第71話:遭遇
少し遅くなってしまい申し訳ありません
別れた後、テルナエルは大路をのんびりと歩く。大路の両脇から漂う芳醇な香りに誘われるままに、彼は右往左往しながら顔を覗かせる。口腔を唾液で満たしながら、用意した人間社会用の貨幣が入った革袋を握り締める。そして、人間の社会ルールにやマナーに則った振る舞いを忘れない。翼を持たない特殊な天使であるがゆえに、不必要な騒動や不可解な言動を見せなければ誰にもその存在を訝しがられ鵜ことはないのだ。
やっぱり、地界の食べ物っておいしいのばっかりで最高だね。
天使は食事をする必要はない。神の子と呼ばれる特別な位階に属する種族は総じて特別な力を持つが故に、外部からのエネルギー摂取を必要としない。天使なら聖力、悪魔なら魔力、龍なら龍脈が魂の内奥に備えられた生成機関から生み出されることで、彼ら彼女らの肉体を支持する。
しかし、食事を必要としないからと言って食事を摂取できない訳ではない。食べようと思えば食べられるし、人間と同等の味覚を持ち合わせている。その為、テルナエルの様なヒトの子の文化文明を好む物好き達は、こうして人間社会に溶け込むことがままあるのだ。
喧騒と芳香が交差する。誰もが平和な日常を貪るように行き合い、誰もが危険を忘れて長閑な平和に胡坐をかいて日輪を仰ぐ。すぐ近くに潜む天使や悪魔の存在に気付くことなく、神の子同士の争いが自らの生活領域で蠢動していることに気付くことなく、自分たちの平和が他者の勝手で容易に崩壊する危うさに気付くことなく時間を送っていた。
そして、テルナエルはそんな彼らの無防備さを心中で嘲笑しつつ、澄み渡る青空を仰ぎ見る。水面下で蠢動する悪意と悪意の衝突が、近い将来に地界全体を揺るがす大激突を発生させることを夢見つつ、その時に訪れるであろう天使と悪魔の大戦争の到来を心待ちにする。購入した諸々の食べ物をそれぞれ頬張りつつ、こうした人間社会で生まれたあらゆる食べ物が平和の薄氷の上に成り立っていることを哀れむのだった。
平和じゃないとこういうのも食べられないけど、我が君の為だし仕方ないよね。
それからしばらくして、テルナエルは通りの向こうから歩いてくるフードを被った人間の姿に目を奪われる。深いフードでその相好を拝むことはできない。季節に合わない長い黒コートを身に纏い、その下には少女らしい短いスカートが顔を覗かせる。その裾と長いブーツの間から見える雪色の大腿は日輪の下で輝く。その雰囲気は可愛らしい少女のよう。
しかし、テルナエルは本能でそれが人間ではない事を察知する。人混みの中で聖眼を開くわけにはいかな。前触れも無しに瞳が金色の染まれば、それを見て不審に思わない人間はいないだろう。それが騒ぎに発展するかどうかは別として、その存在を訝しがる人間がいないとは言い切れないのだ。
悪魔だ。
テルナエルは直感で識別する。その人物が自らと対になる存在、即ち悪魔だと解釈するに足る客観的な確証はない。しかし、人間では到底かなわない長い時を生きたために得られた豊富な経験値が、彼女の魂に警鐘を鳴らしていた。
あの深いフードは瞳を隠すため? あれなら魔眼を開こうとも絶対に不審がられないし……
やられた、と彼は心中で舌打ちを零す。こちらは聖眼を開くことは出来ず、あちらは魔眼を容易に開き得る可能性を秘めている。或いは既に開いているのかもしれない。そうであれば、圧倒的なまで優位性が相手に移譲されているということであり、仮に直接的な戦闘が発生し場合に圧倒的なまでの不利的状況に置かれざるを得なくなってしまう。
二人は無言で近づく。周囲を行き交う民草は、そんな二人の間を飛び交うただならぬ殺気に気付くことはない。平和な町の一角で湧き上がろうとする戦いの狼煙は、世界一静かな戦争へと発展する。
二人は無言で対面し、見えない殺気で殴り合う。溢出する聖力と魔力が人間社会に影響を及ぼさない程度に衝突し、晴天とは不釣り合いなほどのどす黒い感情が渦巻く。
その時、二人を取り囲むようにして透明な魔力の膜が展開される。それを境に内外の領域は隔絶され、互いの音は完全に止められる。外から中の音を聞くことは出来ず、中の音が外に漏れ聞こえることはない。絶対的な秘匿領域が確立され、二柱の悪魔の子は、それぞれの意志と思惑を曝け出す。
「やっぱり、悪魔だったね? 僕に何の用?」
「久しぶりだな、テルナエル」
少女はフードを外す。蒼いアクセントが入った肩程の黒い髪と、煌びやかな金色の魔眼が露呈され、テルナエルにとって因縁深い悪魔の長アルピナがその姿を見せる。
口調と声色に身を強張らせたテルナエルは、彼女の一連の動きを食い入るように見つめる。正体不明の緊張感が全身を拘束し、指先一つ動かすことができずに無防備な姿を晒す。しかし、そんな彼に危害を加えようとすらしないアルピナは、相変らずの傲慢さと冷酷さを隠そうとしない明朗快活な立ち振る舞いでテルナエルの瞳を見据えた。
「アルピナ公……」
「すでに復活しているとはな。君が復活しているということは、イルシアエルも同様か?」
テルナエルは口腔に滲出する唾液を飲み込む。そして、脳裏にあらゆる会話の可能性と彼女の真意を予測しつつ徐に返答する。
「……イルも無事に復活したよ。アルピナ公が復活の理に入れてくれたおかげでね」
「魂の管理は神の子として最低限の義務。君達がワタシ達悪魔の魂を霧散させたような愚行を繰り返すわけがないだろう? 尤も、当時は戦争も激化の一途を辿っていた。君達ほどではないとはいえ、ワタシ達も君達天使の魂を霧散させてしまった前科がある。今さらそれを咎めるつもりはないがな」
それで、とテルナエルは冷汗を流しながら尋ねる。恐る恐るといった具合に尋ねるその仕草は、普段の天真爛漫な態度とはまるで異なる。両親の怒りの琴線に触れた幼子のように萎縮し、かつての敗北が脳裏に過ぎる。
「ここまでなんの様で来たの? やっぱり、龍魂の欠片があるって噂は本当だったんだね」
「ほう、やはり君達もその情報を掴んでいたか。君達が龍魂の欠片を欲するのは、ワタシ達の旅路を妨害したいだけか? 或いは欲するだけの尤もらしい理由があるということか?」
「さあね? 僕達は我が君の願いの通りに動いてるだけだから」
それよりさ、とテルナエルは金色の聖眼を開く。最早、人目を気にしているだけの余裕はなかった。聖力を抑えることもやめ、唯一翼だけは秘匿したままアルピナを睥睨する。焔のように燃え滾る不可視の聖力が全身から湧出し、アルピナはそれを見て不敵な笑みを浮かべる。
「此処で戦うつもり?」
「まさか。負ける可能性はゼロだが、だからと言って徒に戦場を生み出す程愚昧ではない。それに、今戦争を広げてしまえば肝心の龍魂の欠片が見えなくなってしまう可能性があるからな」
さて、とアルピナは腰に手を当てる。可憐な相好が微笑を浮べ、悪魔という種を体現する様な不敵な雰囲気がテルナエルの前に立ち塞がる。絶対的な自信に満ち溢れた清々しいまでの無防備な出で立ちは、そのまま彼女の性格を体現していた。
「折角の再会を祝いたいところだが、ワタシ達にもしなければならない事があるからな。……そうだな、君もワタシ達と一緒に来るか?」
「いくわけないじゃん。そんなこと、アルピナ公だって承知でしょ? そもそも、今の状況を考えたら天使と悪魔が一緒に行動するメリットなんてないし」
「ああ、そうだろうな。ワタシも、君を仲間に迎え入れたところで扱いに困る」
アルピナは魔力の領域を収納する。そして、無言のままその場を歩き去った。慌てて振り返るテルナエルだったが、既にアルピナの姿は何処にもなかった。
何だったんだろう、今の……。
テルナエルは、呆然としたまま多くの人間で溢れ返る大路を見つめる事しか出来なかった。
次回、第72話は12/8 21:00公開予定です




