見定める猛禽類のように鋭利に輝いていた。
次回、第73話は 12/9 21:00公開予定です




